2016年7月29日金曜日

個体とは偏ったものである

 中心的な軸を欠きながら、異種のものとさまざまに結びつく生。そこでは、守ろうとして固執する貧相な自己はない。神経症的に発動させる正義もない。驚嘆すべき他者も神も、他界のヴィジョンも要請されることはない。それ自身が多種多様に、姿を変えながら生きつづけるもの。倫理の議論は、個体を描くこの水準に根ざさなければならない。
 見方をかえよう。ひとつひとつの存在がある。〈私〉でもいいし、ひとつひとつの葉でもよい。すでに語ったように、〈私〉やひとつひとつの葉は、それぞれが個体である。だからそれは、いつも特異なものである。特異であることを、まずは肯定しなければならない。特異であるとは、〈私〉やひとつひとつの葉が、つねに唯一無比の存在であることを意味している。しかしひとつひとつの存在は、中心ではない唯一無比である。それは、ひとつひとつが普遍(理念)に属しながら、それぞれに問題を設定し、それぞれに問題を解くものであるから特異な唯一無比である。
 正しい問いの解き方はない。本当の〈私〉も、モデルとなる理想の葉もない。そんなものはどこにもない。〈私〉であることそのものが、決まりきった分類からいつも逸れていくからだ。明確な分類を作成し、個体をそこに押し込めてしまうならば(=つまり個体を分化の水準で描ききるならば)、個体はそのあり方において、そうした分類をいつも溢れかえっていく反乱そのものである。ヒエラルキーを描きだし、そこに定位しようとするならば、個体はいつもそれを崩していき、自らの姿をも組み替えていく。個体とは、予見不可能な生成として、ハイブリッド(それ自体が異他的)であることの肯定そのものであるからだ。
 個体とは、揺らぎでしかありえず、不純でしかありえず、偏ったものでしかありえず、幾分かは奇形的なものでしかありえない。揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いを担う実質であるもの。それをはじめから、そのままに肯定する倫理を描くことが要求されている。実際にはそれは、生きつづけることの過酷さをあらわにするものでもあるといえるだろう。なぜならばそれは、死の安逸さも、他者による正当化も、正義による開きなおりもありえない、変化しつづける生の流れを肯定するだけの倫理としてしか描けないのだから。

(檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』pp.105-107、太字は引用時の編集による)

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