2017年11月27日月曜日

レヴィナス『全体性と無限』(岩波文庫)の序文より

 私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。それを知ることこそがもっとも重要であることについては、たやすく同意がえられることだろう。
 聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである。そうであるなら、聡明さは、戦争の可能性が永続することを見てとるところにあるのではないか。戦争状態によって道徳は宙づりにされてしまう。戦争状態になると、永遠なものとされてきた制度や責務からその永遠性が剥ぎとられ、かくて無条件的な命法すら暫定的に無効となるのである。戦争状態がありうることで、人間の行為のうえにあらかじめその影が投げかけられている。戦争はただたんに、道徳がこうむる試練のうちにーーしかも最大のそれとしてーー位置を占めているだけではない。戦争によって道徳は嗤うべきものとなってしまう。手だてのすべてをつくして戦争を予見し、戦争において勝利する技術、つまりは政治が、かくして、理性のはたらきにほかならないものとして理性に課せられることになる。哲学が素朴さに対置されるように、政治が道徳に対置されるのである。

(引用終わり)

 僕の価値観から見るに、これほど鮮烈な問題提起をしている文章はないと思う。人類は地球上で有史以来、戦争をし続けてきたし、今でも戦争をし続けている。一秒たりとてそれが止まったことはない。戦争が終わる見込みもない。その意味で、戦争の可能性は永続し続けている。
 僕らは普段、局所的に眺めれば道徳が成立しているようにみえる世界で生きている。日本列島にある日本という国家は、人権と民主主義を基調とした憲法に基づく政府のもとで、内乱や民族紛争などもなく、他国の侵略のような危険もとりあえずはなく、良好に統治されている。しかし、ここには二つの欺瞞があるように僕には思える。
 一つは、既に述べたように、僕らがこの日本で安穏ながらも大変な日常生活をしている今でも、地球上の至る所で戦争は現に起きているということ。
 二つ目は、テキストの読解としては危ういのだが、日本でも、抽象的な意味での〈戦争〉は続いているということ。それは例えば、最近の分かりやすい言葉でいえば「格差社会」と言えるかもしれない。物理的な意味での暴力や、その暴力に基づく狭義の戦争に限らず、誰かが誰かの尊厳を踏みにじるということ、権力闘争や経済的利害に基づく政治(レヴィナスがいうところの「政治」ではなく、一般的な意味での政治)、そういうことの集積で社会は成り立っていると思う。これは日本に限らずありとあらゆる国で。人間は争い続けて生きていて、その生々しい現実に辛うじて蓋をしているのが「道徳」で、となると、「私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか」となる。

上手く書けないのだがそんな感じ