2016年8月15日月曜日

レヴィナス『全体性と無限』に以下のような一節がある(らしい)。
 個別的な〈もの〉は、ある面では工業都市に似ている。工業都市にあっては、いっさいが生産という目的のために適合させられている一方で、工業都市は煙にみち、屑と悲しみとにあふれて孤立しているのだ。〈もの〉にとっての裸形とは、その〈もの〉の存在が目的にたいして有する余剰のことなのである。

2016年8月14日日曜日

『風の歌を聴け』の一節

以下、引用。
 二人目の相手は地下鉄の新宿駅であったヒッピーの女の子だった。彼女は16歳で一文無しで寝る場所もなく、おまけに乳房さえほとんどなかったが、頭の良さそうな綺麗な目をしていた。それは新宿で最も激しいデモが吹き荒れた夜で、電車もバスも何もかもが完全に止まっていた。
「そんな所でウロウロしてるとパクられるぜ。」と僕は彼女に言った。彼女は閉鎖された改札の中にうずくまって、ゴミ箱から拾ってきたスポーツ新聞を読んでいた。
「でも警察(おまわり)は食べさせてくれるわ。」
「ひどい目にあわされるぞ。」
「慣れてるもの。」
 僕は煙草に火を点け、彼女にも一本をやった。催涙ガスのおかげで目がチクチクと痛んだ。
「食ってないのか?」
「朝からね。」
「ねえ、何か食べさせてやるよ。とにかく外に出よう。」
「何故食べさせてくれるの?」
「さあね。」何故だかは僕にもわからなかったが、僕は彼女を改札からひきずり出し、人通りの途絶えた道を目白まで歩いた。
 そのひどく無口な少女は一週間ばかり僕のアパートに滞在した。彼女は毎日昼過ぎに目覚め、食事をして煙草を吸い、ぼんやりと本を読み、テレビを眺め、時折僕と気のなさそうなセックスをした。彼女の唯一の持ち物は白いキャンバス地のバッグで、その中にはぶ厚いウインド・ブレーカーと2枚のTシャツ、ブルー・ジーンが1本、汚れた3枚の下着とタンポンが1箱入っているだけだった。
「何処から来たの?」
 ある時、僕はそう訊ねてみた。
「あなたの知らない場所よ。」
 彼女はそう答え、それ以上は口をきかなかった。
 僕がある日スーパー・マーケットから食料品の袋をかかえて戻ってみると、彼女の姿は消えていた。彼女の白いバッグも消えていた。それ以外に消えたものも幾つかあった。机の上にばらまいておいた僅かばかりの小銭と、カートン・ボックス入りの煙草、それに洗い縦の僕のTシャツである。机の上には書き置きらしいノートの切れ端があり、そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。恐らく僕のことなのだろう。(村上春樹『風の歌を聴け』19節より)

  「そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。恐らく僕のことなのだろう。」というのが、非常につらい気分にさせる一節。 確かにこれは「嫌な奴」だ。『風の歌を聴け』は、29歳の「僕」が、8年前のことを振り返るという構造で書かれていて、さらにその8年前の21歳の「僕」が、「これまでに寝た三人の女の子」を振り返る部分があり、その二人目が上記の引用部分ということになる。一人目の女の子が17歳のときで、三人目の女の子は大学で出会ったと文中に明記されているが、この「二人目の相手」については、相手が16歳だったと書かれてあるだけで、「僕」のその頃の年齢は明記されていない。状況からすれば、19~20歳の大学1~2年生の頃と判断するのが妥当だろう。
 その自分を振り返る21歳の「僕」を、さらに29歳の「僕」が振り返り、文として書き留めているということになる。「そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。恐らく僕のことなのだろう。」という一文にも、それだけの時間の幅が刻印されているように思う。それが余計につらく感じさせる。



2016年7月29日金曜日

個体とは偏ったものである

 中心的な軸を欠きながら、異種のものとさまざまに結びつく生。そこでは、守ろうとして固執する貧相な自己はない。神経症的に発動させる正義もない。驚嘆すべき他者も神も、他界のヴィジョンも要請されることはない。それ自身が多種多様に、姿を変えながら生きつづけるもの。倫理の議論は、個体を描くこの水準に根ざさなければならない。
 見方をかえよう。ひとつひとつの存在がある。〈私〉でもいいし、ひとつひとつの葉でもよい。すでに語ったように、〈私〉やひとつひとつの葉は、それぞれが個体である。だからそれは、いつも特異なものである。特異であることを、まずは肯定しなければならない。特異であるとは、〈私〉やひとつひとつの葉が、つねに唯一無比の存在であることを意味している。しかしひとつひとつの存在は、中心ではない唯一無比である。それは、ひとつひとつが普遍(理念)に属しながら、それぞれに問題を設定し、それぞれに問題を解くものであるから特異な唯一無比である。
 正しい問いの解き方はない。本当の〈私〉も、モデルとなる理想の葉もない。そんなものはどこにもない。〈私〉であることそのものが、決まりきった分類からいつも逸れていくからだ。明確な分類を作成し、個体をそこに押し込めてしまうならば(=つまり個体を分化の水準で描ききるならば)、個体はそのあり方において、そうした分類をいつも溢れかえっていく反乱そのものである。ヒエラルキーを描きだし、そこに定位しようとするならば、個体はいつもそれを崩していき、自らの姿をも組み替えていく。個体とは、予見不可能な生成として、ハイブリッド(それ自体が異他的)であることの肯定そのものであるからだ。
 個体とは、揺らぎでしかありえず、不純でしかありえず、偏ったものでしかありえず、幾分かは奇形的なものでしかありえない。揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いを担う実質であるもの。それをはじめから、そのままに肯定する倫理を描くことが要求されている。実際にはそれは、生きつづけることの過酷さをあらわにするものでもあるといえるだろう。なぜならばそれは、死の安逸さも、他者による正当化も、正義による開きなおりもありえない、変化しつづける生の流れを肯定するだけの倫理としてしか描けないのだから。

(檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』pp.105-107、太字は引用時の編集による)

2016年7月27日水曜日

ツイッターで、ふぁぼされた数だけ好きな歌詞を書くっていうのでやったやつ。

1.na,ka,ta nakata na,ka,ta nakata. I'm a perfect human.. We live in Tokyo na,ka,ta nakata. I'm a perfect human.. We believe in new God.
2.タクシードライバー 苦労人と見えて私の泣き顔見て見ぬふり 天気予報が今夜も外れた話と野球の話ばかり 何度も何度も繰り返し
3. 少しだけ無理をして誰かに合わせてみたけどそれ程にね この世界は狭くもない筈でしょう あふれ出るやさしい歌を聞いて空色の猫が行く 彼の胸に響くたった一つの唄声を探してる
4.小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから No1にならなくてもいい もともと特別な Only one.
5.'イチヌケタ'ってわかりゃしない退屈ならもてあましてる希望と破滅が同じにみえたこの夜はあぁなんて素敵な夜 一番素敵だった日
6.カチューシャ 外しながら君がふいに振り返って風の中で微笑むだけでなぜか何も言えなくなるよこんな思っているのに... カチューシャ 外しながら長い髪をほどくようにいつのまにか大人になって僕の手には届かないくらいもっと好きになるよ
7.宇宙船が目の前に降りたら迷わず手を伸ばし その船に乗り込みたいその日 一日を悔やみたくないからきっと友達だって残し 地球を旅立つの
8. 頑張れ頑張れ勝ち負けだって本当は大事なことなんだね頑張れ頑張れそうさ人生は引き返せない.
9.片隅に捨てられて 呼吸をやめない猫もどこか似ている 抱き上げて 無理やりに頬よせるよ
10.The wind, town and flowers, we all dance one unity
11.いつも 君と 待ち続けた 季節は何も言わず 通り過ぎた雨はこの街に 降り注ぐ少しの リグレットと罪を 包み込んで 泣かないことを 誓ったまま 時は過ぎ痛む心に 気が付かずに 僕は一人になった
12.カセットのボリューム上げた 日曜の車は混んでいる バックミラーの自分を見て 今度こそは意地を張らない 海岸通り過ぎると 君の家が見える 過去も未来も忘れて 現在は君のことだけ
13.はっきりさせなくてもいいあやふやなまんまでいい 僕達はなんなとなく幸せになるんだ 何年たってもいい 遠く離れてもいい 独りぼっちじゃないぜウィンクするぜ
14.もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら 塗り潰してよ キャンパスを何度でも 白い旗はあきらめた時にだけかざすの 今の私はあなたの知らない色
15.叶いもしない夢を見るのは もう止めにすることにしたんだから 今度はこの冴えない現実を 夢みたいに塗り替えれば良いさ そう思ってんだ 変えていくんだ きっと出来るんだ
16.人は裸で 生まれた時は 誰も愛され 同じなはずがどうしてなのだ 生きていくうち運命(さだめ)は別れ むごいくらいだ 人の目見たり 見れなかったり 恋を知ったり 知れなかったり. それなら僕は いっそなりたい 死ぬまでベイビー 赤ちゃん人間
17.耳をすませば 聞こえる君の鼓動 世界中で私だけが聴いている音
18.まいにち まいにち ぼくらはてっぱんのうえで やかれて いやになっちゃうよ あるあさ ぼくは みせのおじさんとけんかして うみに にげこんだのさ はじめて およいだ うみのそことっても きもちが いいもんだおなかの あんこが おもいけどうみは ひろいぜ こころがはずむ .
19.叶えたい 夢もあった 変わりたい 自分もいた 今はただ なつかしい あの人を 思い出す 誰かの歌が聞こえる誰かを励ましてる 誰かの笑顔が見える悲しみの向こう側に 花は 花は 花は咲くいつか生まれる君に 花は花は花は咲く 私は何を残しただろう
20.面倒臭ぇ! 生きていかなきゃならないのは
面倒臭ぇ! 心配事や難しいことが
絶え間ねぇ! 君を悲しませる人全て 滅亡してくれりゃいいのに
怒られなくてもエリートクラスでありたい
そしたら君に素敵なプレゼントをあげたい

君にだけ都合のいいように 人類が動いてくれりゃいいのに

2016年7月25日月曜日

鴻上尚史『孤独と不安のレッスン』

ページ数はだいわ文庫版から。太字は私による改変です。
「不安から自由になれる人はいません。どんな人も、不安にとらわれています。死ぬまで、不安と一緒です。」(p.5)

「最終責任を取るのは、当たり前のことですが、自分しかないのです。」(p.81)

『他者』とのつきあい方には、「これが正解だ」という分かりやすい解答はありません。ないからこそ、『他者』だとも言えます。」(p.141)

「『他者』とうまくつきあえる人は、自分の不安ともうまくつきあえるのです。「前向きの不安」を生きられる人です。そして、孤独とも。」(p.148)

「他者を作ることは、難しい事ではありません。
「本物の孤独」を生きた後に、好きな人を作る、家族にはっきりと思っていることを話す、友達を大切にする。
とにかく、あなたにとって、大切な人と向かい合えばいいのです。
ただエネルギーは必要です。
コミュニケイションをあきらめないエネルギーです。あきらめなければ、だんだんと『他者』とのつきあい方は上達していくのです。
それは、スポーツや習い事が上達することと同じです。経験が、あなたを成熟に導くのです。それは間違いのない事実です。」(pp.149-150)

世の中で一番重要な戦いは、自分の不安との戦いです。
ほとんどの場合、人は、相手にではなく、自分の不安に負けるのです。」(p.150)

「「男は女が分からない」「女は男を理解しない」なんてキャッチ―な言葉も信用してはいけません。
男は女が分からないのではありません。男は、女も男も分からないのです。女は、男を理解しないのではなく、女も理解していないのです。
「男は女が分からない」と発言する男は、恋に落ちて、初めて、目の前の女性を理解しようと思ったのです。つまり、生まれて初めて、心底、理解したいと思ったのは、目の前の女性だったのです。
それまでは、たとえば同じクラブの同性の先輩を、そんなに深く理解しようとは思ったことがなかったのです。
先輩と一緒に喫茶店に入って、先輩がトマトを残した時、
「先輩、トマト、食べないんすか?」
と聞いて、先輩が、
「俺、トマト、だめなんだよ」
と答えても、心の中のメモに、
『先輩は、トマトがダメ。メモメモ。』なんて書かなかったのです。
けれど、恋に落ちた時、目の前の女性が、
「私、トマトだめなんだ」
とつぶやけば、間違いなく、心のメモに深く書き込んだでしょう。
つまり、初めて理解しようとする相手が、男の場合は女であることが多いのです。女性は男性の場合が多いのです。
[中略]
そして、『他者』として理解できないから、「男は女が分からない」「女は男が分からない」とつぶやくのです。
けれど、それは、「人間は人間が分からない」の間違いなのです。
親子関係で最初にもめた子供は、「大人が分からない」と言うし、兄弟でもめた場合は、「兄弟は他人の始まり」なんてつぶやくのです。」(pp.162-164)

「マスコミが”自意識”を研ぎ澄ませ、成長させた、という理由も大きいと思っています。
マスコミは、毎日、膨大な「自分について考える」ための情報を、僕たちにくれます。
おしゃれに関するさまざまな情報、恋愛、食べ物、仕事、金銭、事件……。
さらに、テレビドラマや漫画や映画や小説や演劇が、いろんな人生の可能性を教えてくれます。
それらをたくさん抱え込めば抱え込むほど、私達は、自分自身に対して、さまざまなことを考えるようになるのです。
こんな現実に生きていて、自分の発言や自分の未来や自分の人生に敏感にならない人間がいたらおかしいのです。
そして、自分のことを考えれば考えるほど、”自意識”は成長するのです。」(pp.185-186)

「そういう時は、僕は学生一人一人の顔を見つめながら、内心、「どうか君の人生で、『孤独と不安』をごまかすために、”怪しげな宗教”や”体だけを求める男”や”金だけを求める女”や”断定する占い”や”勇ましい国家論”や”密着する家族”や”詐欺のような金儲け”や”社畜が好きな会社”にすがりつくことだけはないように」とつぶやくのです。」(p.223)

「どうして「何をしたらいいのか分からない」ということを学ぶ必要があるのか?とあなたは疑問に思うかもしれません。
それは、人生がそういうものだからです。
あなたは、人生のどこかで、必ず、「何をしたらいいのか分からない」状態になります。
会社で働いている真っ最中か、結婚がうまくいかなくなった時か、子供ができて問題を起こした時か、退職した60歳の時か、人生のどこかで、間違いなく、「何をしたらいいか分からない」時が来ます。
そして、60歳でそういう時を迎えるのなら、20歳前後で経験しておいた方がいいだろうと、僕は思っているのです。」(p.226-227)

 一浪して大学に入ったころの僕は、それまで内向的だった自分を何とか変えなきゃと思って(今でも内向的な方だと思うが、あの頃は文字通り病的に内向的だったと思う、あまり周囲にはそう思われていなかったかもしれないけれど)、色々サークルを見て回っていて、なんとなくどれもピンと来なくて、ある演劇サークルに雰囲気の良さを感じて入った。
 自分にとって演劇というものが何なのかというと、あまり歯切れの良い事は言えなくて、別に演劇じゃなくても良かったんじゃないかとも思うのだけど、ともかくそのサークルで人生の一時期を過ごせたことは今の自分にとって大きな糧になっている。
 演劇について色々と触れていく間に、鴻上尚史という劇作家の存在を知って、何度か舞台を観にいったこともあるけれど、むしろいくつかのエッセイにかなり影響を受けたと思う。『孤独と不安のレッスン』もその一つで、今でも折に触れてパラパラと読み返している。

2016年6月10日金曜日

安部公房『友達』について

 「故人は常に、われらが良き友でありました。しかし友よ。君がなぜこのような運命に見舞われなければならなかったか、おそらく、君には分からないでしょう。むろん、私たちにも、分からない。(新聞をひろげ)では、君が待っていた新聞ですよ。どうぞ、心おきなく、お聞き下さい。(上演当日の朝刊の主だった記事を、ひろい読みする。国際政治から広告まで)そう、世界は広い。広くて、複雑だ。さあ、元気を出して。」
 これは、安部公房の戯曲『友達』の最後のシーンに出てくるセリフ。この戯曲は、一人暮らしの男のマンションに、突如として見知らぬ家族が押し掛けてくる場面からはじまる。父、母、祖父、兄弟3人、姉妹3人の合計9人の家族、男のまったく見知らぬ面々なのだが、図々しく親しげに男の部屋に上がり込み、部屋を占拠され、最後には檻に入れられて、男は憔悴して死んでゆく。男の葬式を執り行う場面で家族の中の父が弔辞を読み上げるのだが、そこに上記のセリフは現れてくる。
 この説明で分かるように、この戯曲『友達』は基本的に、訳の分からない救いようのない、どうしようもない話で、もちろん、要約したからさらに訳が分からなくなっているという面も大きいのだが、ディテールを追っていっても印象は変わらないだろうと思う。なぜだか分からないけども、平穏に一人暮らしをしていた男の家に、家族が突然訪れてきて、そこを起点にして訳の分からない出来事が次々と起こっていき、最後に男は死ぬという構造に変わりはない。家族に悪意があったという話なら分かりやすいのだが、特にそういう訳でもなく、「君がなぜこのような運命に見舞われなければならなかったか、おそらく、君には分からないでしょう。むろん、私たちにも、分からない」と父は言い放つわけである。 
 不条理的な作品が流行って時期というのがあり、『友達』も不条理演劇のひとつといえばそれまでなのだが、注目すべきは、父のこのセリフの中の、当日の朝刊を読み上げる場面。この戯曲の初演は1967年で、その頃だったら当時の朝刊が使用されたのだろうし、いま上演するならば今の朝刊の見出しを拾い読みしていくこととなる。
例えばここで実際に、現在の時刻の朝日新聞社のニュースサイトの見出しを適当に並べてみよう。

 ベルルスコーニ伊元首相、心臓を手術へ 一時は「深刻」
 増税再延期の会見「絶望感に襲われた」 野田前首相
 時の記念日にトケイソウ見頃 兵庫・明石の天文科学館
 逮捕の男は中学講師、市教委が謝罪 福岡の強姦未遂容疑
 発電所の水流出問題、九電が地質調査開始
 「凶器はサバイバルナイフ」 容疑の元米兵が供述
 岩田寛、初日は26位 米男子ゴルフ第1R
 関西の物流施設、海沿いより街なか 「人手集めやすい」
 17種類の美容・健康成分入りゼリー 資生堂が発売

 良いニュースもあれば悪いニュースもある。日本のニュースサイトであるから、国内の事件についてが多いが、イタリアの政治家の手術から、増税再延期に関する元首相の会見、発電所の不具合に関する調査、資生堂が発売したゼリーの話まで、特に必然的な連関はなく、一定のニースバリューがあると見做されたものが列挙されている。
 訳の分からないことが起こり続ける「物語」の最後で、私たちの現実も訳の分からないことが起こり続けることで成り立っているという「現実」が突きつけられる。
 現実では様々な出来事が、相互に何の意味も脈絡もなくただただ「起こる」。「そう、世界は広い。広くて、複雑だ。」
 いまここで自分がこうやって暮らしていることとは関係なく、日本で、世界で、さまざまな出来事が、良い事も、悪い事も、「起こる」。もしかしたら何らかの社会理論や歴史観から、これらの出来事の関係性を説明して納得できる「物語」を作りだすことは出来るかもしれない。とは言え少なくとも、自分がここで笑って過ごしていようが、泣いて過ごしていようが、一日中ツイッターを流し読みしながらアプリゲームをやっていようが、そこそこの企業の中間管理職として上司と部下の間で板挟みになっていようが、恋人と素敵な記念日を過ごしていようが、不倫相手から中絶を迫られようが、そんな私たち一人一人の過ごし方によって新聞の送り伝えるニュースが変化するわけでもなく、日本で、世界で、さまざまな出来事が「起こる」という現実に変わりはない。
この現実の無意味さ、不条理さに耐えられるだろうか。「さあ、元気を出して」とでも言うほかはない、のだろうか。
 数十億人が暮らすこの地球の上で、現実的に言って自分一人の人生は砂粒のようなものに過ぎない、そういう現実に耐えて生きていくことが出来るだろうか。
 僕自身は、この戯曲について知ったのは5~6年前で、2年前にある学生劇団が上演しているのを観に行ったことがある。そして、最近になって、「そう、世界は広い。広くて、複雑だ。さあ、元気を出して」というセリフが重く感じられるようになってきた。
 ちょっと別の話をすると、実は鴻上尚史が『人生に希望をくれる12の物語』という本の中でこの戯曲をひとつの作品として取り上げていて、僕のこのブログ記事もその紹介の焼き直しに等しいのだけど、鴻上尚史も非常に丁寧で生き生きとしたわかりやすい文章を書きつつ深刻なテーマを投げかけてくる人だな、と思う。

2016年5月30日月曜日

twilogから抜粋・2(2015年7月~2016年6月1日)

これも数日間の限定で公開

2015年7月
キャラメルボックスの『時をかける少女』いつ観よう
そもそもタスクをやるときに時間を見積もるという習慣が1年くらい前まではなかった。
当然、そのタスクの完成度と必要時間の相関、求められる完成度、みたいなのもひどく大雑把に無自覚に捉えていたから、無定形の焦燥感だけ増していくことに。
「大人になるとは、時間とお金を上手に使えるようになること。」
いまプロントでサルトルについての本読んでるんだけど、もしかしてこういうのを””エモい””っていうのか…?
観に行く人いるだろうからあんまり言えないけども、タイムリープの状況はこういう風に舞台で表現するだなぁ〜っていうところとか、あとは毎回外さないキャラメルボックス的な面白さが色々
廣松筋の人とどうのこうのみたいな話に思われると冗談でも若干やばい感じになってしまう…w
というか政治家をやんなくたって、普通に社会的に活動してればこういう極端な発想にはならない気がするし、政治家まで務める水準で一応いろんな関門を突破しててそういう発言が出ちゃうシステムっていうのがわかんない…

2015年8月

「あれも読みたいこれも読みたい」みたいな不全感があるから「休みだけど予定がない」みたいな一般的な発想が最近まで全然ピンと来なかった
ゆるふわ生活保守
まず、働くことは道徳的に善で生産的で有意義なことという観念をさすがにもう少し持つべきかもしれない
azmhrkのフォロー外したのは精神の安定にだいぶ寄与している感じがする。
今年はいよいよ『菊次郎の夏』を観ようと思う
能年玲奈になりたくなってくるよねこれ
先行ブロックは先日の永観堂なんとかさんが初めてだ
ロックアップとかで面白がれた頃
現在、Amazonのほしい物リストには355個。。
まぁ綾瀬はるかさほど好きなわけでもないんだけど、出演してる映画・ドラマはたまたま結構見てたっていうのと、とりあえず綾瀬はるかって言っとけば無難だろ、みたいな面はあり、でもポカリスエットのCMには非常に懐かしさを感じる
炭酸水をアロマディフューザーに入れたらどうなるだろう、って一瞬気になったけど、ヤバいことになるかもしれないから実験はやめよう。
やや間延びしてる印象も受けたけれど、ひとつとてもヴィヴィッドで物凄く引き込まれたシーンがあった。役者・音響・照明などの舞台美術は非常に質が高い。駒場演劇界隈の人に伝わるような書き方をすると、マーキュリーっぽい感じのマーキュリーより小規模な団体が既成脚本を上演しているような感じ。
そういえば、基本的に、日本で出版されている第二外国語のテキストは、英語はある程度できるって前提で書いてあるような気がする。
面接の日の指定が来て、変えてほしいって言ったら変えてくれて、でも結局変えてくれた日も行かなかったんだよなハハハハハみたいな雑談を某店で2ヶ月前くらいに隣の大学生がしていた
細田守作品面白いけど、何が面白いのかと言われると答えるのが難しい
批評的な面白さを見いだそうとするべき作品ではないのかな。でも、純粋なエンターテインメント作品を追求してるってわけでもないような気がするんだよなぁ。
哲学のエッセンスシリーズの副題の中で一番ヤバいのは「なぜ私は世界に一人しかいないのか」だと思う
一番まじめなのは、「自己・時間・世界はどのように成立するのか」だと思う
映画版の『モテキ!』よい
この映画自分までテンション上がってくるw
過去が懐かしいという感覚はいままで生きてきた人生のどの時期においても一貫して変わらなかったけれど、過去が積み重なっていくとともに懐かしさの強度も雪だるま的に大きくなっていっているような気がする
池上彰、わかりやすい解説者というだけではなくて、ジャーナリストとしても面白い取材をしてるよね。
数学科は興味はあるんですけど一体人生どうなっちゃうんだろうっていう
めちゃ平凡な感想だけどプロ野球選手って超メンタルな仕事だなぁと実感する
進路についてはどの道をとるにせよ煮え切っていないということが最大の問題
優柔不断な性格はむか〜しから変わらないからなぁ
そもそも、エクササイズずっとサボってたのに急にラジオ体操一時間やり続けたあたりからして今日はアレだ
時かけの舞台はタイムリープのシーンをどう表現してるか、っていうのがひとつの見どころ。
仮に今から就活するとして留年のことは突っ込まれるだろうけども、いちおう新卒扱いにはしてくれるのだろうか、もちろん会社にもよるのだろうけど…
何もやんないまま新卒カードを捨てるのは勿体無いでしょと言われたので
ウィトって、航空工学やってたら飛行機が飛ぶ厳密な根拠を深く知りたくなって数学にうつり、さらに数学の根拠がわからかくなってきて結局あんな風にコンテンツな人生になっちゃったんだっけ
8/22に阿佐ヶ谷でガヤガヤする予定
21歳でキャラメルボックスの主演女優ってよくよく考えると相当すごいな
millionsageさんについて、西田幾多郎を読もうとして挫折した話と、ニーチェを原文で読もうとして実現してない話と、
時計仕掛けのオレンジと博士の異常な愛情を観るために早稲田松竹へ
穴掘って埋めるだけみたいな行為が徹底的に削ぎ落とされていったらもっと世の中すっきりしないんだろうか…
家電量販店の場合は、使う系列店を1つに固定しちゃっても問題ないし、大きな買い物したあとにポイントだけでちょっとしたもの買えたりするとお得感があって、ポイントカードとして良さが発揮されているので許容
一次文献主義における一次文献の一次性とは何によって担保されるんだろう
収入や社会的地位などが、男性の単に付随的な要素でなく、それ自体をひとつの性的魅力に感じる女性という層がもしかしたらいるのかもしれないということを最近感じつつあり、それは例えば、男性から見てJKというだけでなんとなく可愛さが増してしまう感覚ともしかしたら少し似ているかもしれない。
どっちも社会的な意味で規定されてる要素であって本人に本来的に帰属してるものではないのに、なんか本人自身の魅力のように感じられてしまう、みたいな
テレビドラマの『白夜行』の唐沢雪穂がすごく憧れる人物像なんだと最近気付いた
野中広務、ただのおじいちゃんだ…
もののけ姫は1997年当時としては相当の表現技術だったのだろうか、今になって20インチのテレビで見ても正直微妙
1801に東長崎着の電車
楽しい飲み会に参加している
多かれ少なかれ、だいたいほとんどの人に、したいことを明確にするべきということを言われてきているのだなぁという感じがするし、そう言われる機会があるというのはいいことなので、見つけなきゃね…
自己も含めた世界のすべてはテクストなのだ、って思うと少し救われるというか、ひとつの手がかりにはなる
この言い方は少し大げさかもしれなくて、言い換えるならば、いろんな人の言動から自分のあり方やら身の回りのあり方を測定するということで、それは多かれ少なかれみんなやっていることで、ただ、それにちゃんと自覚的になれるようになったのはここ2〜3年だっていうのは多分ふつうの人より遅いと思う
エンドレスエイトは6年前か
部屋にずっといるのは気分が滅入る…
一人暮らし始めて間もなく洗濯機もなかった最初の1〜2週間は、コインランドリーを使っていたなぁ
でも確かに海街diaryはちょっと世界観が時代錯誤な感じはあった
でも特に昔の時代設定というわけでもないし、現実にいまでもああいう地域というか世間はあるのだろうか
そういえば(と言うには飛びすぎだけど)、積ん読にしておく用の『シンボル形式の哲学』(岩波文庫で全四巻)が届いた
昔おばあちゃんがニューウェイズというマルチ商法っぽいやつに大分お布施を積んでいた。
それで、酸素の入ってる身体に良い水()みたいなのが大量にうちにあった。
リブロは三省堂になったんだ。とりあえず本屋が続くなら良かった。
テクニカルタームきいても大抵はまぁ細々したことを頑張ってやってくれているのだろうなぁと思うけれど数学・物理学系の人々のテクニカルタームにはちょっとおびえる。
この時期は戦争に焦点を当ててるドキュメントが多くて厭戦的な気分がかなり濃く刷り込まれていく
基本的に、理知的に本とかを通して理解してくるという経路しか通ってないから、逆に日本全国の世間一般的な感覚として、たとえば「沖縄」とか「東京」っていうものがどうイメージされてるのかっていうのがわからない
まぁたしかに旅行ガイド的表象と一般世間的表象だってずれてはいるのだろうけども。
昔、某さんを見ていて、各人の能力とか立場を見て適切な役割を与えていく技術というか力って、組織の効率性追求の上でも求心力維持・相互承認の上でもすごく大事なことなんだなって思ったけど、そういうのやるの僕には無理そうだなとも思った
昨日は『武士道の逆襲』という本を読んでいて、最後の章の、日本の近代化過程でキリスト教との対抗上や軍人倫理の必要上で武士道が取りざたされてきた消息(この要約の仕方はかなり平板になってしまっているけども)を描いた部分が面白かった
最近は、ジュラシックワールドとインサイドヘッドを
DVDはいまのところ、菊次郎の夏、春の雪、を借りてる
ミリオンさんは中学受験塾に通っていたという新情報
どんな物体をみても文字列を見ても頭の中で無意識に色々ごちゃごちゃと考えてる量が増えちゃってて疲れてるような気がするんだけど、どうすればよいものか。
あとのどのイガイガ感がどうやっても治らないのがとても面倒
とてもふわっと言うと、数学だけなんか本当っぽい感じがしちゃうけどでもそれに確かな根拠はなさそうだけどでもなんか本当っぽい感じがする数学っていう営みは21世紀のいまのところ数学界の中では共有できてるゲームっぽい感じがしてるのはなぜなんだ
文学部(人文系)の人はやっぱり最終的にテキストを読むのが好きな人たちという感じで、あんまり政治的なことを深く考えるという感じでもないんじゃないかなぁ
ミリオンさんが到着した!
高齢になって介護とかが必要になってまで生きたいと思うものだろうか
生きるっていうことはそこまで極端に純粋に自己目的化されるべきようなものなのか?
自然科学の実証性・厳密性みたいなのが自然科学の中のどの分野にも等しくあると素朴に信じ込んでいる人が生物学方面に持っている信仰みたいなのは結構危ないというか、なんでそんな素朴な考え方出来るんだろうという感じがする
物質的なナマの現実の相から離れていった段階であればあるほど、概念的なつじつま合わせの説明であって一つの解釈でしかないという側面が強くなってくると思うのだけど、なんか科学だから実証的にも正しくて事実として唯一の絶対的な価値があるんだろうと思われてるというか
現実の人間関係と交差しない限りは、そういうのはほとんどストレスにならないと僕は感じた
戦争の何が嫌かって、徴兵とかそれこそ総力戦とかそういう本当に深刻なところまで行き着く以前に、それとの比較としてはかなり軽いものでもあっても財政的・社会的損失が大きいっていう、そういうもっとはるかに近くにある現実的な危なさや不利益への感覚が大事ではないだろうか
おお。マッサージで視力が回復している。
やっぱり根源的なことを気にし始めるとキリがないので、厚生労働省あたりの作った栄養バランスの基準にしたがって食べるみたいな標準主義・権威主義か、「本当に美味しいと思えるようなものを味わって食べる」みたいな精神論で…
当該文化圏で標準かつ健康的と思われる生活。
ミリオンさんにすこし文化人類学っぽさを感じている
ここでめっちゃ現実的になって、「やっぱり家族とか親戚のつながりの暖かさをね…」みたいな
べとりんも友達とか恋人とか家族との大切な時間とか愛とか友情とかに回帰しよう
あと2ヶ月くらいでアラサーだ
仏教についてずっと考えてる人と肉食についての論争と院内の様子実況とが入り乱れるTLはさすがに面白いw
10代後半とかで世界の命運をかけて戦うフィクション楽しいねぇ。
ミリオンさんがバーッとRTしてる情報化社会の海にいつも目が触れていることによって数か月ぐらいのペースでじわじわと殺伐とした虚無的な世界観になっているのではないかという気がする
あ〜なんかもっと単純で生産的な人間になりたかったぁ〜
感度の高さと生産性を両立させてる人々すごすぎる。(そういう人々はそういう人々でたいていみんな生き辛そうに見えるけども)
『白夜行』の、初恋の小学生だった2人がお互いの家庭の事情の中でそれぞれ自分の親を殺してしまい、それを秘密にし通すためにいろいろなえげつない罪を重ねつつ二人で秘密を守りつつずっと共に生き続けていくっていうストーリーが好きすぎる
たぶん文化資本的なものにはだいぶ縛られている。
ゲームやりたいかなぁという気もするんだけど、そんなんやってる場合かという気もする、しかし気晴らしの時間にそういうのをやるのは楽しいと思うんだけど、だとしても、もっと高尚っぽいことをやった方が有意義なんじゃないとか考えてしまう、純粋な楽しさみたいな基準ではなく何か歪んでる
でも諸説ありすぎて、結局は代謝の仕組みとか自分で勉強し直してみないと自分なりに納得して信じてやるには無理そう。
歩く量の減少が代謝量の低下につながっているっていうのはやっぱり大いにありそうだ
タイタニック面白いね。
おお、ロマンチックなラブストーリーから一瞬で緊迫感溢れる沈没前のシーンに綺麗に移るね…
東京23区ってもっと広いのかと漠然と思っていた…
僕は、家族とか親族っていう人倫的な単位に対する信頼がかなり希薄なのかもしれない
そもそも人倫一般に対する信頼が希薄かもしれない…
とりあえず日本国内に限って言えば、法律とか貨幣とかはまぁ余程のことがなければ自分が生きてるうちは通用し続けると思う。
相当頑丈に作られてる人倫的単位であるはずの日本政府に対する信頼がこれくらいだから、やっぱり人倫一般に対する信頼が過度に希薄…
人間関係の秩序のありようのことを言いたいのだけど、「倫理」っていうとなんか手垢についちゃってていやかなぁというくらい
「倫理」って日常の日本語的には、人間関係のあり方の原理とかじゃなくて、個人が涵養して守るべき徳目みたいなニュアンスが強いよね…?もうこの辺の普通の語感がわかんない
さらに言えば、他者一般に対する信頼が全体的に希薄。
「心配性」という方が近い。
タイタニック観てちょっとだけ頭の片隅で思ったのは、最終的に自衛隊とかでサバイバル術を学んでないといざというときに生き残れないのではないかということで、こういうことが思い浮かんじゃうのはやっぱり過剰な心配性
タイタニックみる前の人生とみたあとの人生と分けたくなるくらい心動かされる映画だった
こういう脅し方でしか価値を主張できない「家族」という人倫は一体なんなんだ…
野菜食べ放題の中に豆腐が入っているのは大事。
多分わりと慢性的な扁桃炎なんだよな。。
小学2年生くらいまで頻繁に入院してたのにそれ以来入院してないからなんか懐かしさで入院したくなってくる
朝起きて天井が白いときの「あっ、そうか、ここ病院か…」って感じとか
体育の時間が基本的に全部とても嫌いで、週3回くらいあると、次の体育がいつにあるか常に気にしてる感じ
美術も嫌いだったな。。
「社会」っていうなんかすごい壮大なものがあって、そこに行くとめちゃめちゃすごいやばい感じになる、みたいな思い込みを無意識に持っていた頃があった
高校生ころの実感として、社会とか国語とか英語とか、そういう科目は底なし沼だし先生にも強い分野・弱い分野やら断言しづらい部分やらあるのだろうとはなんとなく理解してたけど、数学とか物理は完全にすっきりと明晰な理解の構築の上で教えられる科目なんだろうとたぶん思い込んでいた
ツイッターによって高学歴おじさんの知恵へのアクセスがとてもしやすくなった感じはする。
いとこの息子と、それを囲む親戚とを見て、純粋にかわいいなぁ良いなぁと思う気分と、文化人類学者的な冷めた目とが拮抗している
僕は、「この生」は肯定し続けられると思うけど、生一般は難しい。
丸刈りにして髪への執着を断つんだ
TSUTAYA discasによってTSUTAYAに行く機会が激減し、Amazonによって本屋で本を買う機会が減り、便利にはなったもののショッピングの楽しみが減ってしまった感じもする
やはり、数式なしで説明をしているのでちょっとあやふやな感じ。ちゃんと勉強してからこういうので概観すると繋がっていってすごい面白いんだろうなと思う。
漫然とやってるせいでかなり休んでるのに全然休んだ気がしないというのは要領悪いひとあるある
いまでも長期的なタイムスパンに対してはそういう要領の悪さが残ってるかも
「たとえ、存在可能な統一理論が一つだけであるとしても、それはまだ一組の規則と方程式に過ぎない。この方程式に生命を吹きこみ、この方程式で記述される宇宙をつくるのは何だろうか?科学が数学的モデルの構築に用いる普通のやり方では、そのモデルで記述しようとする宇宙がいったいなぜ存在している
のかという疑問には答えようがない。宇宙はなぜ、存在するという面倒なことをするのか?統一理論には自分自身の存在をもたらすほど大きな強制力があるのか?」
べとりんとのサシ飲みで色々なことが発明した
山口組の分裂ってどれくらいやばい話なんだろうか
生命と地球の歴史 (岩波新書) 丸山 茂徳 http://www.amazon.co.jp/dp/4004305438/ef=cm_sw_r_tw_dp_3IN3vb0MAMQXB… @amazonJPさんから
入院に対する憎悪。
ていうか温泉とかは銭湯いけばまだ代替できるけど、畳でゆったり無意味にゴロゴロできる雰囲気良い場所は旅館に一泊とかしないと借りられないし、もっと手軽に借りられる場所があれば…
連泊で借りて時間を区切らないまま続けるお泊まりサドンデス読書会
家系やら山手やらに慣れると、たまに塩ラーメンとか味噌ラーメン食べて「あっ…これもラーメンなのか!」っていう謎の感動が生じる。
なんかすごく壮大な話がまとめられていて、地球の長大な歴史から見れば自分の人生なんてどうやっても本当に砂粒のようなものでしかないんだよな…ってことを改めて感じてしまい。。。
ポジティブな人なら「自分はこんな壮大で精巧なシステムの中に産み落とされたのか!すごい!」となると思うので、最後の最後は性格の問題なんだろうけども…
でもやっぱり、計量可能なもの、予測可能なものが増えていくほど、世界が殺伐としていく、これはみりおんさんがどうというより、いまの社会そのもののつらさ
ミリオンさんのRTで殺伐としていく心…
抽象的な理念とか物語で生を意味づけたくなる気持ちもあるじゃないですか、やっぱり
「…確からしさにすがるのではなく、別の種類の確からしさに気づくことが、人間の可能性なんじゃないかと考えるのです。それは、目の前に一人の人間がいること、その人間と目が合い、その人間の何かを感じること、そういう種類の確からしさではないかと思うのです。…」
心なんて、ごくごく微量の化学物質に大きく左右されてしまう程度の下らないもの、と考えるか、そんな少しのことでも大きく色合いを変えてゆく心って不思議で素晴らしい、と捉えるか
人間は自ら死ぬということを選択しうる生き物だけども、自ら死ぬとしても、自分がいつの間にか生まれて生きていて最期には死ぬ存在であるというあり方それ自体から逃れられたということにはならない
安保法案反対とか言ってるのに点字ブロックの上には堂々と座っちゃうんだ。。。
いま自分の頭をめっちゃ触って遊んでいる。
いまの生活だって、絶対3〜4年後にはとても懐かしくなる。
@millionsage そういえば近々、温泉浸かりに箱根に行くんですよ。そこで心の整理と欲望探しということでわw
せりきち様のご尊顔isどこ
木の下…木の根っこ…ねっこ…ネコ!っていう推理で爆弾の場所特定するのおかしいやろ…www
毛利蘭はスーパー能力高い工藤新一と釣り合うのだろうか…?
デモ、行くとしても物見遊山的なあれ以上の意義は見出さないだろうなぁ
2mmの丸刈りは、なんか頭皮に違和感がある。
少なくとも僕が使った頃Xperiaは使いにくかったんすよ…
電話番号とかメアド変えたくないからdocomoから乗り替えたくなかったし、まだ赤外線通信での連作先交換の文化が残っていた頃だし、そうなるとXperiaって感じで選んでたからなぁ
いまだにインターネットの仕組みがいまいち分かんないよね。
なんか、概念的な説明を色々されても、どんな会社とか機関のどんなケーブルやら機械やらを誰が管理することでインターネットの網が全体として成り立っているのかが具体的に想像できない
研究という名のソーシャルゲームでAmazonに課金し続けている皆さん。
芸能人や文化人は別の世界に住んでいる人々に思える、という感覚はほぼなくなってしまった。
芸能人は、キャストという立場で関わっている人々、という感じで、そんな特別な人々とは感じなくなった
そもそもの話、たった2〜3時間の飲みの席で人格を評価したりされたりしなきゃいけない空間というのが怖すぎるな。
明日から箱根に行ってくる
ウェイになりたい陰キャラという人々の気持ちは結構わかるつもりなんだけど、結局それは、自分で勝手に作り上げた幻想に縛られてるだけなのではないかと思う
あんま関係ないけど、てあてあに小説書いてほしい気がする。
結局学問って意味あるの?
生物学とか心理学の概念を何となくの俗っぽい理解の下でものすごく雑に使って、人間の振る舞い方を理解・分析した気になっているタイプの人というのが結構いるように思う
親鸞読み放題
月曜の社会人の満員電車をキャリーバッグとリュックサックで切り抜けられるか
実際、温泉に浸かりたいだけなんだけど、せっかくだし検索ワードを探す旅もすべきなのか…
現実的に色々と規制とか監督とかはあるのだろうけど、街中に線路をばさっと敷いてる場所が私有地(なのか、本当に?)っていう感覚はあまりしっくり来ない。
離れてみてわかったけど、自宅には刺激が多すぎる。
ただ自宅にいるというだけで、夕方になってもいろんな場所に出かけようと思えば出かけられちゃうから…
あるいはコンビニひとつとってみても、坂道登って10分くらい歩くのが最寄りのここと、徒歩1分で着いちゃう自宅とではだいぶ感覚が違う…
潜在的に取りうる選択肢の数がバサッと切り捨てられて減るだけでだいぶ落ち着く
昔からずうっと思ってるのは、突っ込んだ話とか最新の情報とかへの欲求がない限りほとんど日本語(各国語から翻訳されたものも含め)で事足りてしまい、ていうか日本語でも無限の本あるし別に外国語さほどいらないんじゃないっていう、でもこれ相当に消極的かつ受動的な発想なのだ…
あとやるモチベがあるとすれば、審美的な欲求とかだろうか
あと色んな情報へのアクセシビリティを広げるにはやっぱり英語がいちばん良いだろうということになり、それ以外の第二外国語やるよりは数学的・自然科学的な素養を広げた方が良いんじゃないかと思うと、なんか結局エモい感じになる
現実問題として、日本に生活している限りにおいて、ドイツ語やフランス語ができないせいで大きな損をするというのはあまり起きないと思うのだけど、英語ができないせいで困ったり損をしたり知らず知らずのうちに機会を逸しているというのはけっこうあるのだろう、という感じがする
高校地学の教科書を手に入れてあるんだけど、ちゃんと読んでおきたいんだよな…
色んなことをバランスよく一通り知っておきたいなって思うと、高等学校とか大学教養課程の科目区分に依拠するのが大体便利なんだよなっていう…
自分的には、一言でまとめると、他者とともに生きること(そのあり方は様々だけど)、となる。

2015年9月
携帯電話の複雑な料金体系は本当に誰得なんだ
農耕の誕生により人類社会は豊かさへと歩みを進めていくと同時に格差の拡大が始まった。
写真じゃ伝わらないと思うんだけど、これはすごい。(箱根ガラスの森美術館)
絶対合格上智大学の人が垢消ししてしまった
印象派の絵は適当に見てても楽しいからよいよね。
なんかリア充大学生?グループ+男性の先生の9人組が旅館のめちゃめちゃ閑散としていたレストランに来て場を席巻している
そういうときは会話を聞きながら誰と誰が付き合ってそうかとかを推測しなきゃ
ていうか冷静に考えて、大学生男女8人組で箱根の旅館に泊まるとか楽しすぎて爆発でしょ〜〜
RT鍵: うおおおおおおおお大学生の集団より近くに座ってきた社会人男女ペアの男が圧倒的にやばい。自分のことめっちゃ面白くてデキる社会人だと思っててマジでやばい。やべえええええええ
麻木久仁子(52)のすっぴん
ただ周りの芸人がいじり方に気を使っているのがテレビ放送上でもわかるっていう
「幸せ!ボンビーガール」を見ているんだけど、冷静に考えたら相当つらい話がポップにプレゼンされててつらい
この部屋、突然いままで付いてなかった電気がついたり、部屋の電気全体が落ちたりするのだけど、幽霊とかいたりしてくれるのか…!?
東京オリンピックの年にもみんなツイッターでわいわいやっているのかなぁ。
「そのときどきの生活をその本を通して観ることで本を身につけるような読書」面白い発想
やっぱりTwilight ValleyまでとLocksからで雰囲気だいぶ違うな
でもまぁイスラム教の、その中の原理主義の、その中の過激派の、その中でも一番振り切れた過激派の中の過激派であるイスラミックステートの話を出してそれを宗教的価値観の違いの話に持っていくという文章をfacebookに書いちゃうのはあたまわるい
「感傷的な主張を書いた出来の悪い文章」のことをよく「ポエム」と読んで揶揄したりするけれども、ここで言われる「ポエム」と、本来の詩との共通点・相違点はなんだろうか
エモいの語感は分析によって深まるというより、エモいと直感的に感じたときの用例を積み重ねていくことにより何となく把握されていくものであり、そこがまたエモいという語のエモい所以だと理解している
昨日の100分de名著の斜陽の第一回、とてもよかった
リソースフルって殺伐概念
自分の振る舞いとか周りを気にしすぎてる結果として視線の動きとかがちぐはぐになってる(いわゆる自意識過剰による挙動不審)ことが結構ある気がする
仏教と儒教―日本人の心を形成してきたもの (放送大学教材) https://www.amazon.co.jp/dp/4595314043/ef=cm_sw_r_awd_Hny6vbXWN3AHB… @Amazon むかし講義の参考書に挙げられていたから手に入れて放置しておいたのだけど、教科書的に浅く広くあまり必然性のない感じで色んなことに触れられているだけな感じだ…
ペット飼うなら頑張ってハムスターが限界
箱根の、星の王子さまミュージアムで入手しました
まぁ専門家にならないならそこまで原書にこだわらなくてもね
六本木のお寿司屋さんの民度が秋葉原の系列店より低い…
この作風が平田オリザか…
小屋入りにちょっとお邪魔したけどやっぱり楽しそうだったわ〜
少し覗いただけでとても穏やかな気分になった。
大学に、様々な形で、色々なタイプの人と接して揉まれる機会があったっていうのは、高校生のときまでかなり内閉的だった僕としてはかなり有り難かったし有意味だったと思うので、普通の意味での勉強する場としての側面だけのクローズアップではなく、そういう部分も良い形で残っていってほしいなぁ
そういうこと言ってる余裕のある時代じゃないかもしれないけど、「大学論」みたいなのが論じられるときに、どっちにしろそういう部分がスルーされてるような印象があるというか
ちなみに、ツイッターなどのSNSも良しにつけ悪しきにつけ相当に自分の生活スタイルや価値観に影響してると思うけど、そういうのがうまく効果を持つのも現実に根を張っている様々なコミュニティのネットワークがあった基盤の上にこそ、だろうし
自分も最終的に何処かしらの何かしらを担って社会に居所を得なければなんですよねぇ。。
うーん別に社会に出たくないというほど振り切れて煮え切っているわけでもなく、そういう振り切れ方でも帳尻が合えばそれはそれで良いのかもしれませんが
(28歳・介護士)ってリアリティがある
東京に住んで実感する限り、ガラス細工のように精巧で複雑に、それゆえいっそう脆弱に様々なインフラが張り巡らされている世の中だと思うし、政府も含めて社会の枢要な部分がおかしくなったときに、どういう形でどんな事が起こるかは、数十年前の出来事を単純に思い返すのでは予測できないと思う。
高校地学の教科書にまとめられている知識は人間の所業とは思えない凄さ
やった~これで冬学期は単位のこと考えなくてすむ~
まぁ最終的に良い論文が書けるような刺激の受けられる一定の場が確保できていればいいんじゃないだろうか
それぞれ別の話題をつぶやいてても何となく緩やかに一つの場が醸成されていてコミュニケーションが成り立っている感じがするっていうのはツイッター特有の現象で、すごいと思うのだなぁ
いよいよ、卒業のために満たすべき要件が卒論しかなくなり、逆に追い詰められた感じの気分になっている…w
告白って青春っぽさがある
黒澤明の『羅生門』
本屋行って良さげなの見つけたらamazonのほしいものリストに登録して寝かせるのと、TSUTAYA行って良さげなの見つけたらTSUTAYA discasのリストに入れておくのと、消費者としては大変便利なのだが、しかしみんながこれをやるとヤバイし、、
きちんと真贋を見分けられる人になりたいですなぁ。
ひとつのことに意識を捕らわれすぎる性格が生活面での色んな不調を引き起こしてるっぽい。
もっとこう、滑らかに精神がはたらくようになるといいのだが…
学生相談所の待合室はとても雰囲気が良くて、片隅に、論文の書き方指南書とか、学会発表の指南書とか、仕事・将来についての本とかが並んでて、みんなそういうことで悩んでるんだなぁというのが分かった
あと、思想家の軽めの名言集(釈迦とかそういう系の、なんとなくリラックスできる系のものが多い)とか、自己肯定感についての本とか
臨床心理学・臨床心理士とかカウンセリングの有用性・可能性と限界、というのも、ユーザーの側としてなんとなく雰囲気は掴んだのだけど、結局、カウンセリングって人と人が話す営みなわけなので、専門的な技術とか方法論ではどうにもならない「雰囲気」の相性みたいな要素も大きいよなぁと思う
普通に友達とかに悩み相談するのと何が違うかというと、悩みを抱えて精神的に困っている人と話した経験量が圧倒的に多い人に、きちんと区切られた空間・時間で丁寧に話を聞いてもらって解きほぐしてもらえる、ということで、最後の最後は、専門知識がどうというより、センスとか息遣いとか相性とか
なので、相当難しい仕事だろうと思う。
単位取る必要のない状態で、なけなしの興味のみで講義に出続けられるか問題
別に講義出なくても良いのだけど、何らかの人的刺激を受けられる場が必要だ
大阪・釜ヶ崎
某さんみたいな人も専門としている分野だけはちゃんとした論文書けている、というパターンもあるからなぁ…
ていうか自分としては脳死後に臓器使ってもらって構わないけど、死後の身体についてなぜ自分に決定権があるのか微妙にわかんない
「私は、〜提供します」の私ってどこの私のことを言ってるんだ
回転寿司は寿司よりも回転の方に強調点があるよねと思ってる
洋書は高いので日本語の学術文庫で読書欲を満たすマン
眼鏡さんが後ろにいることを今日の講義では確認しました。
おお。クーラーつけると涼しい。
こうやってツイッターでわいわい気の合う人達とゆるく取り留めもなくつぶやき合うというのも、永遠に続く訳ではないだろうし、そう考えるととても貴重な時間に思える。たとえば10年後にどう振り返っているだろうか。
ふと思ったんだけど、プレートがどうこうっていうのが分かる近代以前には地震ってどういう自然現象として解釈されてたんだろう
チキさんとは昨日お会いしましたよ〜
痩せよう痩せようと思いつつ具体的で計画的な努力をしていないので、積極的には人に会いたくなくなっていることは確か。
チャート式倫理、著者の2人のうち1人が佐藤正英になってて、案外強いんじゃないかと思ってとってある
考えてみれば、4年生で進路決まってない人というのは、今からでも頑張るのが普通なのか(4年生で進路決まってない人)
和田秀樹は頭がおかしいのか良心を捨てているのか、どっちなんだ…
カラーボックスを本の収納に使ってるのも端的に間違ってるよな〜
都内の鉄道・バスの交通網便利すぎて、最初は10分で隣の駅まで行けることに驚いていたのに、だんだん慣れてくると、徒歩15分かかる場所なら何とかバスと電車を乗り継いで行くルートないだろうかと考え出してしまう
なんか一週間の時間割でも作ってみるかな。
本業は週5日間9時〜5時の枠内に収めるみたいな感じにするか。
群像劇ではないけど、青春劇ということでいえば、5年前にシアターマーキュリーが上演していた横内謙介の『ホテル・カリフォルニア』が今でも心に残っている
昨日のマッサージが効果ありすぎてふにゃふにゃに…。
それはそうと、駒場図書館のどこかに、ある時期までの駒場演劇の歴史をまとめてある本があるらしいと昔ある人に聞いた記憶がかすかにあるのだけど、気になる
大学1〜2年生の頃の自分はだいぶ未熟で、あの頃にもうちょっとセンスがあればその後も含めて色々違ってただろうなぁと思うことは多々ある
まぁそれでも高校時代までに積み残していたものを言わばやり直していたし、過渡期だった
教養学部時代、あまり勉強はしてなくて、講義も一部を除いて特に楽しくは感じず、時間のやりくりが苦手でいつも何かに追われるような気分があったり。でもサークルはとてもいい居場所で、僕は間違いなくそこで育てられたのだった。
大学や学問にはもう期待はなくなっていたので、進振りやり直して適当に文学部にでも行って就職すればいいか〜〜と思っていたんだけども、実際にちょっと真面目に勉強してみたら結構楽しくて、それはいまに直接つながっている。
他人からどう見られるかを気にしすぎるあまり、客観的に他人からどう見られているかを妥当に把握できておらず、結果として自分をよく見せようとする言動が見え透いちゃってて痛々しくなっている人の自意識をむしゃむしゃする会
mixiやってた頃は、マイミクからの紹介文の数とかマイミクの数とかをめっちゃ気にしていて、気にしているけど気にしている雰囲気は極力出さず、まぁよくいる感じの小物パターンだった。
酒の科学 (シリーズ「食品の科学」) 吉沢 淑 http://www.amazon.co.jp/dp/425443037X/ef=cm_sw_r_tw_dp_fTH-vb03DWD5E… @amazonJPさんから これが気になっている。
言い方によっては、パフォーマンスっちゃパフォーマンスかも知れないけど、こんなときに粛々とした空気で採決するのは、北朝鮮とか、そういう次元の国よ…
人間関係に揉まれた経験量・場数が圧倒的に多い人っているよね。
色んな話を卒なく処理していくポジションの人
歳下の4年生が続々と進路決まっていく中で「あ、これって普通なら焦る状況なのか」っていま思い出したの、ヤバい
入門書・概説書の類にもちゃんと典拠を示してほしいぞ〜
「〜という主張をする研究者もいるが」とか曖昧に書かれると気になる〜
人文アカデミックなタームとか人名を使うときになぜかこうむずがゆさというか気恥ずかしさを感じてしまう感覚というのが昔から抜けないのだけどどうにかならないもんか。。
「この星の下で生まれてくる愛はいつまでも続く I just can't forget your love」みたいな歌詞は、倉木麻衣が10代の終わりの頃だったからこそ本当に映えるものだった
ていうか、普段まっすぐに立ててなくて前傾姿勢になってて体に変な力がかかってたかもしれないというのは結構驚きだ…
観念的・抽象的・言語的な概念操作はもともと得意だったわけだけど(まさにいわゆる「勉強」なわけで)、一方で感覚的・心的・物質的なものごとを把握する能力の発達がずっと阻害されてきていて、そのアンバランスさを矯正してきたのがこの6〜7年くらいで、ここ数ヶ月ひとつの波が来た、という感じ
でもまぁ、ずっと都市の箱庭で暮らしていると、地球で生きているということがどういうことなのか実感がどんどん薄まっていっちゃうので、少しでもそういう感覚を強めるためにdash村みたいなの見るのは良いかなぁと
血液中の中性脂肪が多いってことはつまり、血液がラーメンのスープみたいになってるってことよね…
早稲田こそが存在の根源であり宇宙の真理であり大地の母であり五百塵点劫座禅瞑想涅槃釈尊四百万億那由他娑婆世界如来寿量品六万恒河沙
グレーゾーンの領域で「えっ、それルール上ダメって言われても現実的には合理的な方法だし、ルールが理不尽でしょ…!」みたいな例外がどうしても発生してしまう、ルールというのはどうやってもそうならざるをえないものなのだというのは、ある程度世の中で生活していれば理解できる感覚なはずで
なんとなく、食べたものはどこからともなく消えていくようなイメージがほんのりあったのだけど、消化・吸収含めた代謝経路かなりガッチリ決まってるんだと思うと食べ物のリアリティが増す
単糖類に対して過剰に悪いイメージがあって、昔からお菓子とかジュースとかコーヒーの砂糖とかは極力避けてるんだけど、なぜか炭水化物に対するイメージは肯定的なためにそこの絞り方がゆるくなっている傾向がある
食事を能動的に味わうとか楽しむっていう発想がどうも昔から希薄なんだな。なんか漫然と食べたり食べなかったりって感じなんだな
埼玉県民は埼玉県なまりを識別できる。
赤羽くらいまでになると見分けにくい。
ローマ字がアルファベットで、ローマ字による日本語表記がローマ字だと思ってたときに、某有識者に「そのギリシャ語はアルファベットで書くとどうなるんですか?」って聞いたら「…???…あぁ、ローマ字ね」と言われて、あとで気になって調べてみたら、そうだったのかとなった(通じる人には通じろ)
ひらがなを習うときには「ひらがな」という文字表記を習っているように、ローマ字を小学校で習うときは「ローマ字」という文字表記を習っているし、中学英語でアルファベットとして習うときはabc順に習うから確かに「アルファベット」を習っていて辻褄はあっているんだけも、語弊がありすぎぃ
識者の評論家に「聖徳太子って知ってる?」と聞いて生放送でブチ切れさせた煽りの天才、田原総一朗
自分は姿勢が悪いらしいということに本格的に気付いてから、どういう姿勢をとっていいのかがそもそもわからなくなってるのがここ1〜2ヶ月
「体系的に文化人類学を学びやすい機会にあふれた生活」
ラジオ体操の動きのキレがなんか良くなってきた。w
実際、日本国憲法の中で日本列島の歴史的な事情からある種内在的に出てきた条文って1条〜9条で、あとの部分はとにかく当時の理論的に最高水準のものを作りましたって感じ
永観堂さんみたいな反知性主義を自認する院生というすごい人の拗れを直すには池上彰くらいの次元でめちゃくちゃ丁寧に教え諭す人が必要な気がするのだが、みんなバカにするか避けるかしかしないので拗れは直らず溝は深まる、という構造はあるんじゃないか
天文学というと、地球から見た空(天)のようす(文)を研究するというニュアンスが強くて、宇宙論っていうともっと大局的・客観的に見た宇宙の構造を理解するってニュアンスになるんじゃないの
永観堂さんについて、自分も紙一重だったんじゃないかと感じるというのは何かわかる
知り合い同士の女子二人がばったり会った時のあの声はどこからどう出しているんだ
伊豆でのゼミですね。
農学部の演習林が伊豆にありまして、レクリエーションみたいな合宿で自然について学びます。
ただのキャンプとも受け取れるかもしれないけれど、直に自然と接するということがどういうことかとか、地球で生きているとはどういうことかというのを、受験勉強やら進振りやら飲み会やらで頭が凝り固まっている学生に少しでも感じさせようという体験のプログラムにしている意図は感じた
みんなで集まって、一人一人みんなの前で、自分について話したいことを話していくという、まぁちょっと気恥ずかしいというか青臭いというか青春っぽい会があったり…
夜に懐中電灯持ちながら少しハイキングして、「いまから体験するのが本当の暗闇なんだってことを覚えておいてくださいね」って言いながら懐中電灯をみんなで消したりするのとか
それに自分が行ったのはちょうど震災前の2011年2月で、震災後の授業のときにその教授が「あれだけの震災が起こったし、もう(自然と人間社会の関係の脆さには肌で十分感じているかもしれないし)このゼミを続けていくことにどれだけ意味があるかもわかんないけどね…」と言ってたのが印象深い
そうねぇ。帰り際にみんな(自分含め)必死にお互いメアド交換してたのが今思い出すと相当アレだなぁ… RT @IAIZAWASIAI @algorithmicism 生徒を受験勉強の世界から引き離したいのがすごく伝わってくるけれど、ゼミの能動的目的がぼやけているのはやや残念って感じ。
山谷・寿町・釜ヶ崎
べとりん医学部再受験はしないのか
ちょっと腹筋やったらおなか痛くなってるんだからもう…
最近、自炊欲がちょっと出てきているのだけど、冷蔵庫と電子レンジがない。。。
まぁ労働って言ってもクリエイティブ(クリエイティブ()ではない)な仕事もいろいろあるんじゃないだろうか
こんなのがずらずらずらっと百数十ページにわたってひたすら(高校生のための生活データブック 家庭科資料と食品成分表)
野菜から先に食べると血糖値が緩やかに上がるのでいいらしいんだけどその場合の野菜は葉野菜のことであって、デンプン多く含む根菜類を先に食べるくらいならばまだ肉の方が良いらしい
運動をするというのは、身体に力学的な刺激をどのように与えるかということと、精神的・神経的な刺激をどのように与えるかということの二つの側面があるような。
なんかやっぱり中高レベルの理科社会の知識のブラッシュアップはまだ有効そう
時間・お金を使う上で、メリハリが大事というのは思う。
日中それなりに読書とか勉強とか運動とかして、この時間になるともうぐだっとなってるっていう。。
何かミスチルに対する興味がある時期を境に一気に薄れたわ…
この「なんかパァッとしたい」欲求がラーメン欲の根源…
『論理学研究』に辿り着くのは何年後か…
掃除機あったらほうき・ちりとりは要らないだろうか。。
本筋ではない突っ込みだけど、お酒の銘柄を知ってるとお洒落みたいな価値観はなんなんだ
女性三人組の俗っぽさを想像しただけでいらいらしてきた。。
きっと日本酒とかに詳しくてもダメで、ワインなんだろうなぁと思うと、本当に俗っぽくてダメだ…
過去と未来なら過去の方が大事だと感じるな
休日は神田周辺とかが近いし空いてるしいいかもしれない
天台智顗まで遡らなきゃダメかな…遡りたくないんだけど…
「論文は一里塚」って気分でやるべきなんだろうけど、相当納得できないと自信を持ってまとまった主張をできない性格…
判断力批判とスピノザの二つとも受けるか、スピノザだけ受けるか、もはや受けないか
和辻によれば、日本には自覚的な学としての倫理学は成り立ってこなかったけど、倫理について考える倫理思想はその時代ごとに色々あったということだそうで、『日本倫理思想史』はそういう構図で書かれている(岩波文庫の第1巻の最初20ページくらいの緒言に書かれてあっただろうか)
なので、時代ごとにいかなる倫理的思索があったかを跡付けていく『日本倫理思想史』は、メタ「な」倫理学ではあるかも……??
佐藤正英の『日本倫理思想史』は、なんか独特の分析概念が使われてて難しいらしいです。
「ツァラトゥストラはかく語りき」 'Also Sprach Zarathustra' Einleitung https://youtu.be/lXKox3LfO-Q @YouTubeさんから ツァラトゥストラはこれで読んだことにしていいのではないか。
12~13世紀頃の日本で仏典はどれくらい本気で受け止められていたのか現代人なら、この世界(宇宙)は138億年前にできて、人間は猿から進化したと抵抗なく理解しているわけだけど、そういう立場からすると、この世界がいかにしてできて、人間はどう生きてきたのかについて、各々の時代・社会の思想がどうみなしていたのか、注意しないと読み取りづらい
RT鍵: 世界の一切は法が因縁によって働いたり働かなかったりすることによって現前しているが、その法というのは不生不滅で過去・現在・未来の三時を貫いて不変なので、世界全体も始まり・終わりのない場である みたいな感じなん
奥華子の「変わらないもの」「ガーネット」を聴いてて、なぜだかこの数年が懐かしくなってくる
やっぱり、時間のある学生時代に、みんなで一緒になって頑張って何かを成し遂げるって、とても貴重な思い出になるものよね
RT鍵: そういえば昔宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読んで、あれまあまあページ数あるけどほとんど参考になる話がなくて(笑)、でも唯一「『何かを共にした』という関係は決して揺るがない」っていう話は心に残った
「ジムではエアロビクスを毎日3時間欠かさずに行ない、それに加えて週2回、1時間半のウエイトトレーニングを行なった」は無理
エネルギー代謝とは関係なく、分解されるときに体内で熱として発散されてる分はカウントしてるって感じなんですかね
嫌いな人や不幸そうな人や痛々しく見える人を思い浮かべると、人間は全員とにかく生きていかなきゃならないという現実がとても重く感じられる
あらゆる人のあらゆる営みを巻き込みながら、それでも時代はそれゆえに進んでいく、みたいな
講談社学術文庫ってダメなのが結構混じってるという印象が何となくある
1ツイートに対して10個のラインメッセージが飛び交っていることを姫系女子は意識している

2015年10月
高校地学の教科書をはやく読みてぇ
なるほど、学び問うと書いて学問なのか
もともと普通の宿泊業だったのがそれではやってけないのでラブホテルという営業形態になっていったとして、それが更に「ラブホテルで女子会やっちゃうの楽しい」というようなプレミア感を出して集客しているのだろうから、相当ねじれていて苦しい
「本人が優秀すぎて周りのできなさに苛立っている」というタイプの人ってたまに見かけると思うんだけど、そういう人見てると何によって幸不幸が決まるのかわかんないもんだよなって感じる
肝臓の仕組みを勉強しなおしたら、急に色々と心配になってきた。。
体が体として自律的に機能することで自分の生が成り立っているということが急にリアルな実感を伴ってきてしまい、なんか違和感で気持ち悪くなってきた…
憂鬱は、生活上の工夫で対処できる部分はできる限りそれで対処し、それでも救いきれない部分は実存的な悩みとして考えるといい。
あと、ネガティブな感情に浸ることそれ自体をそこまでネガティブに捉えなくてもいいかもしれない
生産性は落ちるかもしれないけども、ある種の感情に浸ることもそれ自体に特有の自己目的的な意味がある、と思えれば
日蓮のなにがすごいのかわからん。。。
デンプンと糖分って消化吸収の過程が違うだけで最終的に血糖になるという点では同じなのだろうか
今更だけど胴回りだけではなくて腕も足も相当太くなってるんだな。。。
とりあえず25歳になるまでは生きてみよう、みたいな重い気分になってた時期あった気がする
これくらいになると歳取るの嫌になって来る人多いように思われるけど、僕は色々よろよろしながらもよくここまでやって来れたなぁというポジティブな気分も結構強い
鴻上尚史が『ハルシオン・デイズ』の前書きに「◯◯歳になるまでは生きてみよう、と思っていました」というようなことを書いていて、その一文に始まる前書きが印象に残ってて、それでその発想を真似てみようと思ったんだと思う
15歳くらいの時は、精神的にいろいろ大変な気持ちで、将来に対しては物凄く悲観的で、25歳の頃のことなんて想像したくもなかったけど、それを思えば今はそんなに悪くない
去年のこの時期も相当荒れてたな…
計画的かつ累積的な努力でなにかができるようになるというよりは、とにかくじたばたしてたら色々な感受性が広がっていって皮が少しずつ向けていった、という感じの認知的な発達パターンが多かった
適度に負荷がある目標をみんなで一致団結して実現に向けて目指すのは楽しいよねぇ。
一致団結というか、結合のあり方にはいろんな形式があるだろうけど
生活・生存に響いてくるレベルの憂鬱が続いたらとりあえず精神医学・臨床心理学の専門家へ
月の形と方角から太陽と月と地球の位置関係がすぐにビジュアライズできるようになりたいね
たとえば、幼い頃に初めて足で歩き始めたことは、そのときの自分にとっては画期的なことであっても今となってはなんの感動もなく当たり前にできることになってしまうように、大学生くらいになってからの様々な経験であっても、その当時の達成としては大事だったけど今となってはそうでもないものはある
規則正しい生活、バランスの良い食事、適度な運動
健康関連の情報は需要がありすぎるせいでググっても表面的に解説されてるwebページしか出てこない。。
図解入門よくわかる栄養学の基本としくみ (メディカルサイエンスシリーズ) https://www.amazon.co.jp/dp/479802287X/ef=cm_sw_r_awd_LUrewbN0BGRCG… @Amazon これが専門的過ぎず表面的になってない感じなのでポチってみた
「主人公は主に眺望のいい高級マンションの、生活感に乏しい(雑誌に採り上げられるような)美しいインテリアの部屋に住む。主人公たちが待ち合わせや出会いに使う場所は「おしゃれなパブ系の店(クラブ系か?)」が多い。」
「物語はあくまでお洒落で、軽いタッチで描かれ、表面上は決してドロドロしないことが多い。主人公は、お洒落な夜景の見える場所で「好きだ」と告白する。ビールよりもワインやシャンパンで盛り上がる。記念日(クリスマスや誕生日など)を大切にする。」
たぶん、1990年代的軽薄おしゃれイメージ
下高井戸シネマでまた海街diaryを観てきた
自分が何者かであるわけでもないのに世の中をすごく軽蔑してしまうような気分が来た…
ツタヤディスカス解約しようかなぁ
今日も法華経と観心本尊抄…
斎藤環は高校生くらいの時はよく読んでいたけどまぁ高校生だったからしょうがない
昔読んだ『荒巻の世界史の見取り図』ももうさすがに要らないな…処分しよう…
う~ん、最近のノーベル文学賞は、非欧米的なテイストのものを積極的に取り上げていて、村上春樹が受賞する可能性は低いというのが専門家的な予測で、でもそういう情報は盛り上がらないのでマスコミ的には取り上げられないと比較文学の先生が言っていました
変な話なのだけど、「人にはそれぞれ性格というものがあるのだ」ということがいまさら明瞭にわかるようになって、世界が違って見えるようになってきた
中高生くらいのときは地元の本屋さんを見て、世の中にはこんなにたくさんの本があるものなのかと圧倒されてたけど、大抵のものは自分に関係ないし、関係あるものでも1冊に対して類書がたくさんあるし、そもそも内容ない本もたくさんあるし、別にそんなに恐れる必要もないのだと明確に気付いたのが最近
キングスマン観たんですよ!!
radishの2個下(だった)人たちがそれぞれ色んな進路に進もうとしていて青春群像劇という感じ
なんで火山が噴火する仕組みを理解しようとしてるんだろう、、
長い時間スケールで見たらいま立ってるこの地面すらまったく確かなものではないんだよなぁ
地球の表面に生きているというのは儚いことなのだなぁという気持ちになってくる(直接そういうことが書かれてるわけじゃないけど)
三千大千世界が振動して空から花の大雨が降ってくるパターン多すぎ
AZUKI七の「花の雨が降るこの道」というのも仏典の表現を踏まえているんだろうな〜
自己評価高そう。 — それはどういうニュアンス? http://l.ask.fm/igoto/45DKECN7V62DDAUPY6IQO7C6OHDFPYTS35OTANTC742RPN2ZEY5KMYNGBFMWQJUKWZPUEADINWTUXQVYYU5Y25CPT22BFDJUUBBZFKJA5YHAM7EA6RDOKHGTCZPBBTFT2VYKEQ2T7GGNGN2J2LAMXDC7HFHNLE4Z7FU32TWWKW2MYHSIUYFB5HK5NNIJ4H3TI43KFDU4EKQ====…
息抜きにゲームやろうと思ってFF10インターナショナルをやっても英語リスニングの時間になってしまってあんまりはっきりとした息抜きにならないという問題
FF10やったからどうせならインターナショナル版にしようかなと思ったらこんなことに
感情とか状況を読み取れるかどうかみたいの大事なんだなとか
エクソシストは当時としては画期的だったのだろうか
クラシカルな怖さがある
FF10、一本道だし難易度やや低めだしゲーム性自体は微妙なのだけど、世界観とストーリーとグラフィックとは2015年にやっても凄いと感じる。
3・4・5もあるんだけど、その後の受容史みたいな感じなのでとりあえずは要らない
体力集中力がもっと続けば一日にできることが増えるのだけど、今の状態でも相当一日長く感じるし、、
FF10で大分しんみりしてしまっている
刑務所も空間的に連続した場所にあると改めて思うと不思議
FF8、9、10で言うと、キスティス、ダガー、ユウナ、というような傾向
海街diaryの四人みたいなタイプは性格造形という面では興味ないな…
関係ないけど、今月ついに樋口一葉の享年を超えてしまうわけで
もう誰々の享年を超え(てい)るんだな、ということはよく考える
「イメージ」という言葉はときに「雑な理解・曲解」を指すこともあれば、「豊かなイメージ」とか「自己イメージ」というように使われることもある。
駒込・王子・赤羽の南北線の方面もめっきり行かなくなってしまったなぁ。
カントが時空を先験的とみなしてからアインシュタインの相対性理論まで1世紀強
ハムスターは2000〜3000円、うさぎは数万円、犬猫は数十万円で取引される世の中
一次文献を尊重しようというのは正当だと思うのだけど、極端に一次文献だけを尊重するにも関わらず語学的な部分については文法書・辞書に頼り切るというのはアンバランスというか、辞書・文法書つかってる時点で二次文献的な理解も入ってきているということに無自覚的でよくないんじゃないだろうか
FF10、神話的な世界観を綺麗な映像と物語に結実させていてよかった。インターナショナル版でやると日本語版のセリフ吹き込みのアニメっぽさを感じなくなってよい。ゲームとしては、システムは面白いのを作ったように思うのだけど、パラメータ調整のせいか若干作業ゲーになってるような。
カムヰヤッセンの劇がとてもとても面白かった
ふだんから人とたくさん関わっていて一人一人をとても細やかに観察していないと書けないようなタイプの脚本だなぁという感じ。
変な言い方だけど、とても社会勉強になるというか、刺激を受ける
FF10、初めてやってた時は小学生で、キャラクターみんな年上だしそれぞれの内面だの葛藤だのほとんど読み取れなかったけど、それだけにこれくらいになってやり直してみるととても胸がいっぱいになるなぁ
お正月やお盆の親戚の集まりでのテレビ・雑誌ソースの床屋政談とか健康雑学みたいなものに耐えねばならんのだ、別にみんな真剣に何かを追究したいわけじゃなくてなんとなく話題になっておまじないレベルに役に立ちそうなもので十分だから難しいことは考えちゃいかんのだ、みたいなことを感じる
「何が正しいか分からないから何もしたくない」→「何もしないとやられてしまう、だから自分が無根拠であることに耐えて戦うしかない」
ていうか、母とかパートとかいう概念にしたらまだ生々しくないけれど、小売り飲食店のパートのおばさんの賃金はその子供の通う街中の塾へと流れて行ってるんだなと思うとあれ
音楽の基礎 (岩波新書) https://www.amazon.co.jp/dp/4004140579/ef=cm_sw_r_awd_WgKiwbYSJFBA7… @Amazon これも最初の十数ページから音に関する固定観念を突き崩していってくれて頭がやわらかくなって良い感じ。
古畑任三郎の捜査のやり方際どすぎる
明日、ブルーバックスの現代数学小事典が届く
こういう気分になったときはひとしきり虚無感を出し続けるより他はない
手に入らないものと過ぎ去った過去がいつも美しい
何となく、最低限の体裁を整えたものは書けそうな見通しが見えてきたような感触があるのだが、読みの深さやら論証の細かさやら追及すればキリがないし、どこからどういう風にやっていくべきだろうか。。
ぶっちゃけ、適当に書いて早く卒業確定させてぇ〜
締め切りが1月上旬なんだけど、いちおう個人的に第一稿の締め切りを12/1に設定して書こうかと思っている
青春の墓標、ねぇ
船曳ゼミにもう少し参加したいなぁと前々から思っているものの。
振り返ってみて、この一年もいい一年だった。
ただ、これから何を目標になにを拠り所に生きていくのかが取り留めがないなぁ
ずっと納得いかないのは、いくら数世紀も昔の人とは言え、ただ言葉を唱えることで世の中が物理的に動きうるなんて知識人が本当に信じていたんだろうかということ
果物と野菜の区別も文化的なもの?
かぼちゃくらいになると、本当に野菜なのか、果物とは言えないのか、だいぶあやしい気がする
キウイとかレモンとか野菜扱いでもよくない?
「あらゆる場所で、世界の連続性に亀裂が生じている。個別的なものが、存在するという裸形において浮きたっている」。「存在することはそれ自体としては、世界のうちで一箇の悲惨である」。
地球の構造について勉強し直した結果として、まぁ地面くらい揺れてもしょうがないでしょ~っていう気分
ものにもよるけど、特に軽いものの場合、環境・性格→ストレス(心への負担)→心身(脳・自律神経など含む)への負担→精神疾患という流れを考えるなら、カウンセリングは前二者に働きかける方法なので、良いと思う。
渋谷のヨシモト∞ホールの新人芸人のコントのオムニバスライブみたいなのを何となく見に行ったときに、どれも全然面白くなくて、「こうやってみんな消えていくのかぁ…」と思ったことがあるなぁ
もっと言えば、どこで誰と何をしていても、この行動は本当にこれでいいのか、という気分がどこか抜けないような
あとRPGで街を隈なく探索しないと取りこぼしが起こるかもしれないという感覚が現実に貫入してきているような…
ジーパンのサイズを一つ下げられた〜
もう1サイズ下がると昔と一緒になるはず。。
うまい具合にその時々の社会のトレンドと背景にある文脈・歴史と更に興味があるときの参考資料とを載せてパッケージ化していくれているメディアってなんかないものかなぁ
新聞はその辺りが最適化されてない。
「結婚はしたいし子供は欲しいし孫も欲しい」というのは理解できるとしても「自分は遺伝子を残すために生きている」とか本気で思ってる人はいないでしょう
竹井詩織里は良い
でもめっちゃすごい人を目の当たりにすると、世の中にはこんなにすごい人がいても滑らかな日常が滞りなく進んでいって、この人もそれなりのポジションでそれなりの業績を積んでいくくらいで、革命的な出来事が一気に起こるわけではないんだよなという気分になって閉塞感を感じてしまったりするのだが、
ん~どうなんでしょう。さっきのはパラパラめくって目についたページの図を撮っただけなので何とも。西田幾多郎の文体は何が書いてあるのか全然わけが分からないことで有名ですが、ふつうに考えていると名指せないようなものをなんとか言語化しようとしてそうなっているという
面はあるでしょうし。ここで「絶対」というのがどういう意味での「絶対」なのかとか、「無」というのが「有」に対する「無」なのか、それともどういうニュアンスなのかとか、そういうことを一つ一つ丁寧に見ていかないとピンと来ないような部分はあるかと思います。
作として表現しようとするならば、主に文章言語として表現せざるを得ないですけど、それでふつうにやっちゃうとそれこそ「矛盾」(これも哲学的には色んな論争がある概念なんだと思います)しちゃうので、何重にも屈曲した表現を使って何とか伝えようとするわけですよね
ここさけとかいうやつは面白いんですか?
青春感動アニメ…!
みんななんのかんの言っても根本的なところは性格によって規定されているよなぁみたいな身も蓋もないことを思う
ゲームの中の世界観はパッチワーク的に出来ているなぁと思ったけど、もしかしたらゲーム内の世界は存在論的な原理自体がパッチワーク的に出来ているのかも。物理法則で貫徹される世界というより、複数の基礎的な法則みたいなものが相互に矛盾して相克しあいながら成り立っている世界なのかも。
せめて岩波文庫の青帯を100冊とか読んだら深く細やかに違った世界が見えるようになるんじゃないかなぁとか。自然科学方面のも含めて
必要な知識をインストールしてくれる、あるいは豊かな体験を供給してくれるメディアが本以外にありうるのならば極論としては本は要らない…
でもいまの技術水準の現状としては、ある種の濃密な知識や体験を得るには紙にインクで印刷されている書籍媒体は不可欠だし、社会全体として保存・継承していくにもそれが一番残っていく確率高いだろうし、書籍というものがそう簡単に途絶えるメディアの形式ではないだろうとは思うけども…
歩いてたらレトロな喫茶店を見つけた
西洋哲学史 古代・中世編―フィロソフィアの源流と伝統 内山 勝利 http://www.amazon.co.jp/dp/4623026639/ef=cm_sw_r_tw_dp_58Xmwb1CXQFH0… @amazonJPさんから これもちょこっと読んでみたらだいぶ良い感じなんだけど、まぁ落ち着いたら(?)通読したい
ある程度勉強すると、宇宙の地球上の西暦21世紀の日本列島において或る一人の人間として生きていることが相対的な事実に感じられてきて現実乖離的な感覚が生じてきて、自分なんでこんな生き物やってるのみたいな気分になってくるし、それはもう一生どこで誰と何してても残る気分なんだろうなみたいな
ff7と8って何となく共通点あるし、8と9もそうだし、9と10もそうだし、何となく前作品を引きずりつつ次の作品を新しく作っていくのだなぁとか思う

2015年11月
喫茶店の隣で、謎の通信カウンセリング技術講座の契約だとか、スピリチュアルや占いは好きですかとかいう話が展開されていて、とてもげんなりする…
「もともとスピリチュアルとか下らないと思ってたんですけど起業してから自分は狭い世界で生きていたなということに気付いて〜」
某書店に、書籍の内容を利用したスマートホンでの検索はご遠慮くださいとの表示が。amazonで調べてほしいものリストに入れるのはダメかな。っていうかそれをやめてほしい意図の表示なのかな。タイトルは書籍の「内容」に含まれているのかどうか。
この2週間くらい姿勢を良くしようとしてたんだけど、背筋を伸ばそうとして逆に肩〜背中のラインが全体的にせり上がっちゃって逆効果だったっぽい。深呼吸で息を吐いたときの脱力感を維持したまま、歩くのに必要なところだけ力を入れる、がいいだろうか。
寿司職人の10年修行みたいな世界は単に不合理な悪弊なのか言語化不可能な繊細な技術が必要とされるのか何なのかわからん
プライベートライアンを観る
「テクネ 映像の教室」もエモくて良い。
真面目な人たちは卒業論文というのを卒業レポートと言い換えるくらいの気分の方が良いのではないか。
本は読み飛ばせとか、とにかく精読するのが大事とか、速読のやり方とか、そういう本たくさんあるけど、必要に応じて必要な丁寧さ(or速さ)で必要な部分を読めば良いという当然のことを早く教えてほしかった、そういうことに自覚的になれたのは多分ここ1年とかくらい
そんなことすらずっと分かんなかったの訴訟レベルに損
不安ベースで生きてきたんだけど不安がかなり消えちゃって困っているのがここ7〜8ヶ月くらい
物理的物質的な層の次元で理解すれば、たぶん通常の意味での矛盾は生じていないだろうけれど(或る物が或る場所に存在すると同時に存在しない、とかそういうことはまぁ常識的に言えば起こらないというような)、制度・共同体など文化的・社会的構築物はどうやったって色んなものの接ぎ木で成り立つから
まぁ色々な矛盾・摩擦・衝突は起こるに決まっていて、すべてにまともに対応するのは無理なので無視できるところは適当にかわしたり調停したりしつつ大事にすべきものは大事にしようという
辞書は二次文献であり、数学はn次文献パッチワーク(だけどなぜかみんな共通に話が通じてしまうけどそれが何故なのかについては諸説あり)
権八はエモい店
フォアグラ串なう
RT鍵: なぜ法学部には哲学がしたかった青年がいるのか
ヨドバシの8Fはなんか内装が変わってまだ改装中だ…
中世哲学の大権威でもちょっと守備範囲を外れるとヤバかった事案
自分の方が頭悪くて思慮が浅いのではないかっていう前提を立てて色んな事象に関する人々の考えを解釈していた時期が長かったんだけど、みんなそんなにいちいち考えてるわけじゃないんだなと気付いたのがこの一年くらい…
たぶんただただ僕の偏った感性なんだけど、無意識的にトレンディドラマみたいなのを恋愛の規範としてイデア化していたので、なんちゃらbotは現実の些細さを突きつけてくれる感があってよい
そう、あのbotに感じ取っているのはこういうことだ
イベント楽しんでる自分や友達の写真でスマホの写真フォルダが溢れてる人、さすがに遊びすぎではないか
自己肯定感が低いとき、ある他者ができること・知っていること・経験していることを、他者一般(「みんな」)ができること・知っていること・経験していることと感じてしまい、「自分はそんなことすら…」って無意識に思っていっちゃうことってありません?
生に期待しすぎていた
いや、自分のことは良いんですけど、本当に人間関係くらいしコンテンツのない人たちが世の中にはたくさんいると思ってなかったもので
恋ってお洒落でかっこいい事と思う時期があるじゃないですか(ありませんかね)、でもそういう面ばかりじゃなくて、それくらいしかやる事がない人達がたくさんいるような事柄でもあったのかっていう
10年後くらいには回り回って、経済力と社会的地位と家庭があることが大事と考えるめちゃ保守的な人間になってるかもね
なんかこう、何を読んでても、こんなの読んで一体何になるんだろうって気持ちになってしまう…
音楽に対する関心も一応あるかもしれないが、それもモテそうだからであり、ピアノもなんとなくモテそうなものの象徴であり、つまりモテの問題なのではないか
コツコツ練習して楽しみたいとかではなく、自由自在に弾ける姿にただ漠然と憧れるという気持ちはまぁわかるっちゃわかる
なんというか昔もみのもんたとかはまともな人だとは思ってなかったかもしれないけど、テレビに出演してる人々がただの人間だとはなんだかんだ思いきれていなかった節がある
彼氏くらいしか楽しみしかない状態で彼氏と喧嘩をするというのはまさに実存の危機なんだろうなぁ
ていうか研究室にはんこもらいにいくのだるいな〜
そもそも生きてて何かがどうにかなるわけでもないけど、だからと言って死んだらどうなるかは厳密に言うと全く明らかではない。
えらい人の時間をもらうの何か自己肯定感が削がれるんだよなぁ。。。
でもまぁ最低限必要な手続きだしいいのだ。。。
ん〜〜〜なんかこの変の感覚が適正化されてなくてちぐはぐ
『Nのために』が『白夜行』に似てると聞いたけどどうなのだろう
はぁぁ~ちゃんと将来は最低限でも小奇麗なおじさんになりたいぞ。。。
でもツイッターを切ると息抜きになるんじゃないか説はある。。。
どの分岐点を辿っても最終的に毎日この時間帯には疲れることに。
生殖で生命が生まれるの、仕組みが解明されていてもやはり不条理かつ神秘という感じがする
『翔太と猫のインサイトの夏休み』を手に入れました
図書館とカフェを往復するだけの生活をしてたら目の前の光景がゲシュタルト崩壊していって変な感覚に襲われるという状況はまぁわかる、吐き気にはならないが。。。
きわめて感覚的に言うと、僕は決定論を支持するけども、それでも生きて悩んだり悩まなかったり行動したりしなかったりすることには何らかの意味での意味があるし、あらゆる存在は最終的に救われる、けれどもだからといって今悩んだり考えたり動いたりしていることに意味がなくなるわけではない、と思う
数学と論理学だけには確固とした意義があるんじゃないかという気がしているけども学ぼうという気はあまり起こらない…
数学すら10世紀後には仏教くらいにはレトロ思想になってるかも…?
でも、いまの自然科学は相当世の中を整合的に説明できているし、いくら古びても仏教思想みたいな立ち位置になることはないだろうと思いつつも、最終的にはわからないよなぁ
日本思想史は近代科学の発展との絡み合いのダイナミズムみたいなのがあまり感じられないのが面白くないよなぁ
昨日卒論の見込届けを出して、今日、今学期唯一とっていた講義をぶっちしたら、いよいよ卒論以外やることがないという気分と状況になってきた。
心配と心配りの違い
代筆の仕事を引き受けるような境遇に追い込まれている側の人たちを考えるとつらい。
自分のやってきたことの価値を自分で踏みにじるような仕事を引き受けちゃうのだから相当追い込まれている状況に違いないわけで
テキストを読むことに一生を賭けることを選択した人たちというのの存在はとても尊いのかもしれない。
むしろネガティブな話がされていると、「自分のことじゃないよな…いやさすがに全然関係ない人達だし違うよな…」ってま思っちゃうのである意味わかる
FF7のプレイ動画を見てるけど8に比べてレトロ感が急激に上がって良い。
ぱっと見で誰かを好きになるというとき、外見と中身を切り離すという意味での外見を見て好きになるというよりは、浅い観察ではあっても、その人の雰囲気から感じられる人間の総体を好きだと思ったという方が適切だろう。
人を外見で判断してはならないっていうのは「判断」のレベルの決定はしちゃいけないってことだという話にとても納得がいった(この「判断」は日常日本語として使ってるので某クラスタの人は気にしないで!)
歩くのは案外大事って気付いてから歩くのが億劫にならなくなって良かった。
50人以下〜100人弱くらいの客席数の劇場での、1000円強〜5000円くらいの料金の公演って、本当に当たり外れ激しいよなぁということをやっと理解しつつある
一応は事務所に所属してる、一応セミプロくらいの形ではあるだろう、自分より若い人たちが、本当にアマチュア全開な脚本(というか、アマチュアの普通の脚本よりも全然アマチュアっぽい脚本)をやらされてて、みんな基本的に演技下手で、これはもうやり甲斐の搾取というか誰か何とかしてよって気分に…
プロとアマチュアの区分けというのもそんなにはっきりしたものではないのだなぁ
ていうかアマチュアとプロってもっとはっきり分かれているものかと思っていたのだけど、それは端的には商売にする意図があるかどうかの違いでしかなくて、アマチュアでちゃんとやってる人たちのほうが泡沫のプロ・セミプロの人たちよりはるかに質高いんだね…舞台に限らず何でも。
生活を賭けている人より趣味でやってる人の方が質が高いことは普通にありふれた事であるというのはかなり酷な現実…
まずい定食屋も、愛想の悪い店員さんも、教え方の下手な学校の先生も、みんな「プロ」と言えば「プロ」なのだけど、なぜ「プロ」という言葉はすごい方の人達を偏ってイメージしてしまうのだろうか。
学問にはそれぞれの領域で独特の専門用語ってあると思うんですけど、哲学の場合、輸入・翻訳された時期の関係とかで、日本語としては日常的な熟語なのに独特なニュアンスで使われることが多々あり、他の熟語との関係で一つのネットワークを作っていることがあって、それをいまターミノロジーと呼んだ
それこそ「認識」「観念」「存在」「自己」みたいな普通に使うような日本語を、普通の使い方と関係あるっちゃあるんだけど全然違う意味を込めて使っていて、それらはいわば「専門用語」で、他の学問だったら専門用語は専門用語ってパッと見でわかることが多いけど哲学は分かりづらいから困る
かといって、哲学事典みたいなので例えば「存在」って引いてみると古代インドの話から近代日本の話までひたすらズラズラ追って書かれていたりするから、一体どこからどうやってやったらいいものやら、という
「脱構築」とか「超越論的」とか、一目で専門用語って分かるやつの方が、その意味ではむしろ対処しやすいというか。少なくとも、分からないということはかなりはっきりと分かるので。
「批判」とか「意味」とか「否定」とか「他者」とか「所有」とか。
中島義道がエッセイ的な本と学術的な本とどちらも色々書いているのは戦略的にやってるのかなぁという気もする。
RT鍵 和書では、田島正樹『読む哲学事典』、永井ほか編著『事典 哲学の木』が概念の内実に即した入門書として機能しそうですね。もっとも、多くの人にとっては駿台や河合の現代文講師が書いた参考書で知らないうちに哲学の概念について学んでいるような気もします
あと何か例えば、人生の意味は何かとか、人間はどう生きるべきかとか、そういうことを悩んでるけど人文系リテラシーがそんな高いわけではない人がいるとして、ショッピングモールとかの小さめの本屋だと、心理・哲学・宗教が同じ棚に並んでいたりして…とか
夏目漱石が国家を背負ってやったやつと一週間のプチ海外旅行とどっちも「留学」だったりとか、やったら頭良い人が一生をかけてやるやつと人生についてちょっとみんなで語る青春とがどっちも「哲学」だったりとか
というか僕自身は、「本には良し悪しがある」ということすら、あまりはっきりと認識してなかった時期が長かった。
泳げない頃と比べての変化は、
・鼻詰まりが解消されている
・体の力の抜き方がわかった
・泳ぐときの推進力の働き方がなんとなく理解できた
駅が密集してるところにいると、電車使っても徒歩でもどっちでも20〜30分かかる交通網の穴みたいな場所があって、もはや逆にそういうのに不便さを感じるくらいになってきてしまう
まじで地道に努力する以外に欲望の満たし方が存在しない
マッチョ主義っていうか、希望としては、もっと軽薄な自己演出的行動とか新しい経験とか意識高い目標掲げるとかで一瞬だけ自己評価がすごい上がるみたいな選択肢がほしいけど、たぶんもうそういうのがない…
昔あった面白い体験とかを振り返ってみよう
なんか一瞬だけ自己評価が過剰に高くなったりしないかな〜〜
そう言えば、ものを買うのって快感になる場合が結構あると思うのだけど、それは何故かと考えると、服であれ本であれ雑貨であれ、買ったときには、自分のあり方の可能性の幅が広がったように感じられるからなのではないかと思う。でも実際には一日は24時間で自分の身体はこのひとつしかないので、
これ前も考えたことあるか。飲食店で、着いた直後の空腹の状態で食べたいものがたくさん思い浮かんで頼みすぎて、結局残してしまう、みたいなのとか。ものを買うという行為は、自分の身体的・物理的限界を超えて欲望が肥大化するのを可能にしてしまうので、幻想を見やすくて、快感になりやすいというか
で、そういうの本当に無意味だなと思い始めると、地道な努力しかなくなるという…
たとえば物心つく前の自分のことは親(養育者)のほうが遥かによく知っているだろうし、周りから見て自分がどう見えるかは、定義的に他人にしか分からない。そういう意味で、自分は自分について包括的・特権的に知っているわけではなくて、他者を通してしか知ることができない自分というのが必ずある。
とは言え、自分というのは、この身体として画されている自分について誰よりもよく経験し、記憶し、配慮し、解釈してきた人間ではあるだろう。
そういう意味で、いちばん身近な他者としての自分、という風に自己というものを理解できる面があるように思う。
久々にテレビドラマの白夜行を観ているんだけど、犯罪とか警察とかの描写ひとつひとつが何かちゃちいなぁというような感じ方に変わってしまっていた。けど第一話と(たぶん)最終話は映像的にも物語的にも面白いはず。
学会だとか研究会だとか論文だとか、そういう世界にほとんど興味がわかないなぁ
主要な大乗経典と、天台智顗からの流れと、古代〜中世の(仏教に限らない)日本思想全般の主要テキストと、って読んでいかないとうまく焦点結ばないと思うんだけど、宗学の人はそういうの疑問に感じないのかねぇ。。。
計画して行動して反省してを繰り返すというのは多かれ少なかれ人間の基本的な行動様式のように思うので、PDCAサイクルっていうのが何故そこまでもてはやされるのか、疑問
『虚構の時代の果て』、たしか中2のときに学校の図書館で見つけてしまい、変な感じに受け取って厨二病へ…
今読んだら、まぁ面白いけど何ということもない本なんだろうな、と予想している。
動物化するポストモダンも読んだ
あぁ…島宇宙なんだ…ポストモダンなんだ…虚構の時代なんだ…とか思っていた
批評界隈の本に最後に触れたのは、一般意志2.0だと思う。あの頃はまだ人文系高等教育も受けてなかったので…
親鸞ってもてはやされているイメージがあるのに、学問的水準としては未開拓の研究分野だったとは…!
現代人にとっても(現代人であるからこそかも知れないけれど)心があるということは素朴に不思議なことだけれど、近代以前の人々にとってはその不思議さはまた別の類の不思議さとして感じられていたんじゃないだろうか、と思う
でも当時としては物理的にも精神的・社会的にも世界を包括的に説明しようとした最先端の概念体系だったわけだからなぁ
生殖の仕組みも天体の存在も物質の成り立ちも宇宙の成り立ちもすべてが神話的・形而上学的な説明にゆだねられていた時代には、むしろ逆に心があるということは相対的にはそこまで不思議なことには思えなかったかもしれない。
狭い意味での宗教というよりは、近代以前とくに古代中世の日本において政治思想・社会思想・自然哲学・芸術・技術・儀礼などの文明的なものが仏教という枠組みで輸入されて発展してきたということが大事なんだと僕は思う
たとえば、ほとんどの人が原始時代とそう変わらない生活をしていた時代に、日本各地に当時最先端の工学技術で寺院が建てられていったというのは、やはり一国を政治的・文化的にまとめる上では大きな力があっただろう。ほとんどの人が文字も読めず紙も貴重だった時代には仏典は神々しかっただろう。
あとはまぁ、数千年間継承されてきたジャンルなんだから、大量生産・大量消費の社会で誕生して数十年しか経ってないようなジャンルに比べたら、コンテンツとしての質とか競争力は平均的にみれば圧倒的に高いだろう、という
やはり勉強はそんなにぶっ続けでできるもんではないね…
姿勢について試行錯誤したら、肩から背中にかけての凝りがだいぶ改善した気がするのだが、体が軽くなるとますます現実感が希薄に…
そのうち片付いたら考えてみようとか思ってたんだけど、これ以上片付く場所がない。
この三年間くらいそれなりに勉強して知的な訓練にはなったと思うんだけど、もう哲学とかよりもっと自衛隊とかスパイになるための訓練とか受けた方が総合的な生きる能力は上がるんじゃないだろうか。(そんなことをして何になるのかは分からない)
哲学書とかには、もっとこう、漠然となんかすごいことが書かれてるんじゃないかと、つい数年前には思っていたのに…
そういう漠然とした憧れ成分がなくなっていっちゃうのは悲しいといえば悲しい
古代インドの仏教とか研究したって専門家コミュニティの中以外では何も楽しくないだろうに、なんでそんなものに人生を賭けようと思えるんだろう。。。本当にどういう人生を歩んだらそうなるんだ。。。
まぁ、ツイッターで大学の将来とかに関するよくない情報が入って来やすいのは大学関係者の人がツイッターに多かったりするからであって、日本経済全体が傾いてるのだとすれば大学に限らず基本的に将来は暗いのだろうから、将来暗いかどうかとかでネガティヴに考えてると選ぶ道はなくなるような気もする
つまり、何ていうか、もともとの紙メディアでもある程度自由に発言できるような空気だった職種業種の人が、ツイッターによって自由に発言できる場が増えたってことで、情報の偏りはさらに激しくなっているのかもしれない。
「学生や研究者が研究対象としている作品の文体に影響を受けることはよくあります。しかしそれによって、難解な文章を意味不明なさらに難解な文で説明するというような、恐ろしい文化的状態が出現することがあるのです。
ある学問分野で一流とされている人の文章でも、そのまま真似てよいということではありません。」
論文というのはもっとも広義には何かを論じた文章としか言いようがない気がするのだが、一方で卒業論文というのがどれくらいの精度でどれくらいの範囲の事柄をどういう手続きで扱うのが理想なのかやっぱりいまいち分かんないのだが、まぁあれだ
なんか日蓮を論じる場合、伝記的な話とか当時の社会状況とか無視できないと思うのだけど、テキスト内在的と言われると、そういう外在的な話は触れない代わりに内容を萎ませちゃってのか、それとも周辺的な状況まできちんと自分で一次文献から再構成すべきなのか、いやでも卒論でそれは酷だろうとか…、
知的・精神的・体力的に圧倒的に優れていて、行動力やら人間的魅力にも富んでいた人、要するに圧倒的に凄かった人が、たまたまその時代には後に宗教家とカテゴライズされるような形で活動した、っていうパターン結構あるのかも、とか。
誰にも伝わらないと思うのだが、「小説の中に突然、空白のページを入れて、この空白の間に読者の想像力は膨らむと言い放つ小説家」という批判は、平野啓一郎の『日蝕』に対するdisだったのか
ドキュメント72時間も最近だいぶどうでもよくなってきたなぁ……
毎回「色んな人がいるなぁ」という以上の感想が持てなくなる
本郷〜〜御茶ノ水・神田〜〜東京・銀座〜〜虎ノ門・六本木〜〜広尾・恵比寿〜〜渋谷みたいな感じで夜中に都内を一人で歩き回る、みたいな謎の行動をした頃があった。
最近殺人事件とかテロとかそういうニュースを聞くと、寂しさというか心細さというか、自分もそういうことに巻き込まれたらどうしようという不安感のようなものをかすかに感じるようになってきた。
まぁでもツイッターでこんな騒いでるのにテレビ平常運転だと不条理劇の中に入り込んでしまったような気分にはなる…w
当然のことながら、テロリストを擁護したいわけでは全くなくて、テロの背景にある宗教対立や国際情勢を言いたいわけでもなくて、ただただ「敵」を「殺す」ということのためだけに自分の人生を丸ごとかけてきた人の中に、どんな感情と論理の襞が折り重なっているのか、純粋に人間的に気になる。
普通に今の日本に暮らしてる人々より、「人を殺す」ということについて、方向性は間違っていても多く時間をかけて感じて考えていると思うのだけど、どんな風に捉えているのだろう。表層的に色んな言い方はできると思うけども、きっとそれなりに複雑な感情があるだろう。
歴史学の本って何をどう調べてどう根拠付けて一文一文を書くもんなんだろう。。
さすがに一文一文を、一般的に認められている事実まで含めてすべて一次史料から作っているわけではないと思うんだけど。
3年くらい前に、それまで慢性的な鼻詰まりを鼻詰まりとして認識してなかったのに気付いたのはだいぶ人生の進歩だった
土曜夕方の気だるさみたいなのはある気がする。
学校に通っていた時の、明日は休みで今日午前は授業っていう習慣から生じる特有の感覚みたいなのは染み付いているような
「世界への接岸は〈すみか〉という非-場所から出発して、空間を踏破し、本源的な把持をおこなおうとする運動、さらに、掴み、運搬しようとする運動において生起する。〈始原的なもの〉という、不確かな未来が中断される。〈始原的なもの〉が家の四つの壁の中で固定され、所有のうちで静まりかえる。」
佐藤弘夫『日蓮』と中尾堯『日蓮』で日蓮のリアリティスティックな側面がだいぶ掴めた
佐藤弘夫のやつは一つ一つのテキスト上の根拠と推論の確かさの度合いとがきちんと文章に表現されていてとても参考になる…助かる…
時代も国も文化水準も価値観もまったく違うと言っていいような、けれども卓抜な知性を持った人たちの書き残した文章を丁寧に読んでいくと、そこにはどんな考え方が展開されているものなのか、それを読み解くことは純粋に楽しいことで、
他人がどんな風に考えて感じているかを想像していく、ということは僕にとっては結構面白いというかやりたいことの一つで、自分はその延長線上に古典を読むということを位置付けているだろうか
天気変わったら気分変わるんだから、気候風土が違えば人々の考えることが違うのは当然のようにも思うのだけど、そういう観点からの精緻で体系的で網羅的な分析って聞いたことない。
というか和辻哲郎の『風土』を思い出したのだけど、そういう感じのを発展させた分析やら本やら学問やら他に聞いたことがないけどあるものなのか
インド-中国経由の仏教が日本化して行ったのも、まぁラーメンのようなものなんかな、とかいま適当に思いついた
論文書くためだと思って本読むと歴史的な説明の一行一行が何を根拠にして書かれているのかすごく気になってくるな。。。
根拠を知りたいというより、どう考えて一文一文を書いてるんだろう、っていう
中世くらいの「執筆」ってまさに「筆を執る」という感じの緊張感と非日常感があったのかも、とか
文献揃えるのも、物理的に紙に筆で書くのもたぶん数十倍の苦労の貴重さがあっただろ
まぁ現代のように無限倍の文献がavailableになると無限倍の文献を読むことを(理念的・理想的には)強いられるからつらいという面もある。
世の中の人々の95%にとっては社会の話題はスポーツの下馬評と変わりないのだという前提を忘れると絶望が訪れることになる
やっぱり陰影がある人に憧れるのだなと
「最近の研究では〜という単純な図式でとらえることはできなくなっている」という類のフレーズあらゆるところで見るような気がする
でも「最近の若者は〜」みたいな時代関係なく普遍的なフレーズでもないようにも思う。アカデミックコミュニティがだいぶ発達した戦後のある頃から、広範だけどもひとつひとつは粗い先学の研究・開拓の上に作られた図式を乗り越える中で流行り始めたフレーズなのではないかと想像したり。
RT: そういえば丸山真男が既に60年代の時点で学問のタコツボ化がどうこうみたいなことを言っていたわけだが逆にいつまではタコツボじゃなかったんやろう
最近だと、『哲学の歴史』別冊の鼎談にもタコツボ化の嘆き(最近の院生は早い頃から「初期〇〇が専門です」とか決めてかかっちゃってて心配だ、みたいな)とかがあったような。はじまりはいつなのだろうか。極端な話、和辻哲郎とかの時代にタコツボになってたとはさすがに思えないし。
「専門は〇〇です」みたいな自己紹介のしあいを見るのは、まぁ仕方がないというか意義も必然性も色々あるんだろうけど、とは言えゲンナリする…
それもなのですが、そこで考えていたのは仏教研究についてで、江戸時代とかに各宗派で研究されてきた蓄積が膨大で大変だったりするらしいんですよね。僕も大量の研究と格闘するのはちょっといやですね…笑
網羅性というよりは、泥縄というかごった煮というか。
レンガを積んでいくような網羅性というより、殺陣において主役が敵をバサバサとギリギリのタイミングで切り払っていくような、そういう繊細さと息遣いのようなものなんじゃないか
映画etcちょろちょろ見ながら卒論関係の本を読み進める生活、最高に理想的なはずなんだけどなんか疲れる……
地理の勉強をしたいんですよね。
RT鍵: 激務の会社は一緒にいる時間が長いから必然的に社内恋愛が多いらしい、バンドサークルかよ
たしかに劇団内恋愛は青春感あるかもしれない。
学生演劇関係者の9割以上は「劇団内恋愛」というフレーズを見て思うところがあるだろう
恋愛をテーマとする演劇の中で劇団内恋愛が扱われていて、ついでに現実でもその劇団内で劇団内恋愛が多発していたという社会実験みたいな公演に参加してたことがあるので(これをこのアカウントでつぶやくのは結構ヤバい)
万一急死したときにいま持ってる日記はどう扱われるのかと考えると怖い。
僕の場合、自己評価な高くはないが、それ以上に他者への評価が低い(すみません)ので、相対的には問題はないのだけど、全体としてはすべて問題
NHKのWebコンテンツの多さを見て思うに、NHKは広報のためにWebサイト運営しているというよりラジオ・テレビ・衛星放送・出版に加えたもう一つのメディア事業の一つとしてWebサイトも使ってるのかなって
今日はテンション高すぎてふわふわしてうまく本が読み進められない〜
ノートは書き溜めてるんだけどまだ草稿としておこしているものは一行もなくて、でも第一稿の完成目標を12/1に個人的に設定しているのだけど、まだ目標達成は不可能じゃないと思っている。。
変な時間に目が覚めた
また寝てまた目が覚めた
これ、おじいちゃんでは…
『ハーモニー』一人で思い立って観てきたんだけど、超面白かった
仲正昌樹の本は昔4〜5年前まで色々と読んでいた。一定以上の知識理解力になると他のを読んだ方がよくなるけど、とても歯切れよく、それでいてひねくれていて、それでいて分かりやすく、面白かった
まぁ800年前だったら短い言葉を連呼してメンタルを整える方法をその理論的な正当化を伴わせつつ広めると同時に政治的な運動も展開したというのはかなりの業績だったんだろう
当時の新カント派と全く違う哲学の語り方を作り出した。
新カント派と比べると、認識ではなく実践の側面に強くアクセントをおいた、って感じかな
ところで、パッと見だと「守護」とか「国家」とか「論」とか、現代語のニュアンスから読みたくなっちゃうけども、むしろ昔独自の意味の使い方があって、それが色々を経て現代の用法につながっているということを意識するべきなんですね
新潮日本古典集成のシリーズが一番読みやすいと思う。
母がバツイチだったという話、なぜか8〜9歳ころまでよく聞かされててそれ以降聞かなくなり、4年前くらいに戸籍を取ったときに見て思い出したのだが、
不可解なのは、なぜ幼少の頃に聞かされたのかということ。記憶違いかもしれないけれど、そうだとしても、なぜそういう記憶違いとして残っているのか、ということになる。
歳をとるほど頭が固くなるというのも一面的な見方で、大学受験で古い水準の知識を詰め込まれた18歳の時点が一番頭が固くなっているという某先生の見方に結構納得した
歳とったらやっぱり最新の科学技術に感覚的についてけなくなるもんなんだろうか…
たとえばの想像の話なんだけど、自動車が本当にほとんど自動で運転できるようになって免許が簡単に取れるようになったとする。今の自分の生活感覚では、それにはとても恐ろしさを感じるが、そういう世の中で生まれ育ったら特に違和感なく対応できるだろう。そういう感覚の変化についていけるか。
手にチップを埋め込んだら超便利、みたいになったとしてついていけるかな。
新しい環境で生まれて育つ人は一旦は当然のこととして全てを受け入れちゃうわけで、一方でそういう技術には必ず良い面悪い面あるだろうから、高齢世代は相対的に比較できる側としてあえて「頑固」に振舞って悪い面について炙り出していくのがむしろ良いのかもしれない、という考え方もできる
なんていうか、仏教思想で、形而上学的に面白い話がされてる部分と、少なくとも表面的には深いわけではなくて大量の文献知識と語学力が必要とされるってだけの部分とある気がするのだけど、ぜんぶ一緒くたに深くてありがた〜い話と受け取られているような気がして、それが非常に釈然としない…
ここさけ良い話でした〜
自分が唯一積極的にどん欲になれてることって面白い作品をひたすら探し回ることだなと思う
性同一性障害の女子大生(自己認識は男性)と、社会学で女性学を研究していて博士課程か就職か悩みながら過ごす女子院生が同棲していて、そこに女子大生の方の母(高卒でシングルマザーで子を育ててきた)が来て、結婚相手が出来たことを告げ、逆に子は性転換手術受けたいことを告白する、みたいな脚本
だったんだけど、いわゆる普通の「世間」にどっぷり浸かってきた母カップルの側とインテリ気味だけど生きるの下手で葛藤している子カップルの側でわちゃわちゃとやる感じで、特にすっきりした結末があるわけじゃないんだけど、喧嘩しつつ分かり合いつつの人間模様が展開される、という感じの
何の経験もないのに理屈ばっかりこねてる人が多いというイメージを持っちゃうのって個人的には某学部なんですよね、、、
もうちょっと体力つけたら普通の高学歴的な仕事でも案外やりがい持っちゃうかもという気も最近してきてしまった。
普通の高学歴的な仕事というのは、かなり広い範囲を指して漠然と言ったつもりです。コンビニのレジ打ちとか寿司屋の板前さんとか力士とかそういうのは含まれないという程度。
@millionsage もっと言うと「(それなりにマッチングできれば)仕事をするのも悪くないかも」という程度です…w
@millionsage 常に感じてた漠然とした切迫感や焦燥感が生活を整理したら消えて(ここ半年間くらいの変化)、リベラルアーツ的な勉強(というか雑多な読書)にも飽きてきた(最近気付き始めたこと)ので、もしかして働くとお金が稼げて良いのではという気持ちが芽生えてきたという
まぁでも、なんとか菩薩がどこで何を言ったみたいな神話的な話を字義通りに受け取って色々と辻褄あわせて解釈して、そこから今でいう自然法則的な真理を導こうとしてて、その文章に延々と付き合って読んでるときに感じちゃう途方もない気持ちというのも理解してほしいのです…w
後世の目線どうでも良いし後世が正しいわけではないというのはそうなのだけど、昔の頭良い人が客観的に言えば間違ってるようなことを延々と真剣に考えてた(理論的に取り出せるもの、社会的な影響はあるけど)って思うと、そういうのは人間一般に普通にあることで、人間ってなんて面白いんだろうって…
久遠実成だの一念三千だのに詩的・形而上学的な真理性は認めうるし社会思想として絶大な影響を残したのは確かだけども、仏典に書いてある誰々がどうしたみたいな話を過去に実際に起こったこととして受け取るという昔のやり方の部分に関しては事実としては誤っていたわけで…
録画してある昨日の「クローズアップ現代」は貧困・DVなどによる自殺未遂などで救急センターに運び込まれる女性たちというとても気分の重くなるテーマ
いまだに図書館のさまざまなシステムをあまり理解してないんだけど、現時点で理解してないってことは理解しないまま終わるのだろうなぁ
調べ学習のまとめになってしまう気がしてきた…
学祭とかお祭り一般って、準備期間にともに活動することの楽しさにいちばんの醍醐味があって、もちろん本番当日のためにその準備は行われるのだが、でも必ずしも本番のみが大事なのではなく、準備の方に楽しさがあり、その楽しさを引き立てるために本番はある、みたいな発想ってあると思うんですよ。
まぁいちおう基本的な研究態度とかそういうのは理解できてますっていうのを示しただけの作文。
お通夜とか葬儀で親戚共々が集まって親戚的な意志決定的な近況報告会的な何かがそこで動く、っていうのはそういうもんなの?
運や幸福の総量が量的に決まっているとは当然全く思わないけども、強いて言えば、「人間万事塞翁が馬の如し」「禍福は糾える縄の如し」というのは経験的にはしっくり来る
オセロみたいなイメージで、ちょっとしたことで状況がガラッと変わっちゃうことはあるよね
一気に親族共同体ismが高まった一日だった
麻布はいまのような境遇になっても暖かく接してくれる人が多くて、むしろそういうのに支えられてきたのかもしれないとすら思ったんですよ。
僕はとりあえず就職して何かに巻き込まれないと何もやる気が出ないんだけど
「巻き込まれる」って大事ですよね
心細さと呼べるような気持ちを結構久々に感じているかもしれない
事情があり、激悲しみ・激おこになってます
ここまで感情の渦が襲ってきたの久々だ…
家族関連の話。

2015年12月
始発で実家へ〜
具体的かつ短期的かつ拘束的な予定が一個入るとそれだけでだいぶ社会に引き戻された感覚
今日病院の入院病棟に立ち入ってみて、たしかに看護士は荒っぽさと繊細さが両方必要だし、べとりんの看護論のイメージがなんとなくわかってきた
今日はやや安心して眠れる…
生きてて楽しいかというと、僕自身は今のところ楽しいけれど、これからだんだんと本格的に老いていって死んでいくということは本当に恐ろしい
ひさびさに社会的な疲れ方をするとツイートが身の回りの感想中心になるねぇ。
「大人しいガリ勉ダメ!」みたいな小学生的カースト意識というのがわりと刷り込まれていてそれを引きずっていると自分が社会的には高学歴であることに逆に劣等感のようなものを抱えてしまう
男性看護士さんは卒なく何の問題もなく看護やってくれてはいたのだけど、いかんともしがたい男性の限界を感じもした。おそらく文化的な問題とかで説明できるものではない。
戸田山和久自身は、生きることに全体として意味(目的)を見出そうとするのはカテゴリーミステイクだというようなことを書いていたような
その発想は、わりと納得するし同意する。けども、そう言われてもやっぱり釈然としない人がいるのもわかるし、おそらく戸田山和久自身もそういう反論も重々承知しているだろう。
自分用の気分転換・リフレッシュのやり方リストみたいなのを作るのかしら。
ここさけはめちゃいろんな事が起こって人間関係が交錯して超盛り上がっていかにもフィクションって感じだけど、リンダリンダリンダは本当にありそうな話でまぁ特に何か大したエピソードが起こるわけではないんだけどまぁこういうのが楽しいんだよねぇ〜って感じで観れる
細部に至るまで徹底的に写実的に描かれている絵画の物凄さって、写真とかテレビとかが手軽に見れて画質も年々上がってきている、果てには3D映画なんてものすら出てきた時代にはすぐにはピンとこないと思うんですよね。
「この光景を見たときのこの気持ちをなんとか伝えたい!」って思ったときに、すぐに写真を撮ることなんか当然できず、ただただ修行に修行を重ねてその時代の最先端技術を駆使して絵を精巧に描き尽くすという試みしか道がなかった時代があった。
ちゃんと職場があって標準勤務時間が設定されているお仕事じゃないと無理〜フレックスタイムとか自宅勤務とかそういうの無理〜
人間関係を、家庭・血縁と学校社会とネットに分けたとき、自分はそれぞれからどれくらいどのように育てられてきただろうか。
あとは…市場経済(教育産業ふくむ)かな?
僕はたぶん家庭・血縁以外の後者3つに対する信頼が強く、家庭・血縁に対する信頼が弱いと思う。
ショッピングモールに入ったときの閉塞感…
これは10年来形を変えつつ続いてきた感覚かな
東京の街並みに飽きてしまったというのはこれから先の人生ちょっときびしい。
目に入ってくるもの一つ一つが目新しく感じられるような時期(ってありませんかね?)が終わり、多少特異なものを見てもなんとなく分析してマッピングしてさほど驚かない程度には理解できる、となると…
久々に川口市の地元に帰ってみて、本当にただの住宅街+申し訳程度の一通りの店にしか見えなくなってしまっていて、自分がとても変わってしまったことを感じる
実家の状況もだいぶ変わってきて、なんか寄る辺なさ
忘年会たくさんある人社交的だな〜
自律神経落ち着け
卒論というか昨日の某動画のあまりのショックが尾を引いている
余計なこと目に入れないように。
総合的にみて、大学は僕にとってはよい場所であった。
高等遊民というのが当時のニュアンスとしてどういう感じだったのか
「ただのレポート、ただのレポート…」ってつぶやきながら卒論を書き進める
研究会とか勉強会とか、雑誌論文にまとまるくらいまでは気にしなくて良い情報かなとか、雑誌にしても書籍化されてまとまるまでは良いかなとか、書籍にせよそれより岩波文庫青帯に入ってる色んなやつとか読むの先かなとか思っちゃって、結局
非常勤講師の先生だと、慣れてる先生はまぁうま〜くむかしの資料をちょっと更新して使いまわしながらやってたりしてて、慣れてない先生とか経験少ない先生はやたら緊張しててぎこちないことが多かったと、受けてる側としても感じた
授業の準備なんてやろうと思えば無限に時間をかけられることは明らかだし…
授業の準備と研究をうまくつなげられる先生とつなげられない先生がいたりしないかしら?
ていうか僕個人としては研究者ルートはブラックとしか思わないんだけど周りにそのルートを目指してる人もいる以上もうちょっと多面的に考える必要がある…
川口市の地元付近の、もともと鋳物工場があった場所で、いまは潰されてただただだだっ広く芝生を敷き詰められた公園になっている。
和辻の風土が某所にあったのでぱらっとめくってみたら確かに現象学っぽさがある。
どうせ某先生のは単行本になるだろうし、そこまで最新の話題についていきたいという気持ちもないし…
いや、東洋大には観劇に行ったり、学食を覗きに行ったり、あの辺の今はなきツタヤに行ったり
ココスで話してるJD
サークルに昔いた東洋大の女子の子は今どうしてるだろうか
東洋大で教鞭をとっていて東大印哲に入り直したおじいさんが今いるような
新宿西口の駅前の通りに構えている占い師さんに占いやってもらったことあるけど、まぁ特に面白いことは起こらなかった
文章作法っていろんな定石が言われるけど、最終的には自分の言わんとすることを明晰かつ効果的に表現するにはどう書くべきかっていうことを考えて自分でスタイルを作っていくべきものなのだなぁ
岩波文庫って昔はきっとすごい先駆的な出版プロジェクトだったんだろう
岩波文庫は所詮は文庫本という気持ちで岩波だからとあまり権威的に受け取らないほうがいいのかもなぁ
おっぱい募金ってすごく瑣末な問題じゃないかねぇ…
別に深刻な人権侵害がなされているわけでもなければ、多額のお金が動いているわけでもなければ業界の構造的弊害が集約して表れている、みたいな感じでもなく…
アプレシオ赤羽、治安が良い
ていうか俯瞰的な知識を手に入れてからじゃないと細部に入りたくない気持ちがたぶん相当強い
「第一は神秘主義的な日蓮信心というもの。やはり今後の日蓮評価のあり方としては否定されなければならないのじゃないのか。第二は教条主義的な日蓮信仰というもの。これは止揚されなければならないのじゃないか。」
否定とか止揚とか、昭和40年代の息吹を感じる
ハモ松さん、JDライフを満喫している…
学科の中で一般的に見れば進捗状況良いほうっぽいらしく少し焦りがなくなった
なんかでも、演技するときに、なるべく自然な感情を自分の中で作った上で演技するパターンと、表情とか声とか動きとか繊細に技巧的に自然に見えるように調節するパターンと、まぁバランスの問題ですけど、ありますよね
でもまぁ何が言いたいかというと自分の認識でこれは数学・そのレベルは数学ではなく算数というのは不毛であり、中学校以上のものは数学と呼ばれているのだからそれでいいと思う。
僕は他者を信頼するのがだいぶ無理だ。
貨幣とか法律とか行政とか公共的なものは信頼してるかも。
和辻哲郎が倫理の原理にしているのが「信頼」
手帳移し替え作業完了
初めて手帳をまともに使えた一年であった。
大学入ったときに親戚にプレゼントされたシステム手帳がオーバースペックで全く使いこなせずほぼ使わず、今年の初めあたりに簡素な手帳に切り替えるまで呪縛され続けたのであった…
手帳を簡素なやつに切り替えてiPhoneのリマインダーアプリを活用するようにしてから、漠然と追い立てられている感じがなくなった。
卒論納めしてぇ〜〜
自分の価値はできるかぎり自分自身の力に依拠して担保しておかないとあれだよね…
新宿歌舞伎町の歴史が知りたい
佐藤優がなんか気になる、みたいなのに近いベクトル
自分も1〜2年前に比べるとだいぶ達観しちゃってるように思う。
生まれる以前のことを肌で知っているわけではないけれども、何となく、根っこは腐り続けているけどまだ花は咲いている、くらいの時代なのではないかと認識して生きている
でもまぁ実際、安全保障の話は概念だけ空回りで説明されることが多くて実態としてどこで何がどれくらいどうなっているのか、非常に理解しづらい
国立競技場の問題がこれだけもめる統治能力の政府にそもそも軍事を任せられるのかっていうと、どうしても、信用ならないという気持ちにしかならず、それは思想信条とか政策とかの話ではないんだよなぁ
看護婦さんの世界も裏はいろいろ大変なのかもしれない。
みんな、もちろん一人ひとり性格の違いはあるけれど、愛想が良くてきちんとコミュニケーションとってくれてテキパキしていて、という、かなり偏って特定のタイプの人々が集まっていると感じる
まぁウェットな人には合わない仕事だよなと思う…
なんかこう、自分のできる範囲内で考えるべきことだけテキパキと考えて、それ以外のことは気にしない(気にならない)っていうのが強く必要
あのときのあれ大丈夫だったかな…みたいなこと振り返っちゃうと絶対耐えきれないよね、でもちゃんとはしてなきゃいけないから、どうやったらそういう風になれるのかちょっと僕には分かんない
僕も特定の出来事を反芻しすぎる性格は修正したいのだが
自分なりにちゃんと判断して行動しようと思うとそういう考え方にどうしてもなっちゃうんだよなぁ。
でもお医者さんがみんな知的に誠実にやろうとすると、ふつうに風邪でお医者さんにかかるだけでも「風邪でしょう」となるところが「〜と〜と〜の症状があるので、おそらく99%程度の確率で風邪でしょうが、もしかしたら〜」とかなってしまうので、知的ではない誠実さが必要な仕事ではあると思われる
構造と力は、読んだことあるって言うために読んでおきたい
ガムテープってどうやって製造されてるんだろうと一瞬思ったのだけど、まぁ頭のいい人が色々工夫したのだろうというので納得しておくことにした
女性側からの離婚を難しくさせる制度として実質的に機能してるのか…たしかに…
親族や家族というつながりを直感的に受け取れないまま生きてきてしまった気がする。
生活周りの常識を教わらないまま育てられて、学校教育やメディア環境の中での人間関係でそれが補われてきて、なんかこう身の回りの生活世界に関する理解がデコボコになっていたのが特にこの数年でだいぶ均されてきた…はず
ひとが人間関係を理解する際の原像や鋳型ってその人の家族関係にあるような気がするのだけど、それがガタガタだったもので…
ところで、今日はおばあちゃんが亡くなったので、色々とあれなのでした
で、そのあれでここ3週間くらいドタバタしていてあれなのでした
最後に病院で話したとき、お金足りなくないか、ご飯ちゃんと食べているか、という僕への心配をいつものように聞いてきたのが、おばあちゃんだったなぁと思う。僕の母=おばあちゃんにとっての娘が亡くなり、父も亡くなってから、孫の面倒は何としても最後まで自分が見ねばと思い続けていたのだった。
孫というか、亡くなった娘の、その息子、ってことだからね。娘を亡くして、その息子が残されてる、っていうのは、おばあちゃんの強い性格もあるだろうし、自分がなんとかしなきゃなぁって強く思うものなのだろうね。
大正生まれだったから、まぁ大往生だったよね
僕は4〜5歳の頃から20歳の頃までずっと母の実家=おばあちゃんのところで暮らしていたのですよ。
おばあちゃん的には普通に医学部に行って世間的に成功することを望んでいただろうと思うんだけど、僕は数年前よりも遥かにちゃんとしてきたんだよっていうことはもっとうまく伝えられたら良かったなぁという感じだったなぁ
ひとが死ぬということがどういうことなのか、あんまりわかってないのだが、たぶんこれについての僕のわからなさは、けっきょく心とは何なんだろうかという話に行き着く
心とは何なんだろうかという話は、さらに、そもそも存在するとはどういうことなのだろうかという話へと
ここら辺の話は有史以来あらゆる言葉が尽くされて語られ続けてきたわけだけども、まぁ確かなことはわからないということだけははっきりしている領域だよね
今日、存在と時間を文庫で10ページくらい読んだら心がちょっと落ち着いた
存在と時間の内容がどうというのもあるけど、あれを頑張って読んでた時期は僕の青春の一ページと言っていいのですよね、だからアルバムを見返すような感じ。
あと思うのはね、ひとが生まれる=存在し始めるときに、「あ、今自分生まれたな」と気付けるわけではなくて、いつの間にか自分がいま生きていることに気付く、わけで、死ぬときも、まさに死んだそのときには「あ、自分は死んだな」とは思えず、生きている(存在している)うちに思えることは
「自分はもう死ぬだろうな」の域を超えでないわけですよね。いつの間にか生まれてきていて、自分が死んだことは確認できずにいつの間にかこの世を去っていく。
人生の始め・終わりの両端は、きちんと閉じてはいない、っていう。
その意味では、人間は生まれることも死ぬこともできない、ってことに
しかし看護婦さんというのは本当に段取りの良さ半端ない
ところで戒名に関する事情というのが色々あるらしくて、夫婦別姓の話題もちらっと思い出したりしつつ、名付けの文化というのは死者にまでついて回るものなのか~と考えたりしていた
5年前よりは絶対太ってるんだけど、スーツすら着られなくなった時期よりは痩せたということですね。
アプレシオわらび西口店は生き残ってる
何の変哲のない店でも良いんだけど、チェーン店はつまらないからなるべく使いたくない、みたいな心理
生物学・心理学の政治性の高さはもっと認識されるべき
客観科学と言える部分とそうでない部分がすべてないまぜにして信じられている。
僕は後期おばあちゃんの関係者であって、そこのみから解釈すると包括的なおばあちゃん像は描き出せないのかもしれない(文献学的発想)
人が死ぬってやっぱりあまり現実感ないなぁ。その現実感のなさを裏返していくと、他者がいることの現実感のなさに。
コミュニケーションが滑らかに取り合えるということを根拠に、他者には心があるということを認めていると思うのだけど、植物状態・脳死・失踪・離別などは別にしておくとして、死の本質的な要素の一つとしてコミュニケーションが取り合えなくなることというのがあると思うのだが、
思考実験として、哲学的ゾンビってあるじゃないですか。見た目は完全に普通の人間なんだけど、心だけないという。
例えばの話、親しい人が、コミュニケーションは普通にとれていて、心は存在していたんだけど、ある瞬間に心だけなくなって哲学的ゾンビになって、でもコミュニケーションはその前後で全く変わりなく取れて、という場合があるとする。
これと、「死」と「他者」との絡み合いがうまく整理できなくて気になる。
だとしたら、死ぬときに世界は「なく」なるのか、それとも「なくなる」とすら言えないような何かへと行く(行くとすら言えないけど、ここを言い換えると無限後退していきそう)のか
他者が生きている、他者が死ぬ、とは、どういうことなのか?
おばあちゃんはおそらく、自分が死にうるということを自覚していたはずで、一方で、回復したいとも思っていたはずで、その認識はたぶん結構現実的なラインだったのだが、そういうときに意識を戻したり失ったりしつつ結局死んじゃった場合、それはその人の内面から見てどういう感じで世界が終わるのか
おばあちゃんが亡くなると、この数年間は、おばあちゃんが亡くなる前に過ごした最後の数年間として遡及して再構成されるわけだ
おばあちゃんが死んだこと自体もそうだけど、それほどまでに時間が経って自分も周りも年齢を重ねているということに驚く。
あと25歳で学生というのは親戚まわりに行くとさすがにやや居心地が悪い。
何かを目指しているんですっていうのがはっきりとあるわけでもないし
でもまぁこういう風に居心地悪く感じる仕組みすら含めて世の中はうまくできているなぁと思うの。
本をcover to coverで読むことはあまり重要ではないような気がする。
序論/本論/結論って分けると結論に何を書けば良いのかいまいちわからん。本論に全部入れたい気が。じゃあ結論にはまとめを書けばいいのか?でも論文の要約は別に提出するわけだし…。
うちは直接的に「クリスマスプレゼント何が欲しい?」と言われていたので、一般的に子どもはサンタクロースを本気で信じている時期があるということは逆にわりと最近になって気付いた。
でも逆にノストラダムスの大予言が流行ったころとかそういうのに興味を持っていた記憶があるし、別にそこまで合理的な子どもだったというわけでもない。
自分が幸福だったのは、経済的な障壁は少なかったことと、ちゃんとした学校には行かせてもらえたこと(それだけの素質もあったこと)で、だから(ちょい飛躍するけど)市場経済とか学校教育に対する信頼は強い、と説明できるような気がする。
統制的理念としての「自分が心の底から本当に思っていること」
そういえば葬儀のとき親戚の間の世間話で生活保護批判が展開されていて、一人いちばん高学歴な側のおじさんだけやや擁護してて、なるほどこれが””世間””か…と思った
働くより生活保護の方が楽なんじゃないかって思っちゃうよね〜とか、いまの若い人は生活保護もらうのが恥ずかしいって感覚がないのかもね、とか
部屋の中で一時間程度の間に擬似的に仲良くなって盛り上がるのはたぶんとても難しい
淡々とした映画で、あまり面白くなかったので途中で出てきてしまった。中盤から後半にかけて面白いらしいという情報もあったが、途中に衝撃的なシーンが一つ入っていて、多分ここがハイライトなんだろうなと思って、出た
ディスプレー二つあり、机も広く、BGMも落ち着き、非常に雰囲気良い。
将来について言われることのパターン
・早く就職しろ
・大学院行っても良いのでは
・医学部いけばいいじゃん〜
昔の日本語の文を引用で打ち込もうとすると変換とかに時間がかかって、かけた時間的にはとても書き進んだ感覚なのにあまり進んでないということが起こる
漠然とした焦燥感を感じないようになってから、集中力切れた時間が何やればいいのか分からない手持無沙汰な時間になってる
綾瀬はるかとAKBが並ぶと…(略
まぁ卒論書き終わって提出したときにだいぶ精神状態が変わるであろうことは確実だから、とりあえず卒論を書き終えねばならない。
あと、おばあちゃんが死んだというのも結構大きな要素。単純に悲しいというのもあるけど、状況が変わったという意味でも。
FFTは実は最近やり直してて終わらせた
どこいても何か煮詰まる〜〜
DASH島面白い。
こんな途方もない作業本当にやってるの…
思い出せる限りでDVDで観た映画で良かったのは、タイタニック、時をかける少女、千と千尋の神隠し、モテキ!、苦役列車、ベティブルー、エクソシスト
レコード大賞のあの微妙な雰囲気というか人選ってなんなん?って毎年思っている
仏教と葬儀が本格的に結びついたのは、江戸時代
にとこと有村架純の判別がつけられるという自信がない

2016年1月
今年の目標は20kg減量と将来に目処をつける
「卒業論文…あぁ…」と思うと同時に「お〜まぁまぁの卒業レポートじゃん」という
みりおんさんがてあてあに討ち取られた!
親族共同体の紐帯を強める儀式
記憶がないんだけど犬に噛まれたっぽい
「インスタレーションとは、1970年代以降一般化した、絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。 ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術。」
いとこ夫婦(とても普通)が駅伝見てるときに選手の速さはどれくらいの速さなのかって話になって速さ=距離÷時間を「はじき」であれでないこれでない言いながら思い出してて、マジか〜むしろ逆にはじきとか覚えてるのか〜と思ったのだった
父は父方の中でも頭良かったっぽい。母方はおおむねそこそこ頭良い。なので遺伝なのではないか。
でも小学校受験させられかけたような覚えもあるし、幼少期の教育に何か要因があるのかもしれない
父方もそれなりです。
ていうかやっぱり、一般論としてこの時代は全体的に同年代は親世代より階級(露骨に言えば)下がってる傾向が強いのではないか
父方も母方もおじさん世代はみんなそれなりに良い仕事してるっぽいけど、いとこになるとそこまでではないし
就職した会社がどうとかってより、大体みんなブラブラする時期があったり転職してたり、おじさん達の世代とは若干ライフスタイルや人生観が違う感じ。学歴は総じて言えばおじさん世代といとこ世代で同程度だろうか。
もしこれから長く生きていったら現実世界からその内いろんな人がログアウトしていっていろんな人がログインしてきてそういうのの繰り返しで人間社会は回ってきたのかと思うと寂しい
山本義隆は予備校講師というより、物理学者になる才能あったんだけど全共闘で偉い人だったのでその立場を貫いて在野にとどまるため予備校に就職し湯川秀樹が惜しんで涙を流した、みたいな話だった気が
森永卓郎メンタル強いよな絶対
自分で適当だとわかってて言えるのだから凄い
この人の詭弁力すげぇ…www
出来の悪い詩を「ポエム」と揶揄することが多いと思うけど、レヴィナスはとりあえず出来の良い詩ではあるのではないのだろうか
一個一個の細胞は自分の意思とかと関係なく動いてて、自分にコントロールできるのは足を動かすとか眼をつぶるとかそういうかなり大雑把で限定された範囲でしかないのに、それでも自分がある程度自分として継続して生きているのは不思議。
人文書ガリガリ読みまくる人の気持ちはやっぱりわからん。
概念分析がどうっていうより、「合コン」みたいな用語は作られた時期から離れるにつれてどんどん意味が曖昧になっていって最後の最後には意味なんてどうでもよくなってしまうくらいに適当に使われるもので、そういうもんなのだろうけど、僕はもともとの意味みたいなの気になっちゃうからあれなのだろう
「吸入口としての貨幣→」www
息子を商社に行かせたい親とは
僕は、21世紀日本におけるシンセキなる共同体でオショーガツに集まるという風習に参加するフィールドワークという気分だった
そもそも中東は国家の単位で統治が行える場所なのだろうか
マクロ経済学の教科書みたいなのも概念的な話が延々とされててそもそもどういう現象を分析してるのかいまいちピンと来ないみたいなのを感じる。
実質GDPが上がるというのは社会の中の経済現象としては具体的に一体どういうことが起こっているということになるのか?
人間の生活が社会全体として経済的な意味でずっと恒常的に上がり続けるという話は直感的に言っておかしいと僕は感じるのだが、今年のGDPの増加がどうこうみたいな話はそういうのと違う?
というか今年のGDPの伸びは〜とか言われても経済的に日本社会が毎年経済的に豊かになり続けてるとは到底感じられないし、一体GDPとは何の指標なのだろうと
gdpの増加率がたとえば税収に影響を与えるとか、そういう概念間の関係を問題としてて、GDPそれ自体が何か社会の状態を直に示す指標として機能しているわけではない、と考えてみてはどうか
地元の駅前の本屋に、アルバイト募集(フリーターの方希望)っていう貼り紙がされてる。おそらく、それなりにシフトに柔軟に入れて責任感もあって、でもアルバイトとしてしか待遇できないって話な気がするのだけど、大変な世の中だ
たぶん千葉雅也氏は単純に地元がイヤというわけでもないのだと思う。
もう寝たいんだけどさすがに早すぎるしかといって他に出来そうなこともない。集中力切れてて遊ぶことすらできなさそう。
この問題頻発し過ぎなんだけど未だに解決策が…
「なお、ここでは思想史的な厳密性を追うことはせず、逆に、論点の明確化のため暴力的とも言うべき単純化を行う。以下に現れる固有名詞は、従って、単なるインデックスという以上の価値をもつものではない」もはや開き直りwwwwww
生協で製本カバーを買って備え付けの製本機で製本するのがいちばん安く済むっぽい。
頭の中で必ずしもはっきりと焦点が結べていないことを書いてるので書くのも遅いし出来た文章もいまいちパッとしない筆運びになる。。。
母方の従兄弟と、その従兄弟の従兄弟はみんな喫煙者だった
TOEICの問題集よりはTOEFLの問題集の方が有意義そう
『構造と力』は、総じて言うと、あまり面白くは感じられない。
「立っている店員は3秒に一度入り口を見てお客様が来たらドアを開ける」…!?
会社の拡大とともに本社と現場の距離が離れていったと語るベテラン店長さん
晦渋な文体の偉い哲学者単体を解釈するならともかく、デリダとレヴィナスが論争するみたいなときに話が通じているのか(通じているのかどうかは誰か判定できるのか)、当人達は噛み合ってると思っているのかどうか、それとも「あいつは話のわっかんねぇ~やつだなぁ~」みたいにお互い思っているのか
一般的に言えば研究者に求められるのは教養より専門性なんじゃないかという気がしてきた
テキストに素手で、っていうときの「素手」なる概念がなんか謎
凡例みたいなのをちゃんと作って一応ちゃんとやりました感を。。
口頭試問って何分くらいなんだろ…まぁ適当に受け流せばいいか…
ページの通し番号を振ること、っていう注意が書かれてるから、目次を作るのはちゃんとしてる方なのではないだろうか
「文献表(引用・参考文献のリスト)を付けることが望ましい」ってわざわざ書かれてる。
「文献表(引用・参考文献のリスト)」っていう括弧内の説明が…なんというか…
うん、だから、卒業するだけなら平均的には高いハードルは求められてないはず。
作業ゲーで一番クオリティ高いのはやはり筋トレではないか
いちおう完成~
最後に一回縮小サイズで印刷してみて読んで微修正かな
卒論締め切り直前って演劇の小屋入りのときとちょっと感覚が似てる。
時間をかけてやってきたことが直前になっていよいよ完成形になっていくっていう感じが。
読んでおくと社会情勢全般について理解が深まるブログのリストを作っておきたい
自律神経失調ぎみ
ちなみに書き始めてから一度も誰にも見せてないからものすごく変なことを書いているかもしれない。でももうしーらないっ!
「何かを共にした」という関係は決して揺るがない
睡眠リズムも崩れてるし、食欲もなんか変(食べられるけど空腹感とか満腹感がなくて漠然と気持ち悪さが続くみたいな)だし、やっぱりこれはあれでしょう
提出したら、義務的にやんなきゃいけないことはとりあえず消えて、しかしいま体調が悪いのだけどどうすべきか
親戚認識では、「大学院進学したら給料もらえるんでしょ?」
とりあえず今日から体調は回復し始めると思われる。
資本主義が嫌いな人のための経済学 https://www.amazon.co.jp/dp/4757122810/ef=cm_sw_r_tw_awd_f3FJwbHP8C8WJ… #Amazon おもろい。
デカルトからデリダまでを輩出したフランス語圏とは一体何なのか
俗流文化論をやりたくなっちゃうような違いがやっぱり国にはそれぞれあるよなって思う
例えば食べ物や衣服は質の良し悪しに関係なく人数分なきゃ生きてけないけど、コンテンツはなくても生きてけるし、あったとしても一部の高品質なものだけでみんな満足させられる
なので、(広義の)コンテンツ産業はつらい。
でも最初っから従事者が少ないと競争がはたらかないから、そこの差は憧れややりがいで埋められることに
ネットでみるかぎり、FF8のストーリーは色々な解釈が提出されているけども、制作サイドに最終的な解釈の決定権があるという理解はおおむねみんな一致しているっぽくて、解釈は物凄くたくさん提出されててもその部分はそういう素朴な理解で一致してるのねって驚く
何の関係もない感想なんだけど「ゲスの極み乙女」っていうバンド名恥ずかしくないのか。そんな風に感じるのはもうおっさんになり始めてるのか。
管理職の中年は子供の教育費と家のローンの返済でカツカツが普通だと思っていた
こんな疲れでもお高いユンケルは治してくれるのだろうか…?
椎名林檎はかっこいいと思うけどゲスの極み乙女はかっこいいと思わないからこれは多分あれだ、年齢によって新しいものを受け入れられなくなりつつある現象だ
新しいものを受け入れられないというより、年齢による好き嫌いの変化なのかな。10代のときでも、すべてのものを先入観なしでニュートラルに受け入れられていたわけではない。
FF7、10分くらいやって最初のセーブポイントまで来たんだけど、やっぱりこれはただの壮大な作業なだけなんじゃないかと思ってやめてしまった
小さい会社で部署間の異動などもさほどなくずっと長年働き、「自分ってこんなことやってていいのだろうか…」みたいなことを特に疑問に持った様子でもなく日々を過ごしてる、みたいなイメージを持った
言語的に連鎖してる別のことを次々に連想することもあるけれど、嬉しいときにいろいろな嬉しいことを、悲しいときにいろいろな悲しいことを連想するというパターンもあるような気がする。どういう風に関連しているだろう。
普通に仰向けに寝てるときすら腰と肩が変な風に歪んでて負担がかかっていたということに今日気付いた
これってつまり、寝ているときにすら人生の生きやすさに差ができていることがありうるってことなわけで
最近は風邪ひいたらすぐに病院行っちゃう
わりと細かい不調でも気になったらすぐに病院直行してしまう
被害拡大する前に潰しといたほうが良いかなっていう
生まれてから少なくとも20年間くらいは義務感・不安感ベースで生きてきたので今さら何をしてよいやら
いまある唯一の具体的な目標は、20kgの減量…
中退ではなく卒業したかった理由の一つとして割とあるのが、卒業すると東大附属図書館入館証が申請できるというの
最近、睡眠の質が著しく悪く長い時間寝てしまう
物理学・生物学勉強したい
極端な話、みんなが自給自足で貨幣を使わない国があったら、その国のGDPはゼロになるわけなのかね
地球上で集団が生活を営んでいくということが元来かなり過酷なことであるのは確かで、少なくとも全員が全員ぬくぬく生きることは不可能だろう…
しかし、レヴィナスとかデリダとか、よく日本語に翻訳しようと思ったもんだなあ。
翻訳とか入門書が出されるくらいの感じになれば、まぁきっと凄いんだろうなぁくらいに興味はわくけど、フランス語で出された初期に日本人でこの難解なやつを読んで「おっ、これは…!!」と思った人がいて、それで何十年も経って翻訳が出されるまで研究が進んだと思うと、途方もない。
なんかこう、本来は言語化できないものを何とかうにゃむにゃと言語的表現の形にしているのかなって思うんだよね
日記は、他人に見せられるくらいのつもりで客観的な描写を心がけるといい(そうしないと黒歴史化する)
中学1・2年生用の地理の参考書を手に入れてきた
本当に地理苦手なんだ…
単語帳はTOEFL対策用ってなってるやつを買ってみました
たとえば数学とか物理学だったら、人間の考え出したこととは思えないレベルの難しさの理論があるというのは比較的納得されやすいと思うのだけど、こういう分野の難しさというのは、どう捉えればいいものか
根本的な問題としてこの部屋は使いづらい
5年弱、大学に近い便利さで霞んできた問題が浮き彫りに…
でもこの机たぶん小学生向けのモデルだからそろそろどうにかしてもいいのでは…
確か去年の三月頃に風邪ひいて、風邪治るまで適当に過ごそうと思ってたら風邪が一ヶ月くらい続いたんだよな
FF9やっててDISC3の最初くらいまで進んだんだけど、
やっぱり一人一人のキャラクターが面白い。
ハウスダストアレルギーによる慢性副鼻腔炎
1,5,7,8,9,10,タクティクス,をやったことがあります
10は、各々のキャラクターが冒険の中でさまざまな体験を経て精神的に成長していく描写が稀薄な感じがする。9はそこが濃い。
バトルの画面とか、敵味方に分かれて突っ立ってターンごとに攻撃し合うって、リアリティの問題からして3Dで表現したら本来かなりの違和感が生じると思うのだが、そういうのは2D時代から連綿と受け継がれてきた一つの記号的表現だよなぁ
しかし、色んなキャラクターと世界を冒険して救うゲームをやるというのは、心の中が豊かになって現実に生きていく上での糧になる感じがしていい
年収4000万も稼いで何に使うの?
そういえば某従兄弟は意識高いコミュ強の道を着々と進んでいるっぽい
風邪が長引くことが多いので、僕の中の基準では2〜3日で治る風邪は「風邪をひきかけたけどかからずに済んだ」という認識になっちゃうのだけど、これはおかしいということにここ2〜3年で気付いた
沖ノ鳥島行くのはたしかにエモいと言えばエモいかもしれない。
すんごい優柔不断に生きてきたけどそれが悪いことだったとはあまり思ってないな
良かったと積極的に思うわけでもないけど、まぁ自分はどうやってもこうなんだと受け入れてはいるという感じ
卒論出し終わって、そのタイミングで風邪引いたので、うちでFF9やりながら寝ていて、だいぶ治ってきたのでこれからどうしようかと思っているところです、、(来年の進路は決まってなくて、公務員受けようとか色々考え中)
エモい場所に連れて行ってもらえるという交換条件で卒業レポートをいまみりおんさんにお送りしました~
確かに、だんだんと年老いて少しずつ身体が悪くなっていって耳も遠くなり目も悪くなり鼻もききずらくなり体の節々が痛くなっていって日常の動作にも支障が出てきて動けなくなった末に死んでいくというのがそれなりの数の人が最後には通る道だと分かっていてもあんまり具体的に想像したくはない
生そのものが無意味とまでは思わないけど、この時世で積極的に子供を生もうと思えるには相当強くないと、と思ってしまう
ある種の環境で育っていたら、結婚はするものだし子供は産むものと理屈以前に素直に思える状態になれるというのはあるような気がする。別にそう思ってなくても、大体みんなそうしてたらそうしてたというのもあるだろうし
自己実現とか積極的に考える人は子供も生むような気がする。子供を生んで育てるのも自己実現のひとつといえばそうだし、何をどれだけ生産したところで世の中全体として子供が生まれて育っていかないと世の中が存続しないし無意味になっちゃうし…
直感的に、良い家庭が作れれば家族って良いものなんだろうなというのは、先月・お正月と親戚の叔父さんのうちに行って人生で初めてくらいに思った(そこはよく遊びに行ってた場所だったので、自分のものの見方とか感じ方の変化なんだろう)のだけど、たぶんそういう場所に持続的にいれば、
理屈ではなく言語化以前の感覚レベルで家族というものを肯定できるようになりやすい気がする。
家庭の居心地が悪い・悪かった人で、家族というものに否定的になるか逆に家族というものに強く憧れるか、っていう人多いような
高校生くらいの昔に雨の日やら寒い日やらにやる気なくなったりしてなかったのは、勤勉だったからというよりは外的環境に極度に無頓着だったからという面が大きかったのかも
戸田山和久の論文の教室にも、こういう書き方はダメっていう基本的な話がひとつひとつものすごく懇切丁寧に挙げられていっているわけだし、ということは逆にそういう書き方をしてしまう人は多く存在しているはずで、不真面目な人まで含めた卒論の平均レベルはそんなに高いもんではないのでは
傷物語を見る
FF7はもはやレトロゲーム感が物凄くある…
当時流行っていた原発批判とトラウマ的な精神的内面的世界の描写とをストーリーのモチーフに取り入れているのが時代っぽい
そこまでゴタゴタに巻き込まれて不本意な環境になっても仕事続けたいというのはすごい。その気持ち分けてほしい。
小中学校レベルの説明だと、社会主義→経済的な平等を追求する→競争が起こらない→労働意欲が弱まる→生産性が下がる、って教えられるしそれ以上深く考えたことなかったけどそれは単純化しすぎだよなと思ってきた
厨二病の初出が1999年、FF7が1997年、サブカルチャーコンテンツの中にそういう雰囲気のが醸成されつつある時代だったのだろうか
たとえば相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の十如是というのがあって、いまでいう物理学みたいな感じで自然世界の成り立ちを説明しようと試みていた形跡もあるので、認識していたという解釈ももしかしたら出来るかもしれませんが…
FF7で修理後のバギーが崖にハマって動かなくなるバグで終了…
9月〜10月頃から、FF10,8,タクティクス,9,7途中まで,をやったことになる
軸を作る・お弁当箱・small step
FF8は「ヒロイン=ラスボス」というわりと説得力のある解釈が提出されていて論争が続いている
有吉ジャポンの成り上がり社長vs下流社会の若者がすごい
「よく考えた方がいい」という言い回しが「やめた方がいい」という意味になるわけで、よく考えすぎると出来る気がしなくなってくるもの
看護業界、てきぱきしててかつせかせかしてない(主に)女性をあれだけ凝縮して集めて育成するシステムすごいよなぁとつくづく思う
教育的に言われる「テキストと素手で格闘する」という言い回しは、概説書の受け売りはしないとか根拠の薄弱な印象論を言わないとか、そういうことを言いたいのかなぁというところに落ち着きつつある。
テキストを完全に無前提に読むとなると、白くて薄い長方形の物の上に黒い模様があってそれはおそらく知的な存在によって作られたなんらかの意味をあらわしているものなのだろうくらいしか言えないけど、そんなこと考えちゃって「素手」って言われる時にどこまでの前提は使って良いのかがわからなかった
電子機器は飛躍的に発展していくのに、なぜ食料を用意するときに火や刃物を使うリスクを冒すシステムが残存しているのか
電子機器は飛躍的に発展していくのに、なぜ雨具は傘で発展が止まっているのか
銀行の支店長がお菓子を持って家まで来たりしてほしい
ふぐが美味しかった
とにかく何らかの具体性と外的制約のある目標を作らないと本をだらだら読む程度のやる気すら起こらなくてやばい
意識高いコミュ強の従兄弟はまさにその携帯営業の代行サービス
RT 街コンは経験者風に語らせていただくと、①運営がボランティアみたいな感じな所も多く良い加減な所②女ぬサクラが相当数混じっていることがあること③男女比バランスが書いてあること、実際で異なってるという以上3点が改善されないと金を払う気になれないんですよね。(すでに5回お金払った
普段歩いてる道路にどれだけの税金がかけられてきたのか考えたら道路を丁寧に歩くようになった、みたいな話は聞かない
発表者になってる人が、論文の形になってるレジュメを配って、ひたすら読み上げていって、みんなは静かに聞きながら追って読んでいくという形式の勉強会があって、すげぇ、と衝撃を受けたことがあった。
皮膚科医とか楽?
麻酔科医
放射線科医
今日は重い腰を上げてハロワとかキャリサポとか覗きに行ってみます。。。
メンヘラは各々救われてほしい。
池田信夫も生きているという事実は凄い
中学受験の時は栄光ゼミナールに行ってました。ブラック企業として有名だった気がする。
高野悦子の『二十歳の原点』を初めて読んだ時僕は18歳で、高野悦子が鉄道自殺で亡くなったのは20歳(1969年)、今自分は25歳。
@millionsage とりあえず行って一通りの説明を受けました〜
東京仕事センターってとこですね
昨日は叔父さんに、駿台がお茶の水に一校しかなかったりラジオで大学受験講座の放送がされていた時代の話を聞いていた

2016年2月
ケフカのキャラが濃い
実質的にはティナが主人公という解釈が妥当なのかな?
FFの悪役の境遇にはどこか物悲しさがある
ケフカ、セフィロス、アルティミシア、クジャ、シーモア
「つけた電気は消せ。開けた扉は締めろ。出したものは片付けろ。わかんないものは箱から出すな。」大事だ
「体育会系(吹奏楽部含む)」wwwwww
たとえば日本語を話す時も、筋肉の動きとしては多種多様な運動を秩序づけて有意味な音列として発声してるわけで、それに対しては「そんな複雑な筋肉の動かし方よく出来るよなぁ」とはあんまり思わないわけで、タッチタイピングも同じようなところがあるのかも。
何かこう、何をどれだけどうやったところで地球上の表面をわずかにちょこまかと動いて終わるだけの人生でしょ…みたいな虚無感
こういう視点を含み込んだ上でも生きることを肯定したいよね
誰にだって小学生の頃があった
FF6、崩壊後の仲間集めでだいぶダルくなってきた。
本編に関係するイベントのようでもあり、でもシステム上はオプションであり、どう処理すれば良いのかわかんない
FF8から入ったことによるFF観の偏りが大分ほぐされたと思う
振り返ってみれば、はじめてFF8をやってバトル画面に入ったときすごく違和感あったけど、それはまぁそうなるはずだ
クリスタルがなくなったのと入れ替わりに、よくわからない物質がキャラのアビリティや能力に影響するという発想が入ってきた
グラフィックを綺麗にしていく路線を取ると、バトル画面やワールドマップ画面がだんだんと不自然な表現になっていくから、その辺のシステムがかなり根本的に変わっちゃったのは必然的な流れと言えるような気がする
7の時点でバトル画面とかワールドマップとかかなりギクシャクした表現になってると思うのだよね、ドット絵なら記号的表現ということで許されるのだろうけど
世界経済が混乱してるのか
中国経済減速・原油価格低下・新興国減速・米金融引き締め
外資系って業界の分類ではないから別なのでは、と思いました
でも日本企業に対して愚痴ってた気がするからそこに関心が向いてた説をとりたい
勉強したいことリストとか作ろうとしてみてもめちゃくちゃ総花的で非現実的な途方もないリストが出てきちゃうだけだからあれなんだよな…
指原莉乃年収数千万
総合職採用の女性は10年で7割やめる(男性は3割)、管理職への出世は1割(男性は4割)
ところで求人を見てきたりしたのだが「へぇ〜いろんな募集があるんだな〜そっかぁ…うーん」という感じの気持ちで終わっている
時代錯誤かつ幼い感想なのだが「サラリーマンに…なるのかぁ…」みたいな気持ちが…。。
金曜深夜の生放送の討論番組に出てる女性たちが女性の長時間労働を論じるのは、突っ込んでも仕方がないのだけど、何かもやっとする
丸ノ内線でてあてあの彼女と一緒になった
ストレッチで肩こりを治せたりするもんなのか
筋肉増やして健康になりたい
終わりなき日常を生きろ
世界を総体として掴み取る
優柔不断さは小学生くらいのときからずっと変わらない
パスモは券売機で直近過去100件の利用記録を確認・印字できる
3日間の医師国家試験が今日で終わったらしい
この一年間くらいでだいぶ物事に対する感覚が変わってしまった…
男であることについて、若干の居心地悪さや後ろめたさを感じるようになってきたというのもこの一年間の一つの変化かなぁ
世界がちゃんと地続きでひとつにつながっていて、それが宇宙の中に浮かんでいて、一方で人間社会は自分と同じ種の個体がたくさん集まって成り立っていて、っていうのが、理屈以上の実感として深く感じるようになってきた、とか
世の中の底に手が触れた、とでも言えば良いだろうか
「人間はみな最後には死ぬ」ということと「人間は生きていかなければならない」(自殺、戦争、死刑etcもありうるが、いずれにせよ少なくとも生きているいまから死ぬまでは生きている)ということは、世の中のかなり根源的な基盤なのではないかと感じる
たとえば中東とかで、はっきり言ってほぼ解決策がないような無秩序状態がずっと続いて血が流れ続けている一方で、たとえば日本では景気や財政の動向が大きな関心事となる
それはそれでそうならざるを得ず、世の中はとにかくままならないものなのだということ
「世の中には、どうしようもないこともある、あるけれど、それでも日々を生きていくしかない」と、いま振り返って強く感じる思い出が、ここ1年半くらいでふたつ
誰だって、少なくとも自分の人生とは「闘って」いると思うのだが、一人一人のその「闘い」がすれ違ったり対立したりするのはざらにあることで、
今日は口頭試問
試問終わりました〜
「あれも読めこれも読め、そんなことも知らないのかこんなことも知らないのか」という類の言い方はやっぱりあまり好きになれないのだなぁ
夏目漱石の小説に出てくる高等遊民は何歳くらいなんだろ?
たぶんどこで何やってても無駄に「これじゃないなぁ」感は感じ続けると思うのでそれにどう付き合うかを身に付けなければならない
ツイッターにこれじゃないなぁ感を感じているか…?うーん。基本的に雑談をする場所だから、「これじゃないなぁ」という感覚が生じるところまではいかないかな。
クォンタムファミリーズに書かれてたらしい「35歳問題」
あと、この三年間くらいやたらテレビのドキュメンタリー番組を見てたんだけど、世の中には無数の人の無数の生き方があるという感覚がそれで染み付いてしまったような気がする。
あと、なんかやたらいろんな人生があるって思っちゃうと、自分がその中でどうすればいいのかってわからなくなってしまうし、「なんかこれも違うんじゃないか」という漠然とした違和感が際限なく続くことに…
実存ってヤマダ電機で売ってる?
「なんか違う気がする」みたいな本当にどうしようもない気持ちは本当にむか〜しから引きずっている気がする。
ジョブカフェに行くと初回のカウンセリングというのがあって、そういう類のヤバさ(途中で腰砕けになるモチベーション的なの)を感じ取られた結果、とりあえず週一で来てくださいというようなことを言われた
やたら優柔不断な性格エピソードをたどっていくと4〜5歳時くらいのことまで思い出せる…。。
ジョブカフェの人に、職業適性診断の結果を見ながら「勉強が好きなのはいいんですけどね、目的意識を持たなきゃね、途中でまたやめちゃうと思うんですよ」みたいなことを言われてたので、もうこれは誰から見ても共通の見解だ…
制約されるものがほとんどなくなってしまっていて、睡眠欲とか食欲すらも、満たそうと思えばすぐ満たせるせいで輪郭が曖昧になってぼやけていく、みたいになって非常に良くない
人生に何も求めていず、しかも多くを求めすぎている
何をしようと思っても色んな規範の視線が流れ込んできて動けないみたいな
虚無感〜〜
気付いたら就職してないかな〜〜
自分の人生を自分の責任で選べない〜
あと自分に対する理想をちょうどいい具合に下げよう
下げ過ぎると今のままだらっとしてて何の問題もないじゃんってなる
何かやろうと思うと一気に色々考えて、無理だってなる
いずれにせよ何もできなくなる
なので、ちょうどいいラインの現実的な目標を考えるべき
ジョブカフェは最初の面談が必須になってて、その後一週間くらい放置してたらあっちから電話がかかってきて「なんか困ってそうだしまた来てくれませんか?」って言われて、今日行くことになったっていう
これは確かにハロワじゃなくて自治体の機関じゃないとできないかも、とか思ってた
理想をちょうどいい水準にするという意味では、「明日からめちゃくちゃ本気出すから今日は極限までだらっとする(と言いつつそこまでだらっとしてるわけでもなくうじうじしている)」という感じのメリハリのついてなさとか区切りの付けられなさとかも問題
なんか誰でもある年齢を超えると「別の道を選んでればできたかもしれないこと」みたいなので苦しめられ始めるんでしょ?そういう傾向がもともと強かったっていうパターンだと思って諦めるしかないのでは…
最近読んだポエムを教えてください — ポエムに含めて良いのであればレヴィナスの『全体性と無限』を… https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKK3PIEAHIBUDWWKURUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
これからの人生で絶対やりたいことって別にないけどちょこちょこっとやり残したことはたくさんあって、こういうのが本当にダメ
7000円はつらくない…?
口頭試問は、専門の先生には4~5個くらい突っ込まれて、もう一方の先生は優しいので褒めてくれた
みりおんさんが盛り上がりはじめたところで終わったって言ってた気がするけど、「概説が多すぎる」という形でその点を言われましたね。あと、鍵にしている概念の説明がされたないというのを言われて確かにと思った
本当は教授が3人いる予定だったんだけど一人が某予定で急遽抜けてたのでその辺の褒めるとか叩くとかのバランス取りづらかったかもなぁと思ったり
医者になればいいじゃん — いまの僕のやる気で受験と6年間の勉強と国試と研修とを耐えられると思います?一回やめた道をもう一度目指すとなると相当の理由がないとって思ってしまう。物理的な作業苦手であんまり向いてないと思われます。あと… https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKKY7YFIFJNSD2UCSRUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
会計士はどうですか? — あ〜、適職診断でそれ出てきましたね。。。。 https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKKY7YFIEI5VTEUKQRUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
死にたいとかじゃないんですかね? — 最近は全くそういうのはないですよ。そこは良かった。 https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKKY7YFIGI5UT4USSRUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
そうですか。おせっかいかもしれないですけど、心理相談とかで本当に純粋な第三者と話した方がいいんじゃないですかね。知り合いと話してるとかえってよくないこともあるかと思いま… — 「かえってよくないこともある」とはどういうことですか?
ご専門に関連した職種に就かれるご予定ですか? — 専門と言えるような高度に体系的な知識は持っておりませんので。。。 https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKKY72EADIZUDWVCSRUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
1日がすごく長くも感じるし、一週間がすごく短くも感じるけど、この二つは特に矛盾しているわけではないだろう。
物理的な時間の長さとその感じ方とは元々なんの相関もないものなんだと受け取っておけば不思議なことではない
こういうときに、昔なら、良くも悪くも愚直に言葉を尽くして自分の考えを表現していた気がするが、いまや「メンタルが悪い」くらいの言語的理解しかできなくなってる
エアリスが死んだシーン
40歳にギリギリ入ってなくて年収300万円代にギリギリ達してないというのはやはり大事なのか
FF7のやり過ぎで体調が悪い
2020年の日本、バレンタインデーは愛する人の筋力アップを願ってプロテインを贈る日になっていたのだった
ちょっとつらくなってきたのでこっちに浮上します
何にせよやるべきこととして、ジム通いによって体力をつけ体調を変えていくというのがある。
これをやれば世界の見え方は何らかの形である程度変わる、とは思う。というわけでやり始めている。あと進路については、キャリアカウンセラー?にちょっと揺さぶられただけで本当にすごい取り留めもなく考え始めて揺さぶられちゃうというのはヤバイ…
普通だったら、親を説得してバイトやったり奨学金もらったりしながら本当にどうしてもやりたい何かを目指す、とか、別にそこまでやりたいことないけど経済的に自立したいしみんな就職してるから就活する、とか、あると思うのだが、
なんかそういう社会的な回路が働かず、内発的なモチベーションも湧かず、本気で何かやりたいと思えば障壁はかなり少ない状況にあるは良いことなのだが、特に何かやりたいことがあるわけでもなく、、、
とはいえ、無目的に漫然と過ごしていればちょっとずつちょっとずつ自分が取り得ることのできる人生の可能性は狭まっていく、安心して遊び呆けるわけでもなく、なんとなく空回りする焦燥感…
あと、痩せられると人と積極的に会いたい気持ちになり、それはかなりプラスに働くはず
大学入り直すとか、やりたいと思えばできるのだが、そうしたとして将来どうするのよって話だし…
人生が無定型になりすぎて、やりたいと思いさえすればかなりの選択肢がとりうる、しかし何か強くやりたいと思えるものはない、ひたすらウダウダ迷い続ける、、
公務員試験を普通に受けりゃ良いのだけど、別のいろんな人生もやろうとさえ思えば色々ありうるのにそれで良いのかいな、っていう気持ちが頭から離れず、しかし問題は、どの道を選ぼうとしたところでこの気持ちは付きまとうであろうということ
またラーメン自傷行為をやりたくなってきてるし。。。
これからの人生で、どうしてもやりたいことなんて何一つなくて、でも少し興味あることはいくつかはあって…
こんな感じでウダウダし続けることは残念ながらいくらでもできちゃう環境で…
老後(それまで生きていたとすれば)もこんな感じの焦燥感を常に感じる老人になってそうで嫌だ…
「あぁ、明日に死ぬかもしれないし5年後に死ぬかもしれない…一体ワシは何をすればいいのじゃ…!?」みたいな
統計的平均的に日本人の寿命は何歳くらいで、ということを考えることはできるのだけど、そのうちのひとりの人間に過ぎない自分がいつの時期にどういった形で死ぬかなんてわかったもんじゃなくて、だから遠すぎる将来を考えるのはある意味無駄で、一方で死ぬまでに何ができるのか、という問題があり…
両親短命だったし自分もそんなに長生きはしないのではないか、という思いなしがどこかしらある
長生きが必ずしもいいこととは思わないし、僕が長生きしないとも限らないが、「自分はあまり長生きはしないのではないか」とどこか漠然と思いながら自分の人生について考えてはいるような気がする。というか普通の人はその辺どう考えてるもんなのだろうか。
遺伝的な引き継ぎがどうというより、最も身近な人々がわりと早く死んだという経験が、人生はそんなに長く続くというわけでもないものなのだ、という感覚につながっている、気がする
そっちにいると、そこまでの孤独感を感じることもなく、逆に、TLから目に流れ込んでくる大量の情報に精神がじわじわと侵されていくということもあまりない。
いま確実に言えるのは、ジムには毎日行きたいということ。あと部屋は片付けたい。
もう何かあらゆる話がどうでもいい…
なぜ人は、どう生きたところで砂つぶのようなものに過ぎない人生をよりよく生きようとすることができるのか
あらゆる人の人生がみな虚しく思えてきちゃって、誰かが羨ましいとか憧れるとか、そういう感情を抱けなくなってしまったのは、モチベーションをなんとか作ろうとする上ではかなり厳しい条件
その話から考えてみると、何かコミュニティなりコンテンツなりを見つけて、その共同体の中で承認されるように頑張る、というのが大事なのかな
とにかく人生がつかみどころのないような感じになってるのがよくない、「巻き込まれ」にいくことを目標にしたい
ジョブカフェの人曰く、「うじうじ考えてても仕方ないしとりあえず非正規でもいいから、とっつきやすいどころで予備校講師でもやってみては」とのことなので、
まぁ確かに僕をよく見てくれている他の人にも同じようなこと言われたので、ひとまずそれでやってみようかと…
自分のなけなしの能力と環境無駄にしたくないよ…
こんなんじゃ死ぬ瞬間に浮かばれなさそう
いまならカルト宗教の勧誘とかにコロッといってしまいそうなくらいにメンタル弱っている
焦燥感だけが空回り。。。。
過剰シミュレーションが極限までいってる。。。
求人ちょこっと見たり探したりするだけで無限にいろんな人生が思い浮かんではあぶくのように消えていきって感じでメンタルやられてます。
可能世界には常に苦しめられてきたけど今回のは結構やばい。
東大卒(見込み)とかそういう経歴全部忘れられたらだいぶ気が楽になるだろうにな…
そう言えば数奇なことに、高一の時に社会科で論文というかレポートみたいなの書いたのだけど、そのときにフリーター・ニート問題について考えていたのだなぁ。
ジョブカフェでのお説教+二日酔い+求人情報から溢れ出てくる可能世界
「お説教みたいになってアレなんですが、」ってされてお説教されるパターンなのだが、今の自分にはお説教してくれる人すら自分から求めに行かないといないのだ…!
確か1年前くらいは世の中をやたら不必要に恐れていたはずなのに今となっては世の中を舐めたクズになってしまった〜
なんか吹っ切れたら博士とか目指しちゃうのは、なくはなさそう。。。
なんかこの三年間くらい勉強含めひたすら楽しく感じることしかやってきてなかったのが結構アレなんだよな。。。
つまらないけれどもやらなきゃいけないことがある、という感覚が身体から抜け落ちてしまっている
「自己愛強すぎて世の中からの扱いに満足できず病んでるタイプの人間」にはこれからの人生でなりかねない…
曜日とか暦とかフィクション以外の何ものにも思えなくておままごとみたいに感じるようになっちゃったんだけどこういうの人文学を学んだ弊害だと思うんだよね
暦に限らず、なんか無意味に勉強した結果意味が解体されてしまったものごとが多すぎてただ生きづらくなる
貨幣とかもふつうはそれなりに確固としておかねっていう風に見えるんだろう、とか
生きることになんの価値があるのかって気分になってきてしまっている…
これのために生きていきたい、っていう何かがはっきりしないのだなぁ
ツイッターがあるのは良かった。
それを、仕事に求められるのか、それ以外に求めるべきなのか、すらもはっきりしない
激務の仕事がモノによっては案外やりがいを感じられちゃうんじゃないだろうか、みたいにすら考えちゃう
そんなことを考えついたことは今までなかったんだが…
自分の性格・価値観めまぐるしく変わってきたからこれからどうなっていくかも予測しがたいんだよなぁ。
あと、漠然としたプライド……
いま一瞬眠ったときに夢とは思えないリアルな悪夢を見てこれは夢だと気付いてなんとか起きようとしたら起きられた、っていうのをやった、不思議
ちゃんと時間をとって一応親身になって話を聞いてくれるジョブカフェの相談員さん相手にすら要領をえない説明になってしまいあまり理解されてない感があるのはさすがにちょっとヤバいと思ったので気持ちを紙に書いて整理
ツイッターは勝手に自分の思ったことつぶやいてれば自分に興味を持ってくれる人だけ勝手に読んでくれてそういうのの繰り返しでかなりの程度理解してくれるみたいなところがあり、「社会」ではないのだなぁ
いずれにせよ何か社会的活動をして人と関わらないと、一人暮らしだと生活に現実感と緊張感がどんどんなくなっていくので、事務とかのバイトをやりながら公務員試験ということになるかなぁ
僕の場合その余裕がひたすら漠然とした焦燥感ともやもやっとした自意識の方向へと流れていくので。。。w
漠然とした焦燥感に振り回されて無駄に気苦労したり失敗したことは幾度となくあるのだが、それでもここまで自分を導いてきてくれたものの一つではあるから、うまく付き合わねばならない
パート アルバイト 違い
今日眠ったら明日はもう少し精神状態良くなってますように。。。
過去とか未来とか考えなくて良いくらいに自足した豊かで牧歌的な生活をできる人々が本当にいるのだとしたら、うらやましい
←可能世界のあぶくに押し潰されてる人
体を動かす、外に出る、具体的な事柄を相手にする。。
父さんな、部屋を片付けようと思うんだ
原因・結果は鶏卵だが、部屋の散らかり具合と心の余裕のなさは相関している
引越しは強制的に環境を変える契機にするという意味では良さそうだけど、引越しをするには引越し場所を決めなければいけないのだが、憂鬱で決断力・判断力が下がっている状態で大きな決定をするのはたいてい良くないので、とりあえず次の更新時期まで現状維持かなぁってなる
12月は、おばあちゃんが亡くなった前後の話があり、1月卒論で、どちらも結構具体的な問題なのでそれなりに気を張っていたと思うのだが、それ以来、具体的・外的に切迫してやって来る問題がなくなってしまったので…
働く切迫性がないと「働きたくない」という気持ちすら希薄になり(働きたいという気持ちが高まるわけでもない)、人間はこんなヤバい心境になりうるのかという気持ち
通勤ラッシュといえば、中高生の時は毎日5時半に起床し埼京線の若干の通勤ラッシュに混じり、内心は今よりもさらに空虚だったかもしれないが社会化はされていたなぁ。
ただ、学問は少なくとも一旦は「現実」から引き剥がされるという側面がやっぱりあるよねぇ。その側面は、ここ1年くらいで進んだなぁ。あと、いわゆる社会的な人間関係を減らしちゃったのもじわじわ効いてきている。
激務は当然大変だろうけど、「9時から5時まで毎日縛られて、60になるまでその繰り返し」という職場が仮に現代にもどこかに残っているとして、それがどういう生活なのかも想像できない
人にせよ仕事にせよコンテンツにせよ、楽しいものを見つけるのは大事ですな
燃料は残っている気がする、エネルギーの振り方に関してひたすらうだうだ悩んでぼんやり焦っている感じ。
しかしやはり、みりおんさんやてあてあといるのは楽しい。
なにか超越的な原理というか、拠って立つべきところみたいなのが欲しい
自分は今これのために生きているのだと身体で実感できるような何か
人生を振り返ってみてみるに、時期によっては、そう思えるものがあったよね(だからと言っていつも楽しいってなるわけじゃないが)。永遠に続くような生きる意味とか求めるのは難しいだろうけど、とりあえず今の自分にとっての課題とか目標とか現実はこれだ、というのは設定できるはずなんだよね。
問題は、自分の巻き込まれてる状況や選びとっている現実を客観化・相対化する内的な目線がわりと発達してしまったせいで、何を選びとってもそんなに素朴にはそれを肯定できないということ。
自分がどこで何をやっていこうと、物理的にはただ一人の人間として生まれ生きて死んでいくに過ぎないという実感は深まってしまったような。目の前や周囲の現実が世界のすべてのように感じられる感覚(そこに必要以上に振り回されたり実際以上に濃い意味を感じたり)は、もう何やっても起こらないだろう
物理的にはだかで存在している世界以外はすべて解釈の投入によって作られた虚構、みたいな
運動はまぁ、だいぶ現実感が取り戻される。
個々の業界とか組織とか地域とか個人の次元なら発展していける可能性はあるだろうけれど、日本社会は全体としては老いていって閉塞感を抱えて当然で、そこを何とか耐え凌いで頑張っていく時代、というのはつらい
メディアに影響されすぎるという傾向がある。
自分の生活と世の中の盛衰とが実際的に連動していたことはほぼないはずなんだけど、ニュースみたいなのやたら気分に影響しちゃってる気はする。
自分の生活状況は家族とか学校とかそういう身の回りの状況との方が遥かに連動しているはずなのにねぇ。
ほんと気難しい性格に育ってしまった〜
部屋の片付けをやるエネルギーが出てこない…
でもまぁ宅飲みをするという予定があり強制的な期限は作れてある。
自分の頭が作り上げた幻に苦しんでいるだけなんだと分かっていても苦しんでしまう
この苦しみ方はたぶん昔より複雑化していて、嫌だなぁと思う
昔は、幻に苦しんでいると自覚せずに幻に苦しんでいたはずだが、今は、幻に苦しんでいると自覚しつつ幻に苦しんでいるので…
頭が作り上げた幻によって戦う一方で、頭が作り上げた幻と戦うことにもなるのが人間…
いま目の前にあるものだけを信じて生きていけたら、ある意味では楽になるだろうにね
特に具体的な理由もなく思い詰めて呼吸が浅くなるの本当に困る…
時代ごとの日本の流行コンテンツを見ていって日本の時代を振り返る人生とか良いかもしれない
ff7、エヴァの影響たしかにあるように思える

2015年3月
今日も眠りが浅くモヤっとした気分を引きずりつつ布団の中でエンドレスうとうと
何となくもやっとした感じが具体的にどんな感じなのか言語化してみる。
ため息が多い。胸が若干重々しい。頭がぼーっとする。心拍数が高め。胃腸にも若干ストレス。
やはり、幻と戦っている。
あ〜でも今日ここで起きたら若干流れ変わらないかな。
カーテン開けた!
たぶんツイッター外世界では「社畜」みたいな用語って通じないのだろうな
また変な夢を見た。
悪い夢という感じでもなく、ただただ変な。
ゲームやるときはツイッターから離脱する勢いでゲームに集中してしまう。
僕にそれだけの集中モチベーションを引き起こすゲームなるもの…
だから、人生をゲーム化できれば…!
あと、ゲームやってる時くらいの気分の方が人生うまくいくかもしれない。
ゲームやってる時ですらちょっと重く考えすぎてる感もある。
ここまで極端なことは言わないけど、摑みどころがない生活をしているとどんどんと悩みが漠然としたものになっていくのは確か。最近これしか言ってないけど
来年からの就職にちょっと憂鬱になりながらも卒業旅行を楽しむ、みたいなメリハリのつけ方はすごい苦手
この胸のモヤモヤが取れないとまともに何もこなせないと思うのだがどこから崩していけばいいか
高層階にいると「なんで自分はわざわざ地上〇〇mの位置で寝たりご飯食べたりしているんだ??」という気持ちが抜けない
人生に多くを求めすぎちゃうのやめたいなぁ。
これが生きるということなら、虚無だ
人生の幸・不幸が何で決まるのか、いろいろな考え方があるとは思うけども、あえて一つに絞ってしまうならばやはり性格がいちばんの要素なんじゃないかと思う。
幸せになれない性格のみなさん!
最近の朝の浅い睡眠が続くn度寝で色んな変な夢見るのわりと楽しんでしまっているかもしれない
若干そわそわする感じもあって、この辺りに埋まってるエネルギーをうまく使えればいいのだが。。。
空回りする生活!
月曜に某所にバイト面接行きます
1年半くらいまともな社会的活動してないと社会性がとても下がる
地下鉄に乗っても、「チューブの中を鉄の箱が高速移動するこの文明は一体いつの時代なんだ〜」っていうくらいの現実感のなさ
なんかでも東大卒無職になれなかったのが心残りだなと思うくらいに社会性がなくなりコンテンツ化している
まぁコンテンツにはなれるだけマシだったのかもしれないという説もあるにはある(自虐ではなくポジティブに)
こういうのはたいてい他人から見れば何でそんなこと気にしてんのって感じなのだが、本人から見れば大問題になってしまうという
自意識地獄に苦しめられている皆さん!
25歳の頃自分は何をやっていると子供のとき思っていただろう。
何とかならないかなと誰もいない昼間に帰ってみて、「あぁ…これどうしようもねぇわ…諦めるか…」と思ってそのまま去るというのを何回も繰り返していた。
でも、これで4月から実家となると、いろいろとだいぶあれになるなぁ。
なんかでも、何かしらそこそこの仕事に就きたいですね。
別に人間はお金のためだけに働くものではないのだということを思わぬ形で思い知らされた
2年後のご予定は!? — 正規雇用の定職に就いていたい。 https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKKZPUEAHJNXTEUKQRUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
知人・友人の紹介により、携帯電話の販売店の営業バイトというのに手を出そうとしている
僕は、万全の環境を整え努力して物量作戦で乗り切る or 最初から諦めて投げ出す or たまによくわからない行動を思いつきで取る
ポンコツ自律神経め〜〜〜〜〜
なんか、すんごくそわそわする
石畑隆の眼光紙背
しかし、昔の体たらくに比べれば人生ここまでよく来たもんだよ〜
メンタル最悪期は脱したっぽい
実家の荒廃っぷりを見に行くたびに惨状に絶望と怒り
花金に混んでる秋葉原に来てしまった
インターネットの物理的な仕組みはいまだにわかっていない感覚がある
浅い眠りと変な夢の繰り返しから解放されない〜
最近気付いたのだけど、ツイッターによって労働は悪であるという思想に染まりきっていた
インターホンが壊れてたのを5年間くらい放置してた家なので、本当にひとかけらの生活運営能力もない
あの家に対する怒りがまた湧いてきた。
ツイッターって何となく労働は悪だという風潮漂ってませんかね
日々TLに触れていることによってじわじわといつの間にか一定の考え方に染められていくというのはわりと怖いことだ
ところで某仕事は研修三時間で前線に突っ込まれるらしいので、どこまで図太い神経でいられるかという話になると思う…
まぁ恐らくこっちはすぐにやめる気がするな。
面接とかそういうのなく「今週から来れないかな?」みたいな感じだったので非常にヤバイのではないかと懸念している
今朝も浅い眠りのうとうとで奇妙な夢を色々見ている
サガフロンティアも好きなゲームだった
明日、面接があるのでございます
でも、これだけは確固として言えるよ。自分にとって今は最善世界だよ。
今のこの生が永劫回帰しても、まぁ文句は言わない。大丈夫。
そう言えば僕は自己分析によれば可能世界の渦に押し潰されているのだった
もっと目の前の現実に追われないとヤバいぞ
まだ明日用の履歴書作ってないんだけど
まぁ午後だから起きて書けばたぶん、、、
結局まだ実家に戻るかどうか決まんないから変数が多くてイラつく
でもこれは状況の問題だけではなくて自分の性格によるイラつきも大きいのだと思う。
「他者」という理不尽なものにうまく対処して接する作法がすごく弱い
一人っ子だったから。。。
このメンタルのまま将来管理職になると恐らくまずい
なんかこう、徹底的に理解し合えば何とかなるみたいな素朴な発想しかインストールされてないんだよね
もっとこうたくさん人の波にもまれるべきだったんよね。
なんか人付き合いとかコミュニケーションというのを変に丁寧に考えすぎなんだよな。本来ならもっとメリハリつけてうまいさじ加減で対処するものなんだと思う。
他者とうまくコミュニケーションしようと思ったときに、徹底的に丁寧に考える(その結果、だいたいの考えは杞憂に終わる)という要領の悪い方法でしかやってこれなかった
別にこれくらい変数が多い状況は今後の人生でも起こりうることだし、ただ文句言ってれば良いということでもないのだろうという話
僕にとってのコミュニケーションの理念型は、一対一で十分に時間をとって自己開示し合えてその結果十分な意思疎通や交渉ができる、みたいな状況のように思うのだけど、この思いなしは非常にまずい。コミュニケーションは大抵もっと非常に荒っぽく流れるように行われるものだ。
他者のノイズ耐性が強い人
人生の真理を体得しつつある
他者をブラックボックスのまま取り扱うの、確かにめちゃめちゃ苦手だ
何を考えてるのかひたすら想像しようとしてしまう
他者をブラックボックスとして取り扱えないのは、コントロールへの過剰な欲望があるのかもしれない
「これ以上はなるようになれ」っていうのがとても苦手なのだなぁ
意識・注意のエネルギーどのあたりにどれくらいに分散させるのか、っていうのがとても苦手
このアイコン、「我々の人生とは結局このようなものに過ぎないのだ」という諦念を込めてもいるつもりなのだけど、普通に良い
大学院行きたい欲があんまわかんない、っていうか勉強したい欲すらわからなくなってしまった。
他者をブラックボックスとして、ブラックボックスのまま取り扱う。
コントロールできる存在だと思わない。
過剰に理解しない。
考え過ぎない。
自分は自分、ひとはひと
マインドリーディングをやめる。
ひたすら思考回路が空回りする。
全か無か思考、一般化のしすぎ、心のフィルター、プラスの否定、心の読み過ぎ、先読みの誤り、拡大解釈と過小評価、感情的決めつけ、すべき思考、レッテル貼り、個人化
他者をブラックボックスとしてそのまま扱うとは、つまりどういうことなのか
自分がうだうだいろいろ考えるくらい他人も思い悩んでいるのだろうという誤った感情移入があるかもしれない
なんか楽しいことないかな〜みたいな気持ちがずっと空回りしているのも良くない。
現実を何とか面白ゲーム化していきたい
んああイライラする。
イライラが空回り〜〜
ミュートしまくって心が振り回されることは減ってる気がするが退屈さが増えた
たぶんもうちょっとこの退屈期を超えると調子が上がってくるはず。
なんか一つ軸になる強い欲望があると良いのだけどねぇ。
社会、壮大なパチンコに見えてくる
ついにはこの時間に起きる始末
こんなことしてる間にも世界ではいろんな人がいろんな人生を送っているんだよな〜とか考えてしまう。
ていうか、この種のバイトにおいては、男性であることはどちらかと言えば不利に働く条件だろうな〜とか
変に重く考えちゃうので「人生はゲームだ」と心の中で唱える
バイトの面接にビクビクしているマンです…
ただのバイトの面接に緊張している25歳男性
改めて公務員試験の問題集をいま見てみるとまぁつまらないが仕方がない
留年して就活したりすると無限の選択肢(少なくとも可能性としては)を目の前に大手病etcになることは性格的に確実なのでその道は取らないのです
公務員試験の勉強を何とか無理矢理にでもやる気起こすには点取りゲーム化するしかないですかね
正確さと基礎学力とが役に立って雇ってもらえたっぽいので、良かったです。
明日はもう一つのブラックと思われるアレです
todoリストの締め切り通知が来る→締め切り時間を変える→締め切り通知が来る→締め切り時間変える→締め切り通知が………っていうのを最近よくやっている…
todoリスト様からすれば、もうあんた何度言えばわかるのって感じですわ…
これからも人生楽しいことができるようになると良いなぁ。
大学生くらいまでは遊びでも勉強でもある種の目新しさだけでも十分楽しめるんだけど、そういうのが飽和してくる。
卒業できそうかどうかってどこで確認すれば良いんだ…
はっ…人生はゲームだということを忘れていた、もっと頑張らねば
人生はゲームだ!人生はゲームだ!人生はゲームだ!
人生はゲーム…人生はゲーム…人生はゲーム…人生はゲーム…人生はゲーム…
Better never to have been
ツイッターの界隈の流行はなるべく無視したいのだけど、目に入ってくるとどうしても気になる…
やりたいことがほしい〜〜
何もやらないと退屈なんだけど何かをしようとすると面倒くさいっていう精神状態
「わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。」
公務員試験の問題集を開いて眺めるとつまらなさに絶望
もはやこれは早押しクイズをやるような気持ちで攻略しなきゃなんだよな…
本日11日の午前中から僕はジョブカフェで説教をされに…
説教されにというか、まぁ正式には””キャリア相談””ってことなんですけど
5年前、僕は二十歳であった…
今までわかってなかったけどスッと納得できたこととして、人間関係は複雑なもので、その複雑さを複雑さのまま受け止めて対処する態度が必要で、僕はそういう作法が苦手で「人に揉まれる」ということがうまく出来てなかったのかもしれないなぁと思った。他者をブラックボックスとして扱う話とも通じる。
個別の一人一人のあり方を丁寧に理解して想像するというのは結構習慣的にやってると思うんだけど、人間関係が生み出すダイナミズムみたいなのについていくの難しい。
まだ自分には変化の余地がある、見えていない風景がある。
もうちょっと早く気付けていられれば色んなことがもっとうまくできただろつにと思う気付きは多いがまぁ仕方がない
なんか情報へと解体されたものに色々感じちゃうのはやめておこう
ていうか、そんなに人生まっすぐにいかないっしょ、、
暇な部署ってずっと机座ってぼーっとしてなきゃならんのか?「暇」って具体的にどんな感じなのか。
暇な時間ずっとツイッターやって時給発生するなら最高だけど、、、
朝ちゃんと起きる予定があって人と会話するって大事だわ…
いかに巻き込み、巻き込まれるか、みたいな発想に近い
「立ち回る」っていう言葉のイメージ
別に他に何かやって遊びたいという気分にもなれないし、ただウダウダ先延ばしみたいな
この勉強はつまり、草むらで経験値稼ぎみたいなタイプの…
生涯年収(見込み)を得るための
一問解くごとにチャリンチャリンとコインがたまっていくイメージで
今度受からないと一年伸びたらgdgdな生活になるで〜〜
つまらなく、意味のなさそうな勉強も場合によっては耐えなければならないという気持ちを持たねば…
1年ごとにまともな人間になっているつもりなのだがなんか振り出しに戻ったような気分になる
インターネットがなかったとしたら今頃は何してた? — 今よりも生き生きと生産的に暮らしていた、という光景は想像しづらい。インターネットはあってよかった。 https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKK6P4FIHIZSTGU2YRUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
なんか昔はわりと自動車運転免許の学科試験みたいな下らないやつもふつーにやってた気がするんだが
自動車学校での勉強は結局ほとんど何の役にも立ってないペーパードライバー(ちょっと道路標識に注意が向くようになった程度)なのに何故か徒労感とか無駄な勉強感は感じなかった…
「わ〜い、暇つぶしのクイズ問題集が何冊もある〜!」みたいな
とりあえず歩くと進むというのは、なかなかないことなので素晴らしい
とりあえず、スー過去のミクロ経済学・民法1・政治学からやろうという…
これはゲーム…これはゲーム…これはゲーム…
ねこカフェ行くときすら動物倫理とかチラッと思い浮かんでしまうのは面倒なのだが僕は人間様なのでネコに癒される権利があるということにしたい。
僕このままハムスターで固定しちゃおっかな。
大学卒業を機に龍からハムスターになるか〜〜
龍のようになりたいと思っていたが今となってはハムスターのようになりたい
明日は携帯を売りつけるお仕事をします
声張り上げたりするの意外と好きなんよ。
知らない人に対して短期的に押し付けがましく行けばいいからわりと行ける気がしている。
机に向かって勉強してるより精神衛生に良いんじゃないかという気すらする。
一日12時間程度ほぼロビーでほぼ待ってるだけ、みたいな役回りやってた時期あるのですよ
明日の仕事楽しみな気持ちとブチりたい気持ちとせめぎ合ってる
社会的活動のために朝起きて駅に向かうの久々の感覚だわ…!
私は25歳男性ハムスター
この僕が働いちゃうんですよぉ
慣れるまではストレスかかるだろうが、大丈夫だろうか
通勤時間一時間半〜
働くのいやだぁぁ〜〜
@algorithmicism まぁまぁそんな気を重くしないでさぁ
考えるべきことだけ考えれば
まぁ初めてで座学の研修しか受けてない状態からだから緊張するわねぇ。
慣れるまでは通勤時間中落ち着かねぇ〜
何もやってない状態から適度な労働をすると精神が落ち着くという知見を得た…!
最初やらされるのは文化祭の呼び込みみたいなのに近いので心身によい。
休日のショッピングモール、お客様として来ると混んでてめっちゃいらいらするけど、働いてる側としては活気があって落ち着く
しかし、ショッピングモールはどこのショッピングモールに行ってもショッピングモールだから、ショッピングモールという気持ちになる
労働を息抜きにして試験勉強するというのは仕事の種類と職場をうまく選べれば出来るのかもしれん
ちょい休憩なう
立ち仕事疲れる〜
自分が人間であるという実感が戻ってきた
いや〜久々の人間的な疲れだ。。
一日9時間労働で通勤が片道1時間半だとこんな感じになるわけか…
周りの人々が、ヒトの群れに見えていたのが、人間に見えてきた
しかし、労働と人間関係から解放された瞬間に将来への漠然とした不安がぶり返してくる
結婚を幸せだと素直に実感できる環境と性格で育った人の「結婚=幸せ」観は強固に感じる
別に全然それで良いというか本来そうあるべきだとすら思うんだけど、結構驚く。
ていうか、そこそこうまくいってる家庭でそこそこ素直に育った人にとっては、「結婚はするものだ」というのは「ご飯は一日三食食べるものだ」というくらいに感覚的に当然のことなんだろう、ということは、理屈では理解できる。
僕がたとえば「お昼ご飯何食べた?」って雑談的に話しかけたとして、「人間は一日3食食べるものだ」という文化で育ってない人はたぶんびっくりするんだろうね。でも、僕だって理屈では一日三食なんてそんなに普通のことではないということはわかっているはずで。
確かに RT鍵改 恋愛結婚なんて高度成長期の一瞬の幻影
「人生とは何なのか」は憂鬱なときに考えると泥沼なのでやめたほうがいい。そういうのは余裕があるときにむしろ考えるべき。「何のため 何を目標に生きているのか」を具体的に見直すと好転する糸口が見つかることが多い。
中央線の新宿より西の運行システム複雑すぎてよくわかんない
依然として眠りが浅いのでつらい。
これで今日一日の労働を耐えられるのか…!?
休日のショッピングモールの家族連れみたいのも異民族を見るような気持ちになる…
疲れてるとご飯って美味しく感じるもんなんだな〜〜
しかし、こんなやばい精神状態で接客のパート労働なんてつとまるだろうかと思ってたけど、やったらむしろ精神状態改善したので良かった
つらつら考えてみると、労働を好きになったり嫌いになったりするのは、主語が大きすぎるんじゃないかとも思ったりする。
思いっ切り感じの悪い、嫌味ったらしい感想言いたいんだけど、教師に東大卒がいないってどこの田舎の高校ご出身?
なんかまぁ、こういうたたき上げの人の独特の強さと尖り方っていうのは、学校歴社会に限った話ではなくあるだろうけども。
適当に絡んでも許してくれそうな人に絡んでいく傾向
なぜ公務員試験の勉強は極限的につまらないのか
それは、つまらないことでも生産的じゃないことでも、とりあえずそうしなきゃいけないことになっているからそうする、ということをある程度出来る人がいなければ行政事務は成り立たないから、という理解をした
何かの目標とか夢に向かって一点突破で頑張るとかではなくて、ぼんやりとした弱い気持ちをかき集めてなんとか何かしらの方向性を見出して次のステージにつなげていかなければならないので、つらい
なので、ここから少なくとも1年弱はじたばたが続くだろう
卒論は単位来てて単位数も足りてるんだけどこれをもって卒業できてるかどうかを確認する欄がない、こういう細かいことに僕はわりと神経使ってイライラするタイプ
雨の日に某喫茶店に来てガラ空きで悦に浸ってると()な感じで良い
あそこはそこそこ顔覚えてくれている店かもしれない
どんなにやる気をひねり出したとしてもお医者さんにはとてもなれない
公務員試験勉強の知識はなってからも案外使う可能性があるらしい
お仕事をやるような気持ちで淡々と勉強できれば。。。
いやいやだって相手に対してはスペックを見てるのに自分の方はスペックで見られたくないっていうのはアンフェアでしょう。
スペック的思考は人生を狭めていく、と第三者の立場からは思うが、いざ自分に関係あることとなるとどうしても気になってしまう
なんか僕はやっぱり一般的に見れば細かいこと考えすぎてるっぽい。
生活においてどの領域についてはどれくらいの思考解像度が一般的に求められてるのかっていうのがいまだにイマイチ掴めてない
だれかそういうのの一覧表作って〜
あ〜でもこっちの親戚の件でイライラしてしまう〜
うちの親戚に一人ヤバい人がいてみんな困ってるんです。
ちゃんとしてる小学生の方がまともなレベル。
もはや公務員試験の勉強以外にやることがないのだが、、、
大統領候補のトランプって日本でいうと石原慎太郎とか橋下徹に近いようなタイプではないのかね?
単なる頭の悪い人という可能性も否定できないのだけど。外国の話だとその辺の感覚掴みづらい。
戦略的に極右的なことを言う人。
mixiボイスで「twitterはじめました。idは×××」って流すのが流行っていた時代
いきなりスー過去回して得点ゲームにするじゃなくて1年計画で地道に教科書読みながらだんだんと興味を育ててゆるゆるやっていきてぇ〜〜
まぁとりあえず今から今年の試験までは機械的にスー過去得点ゲームを一生懸命回すしかないなぁ。
ハムスター力を涵養していきたい
馬力ってほどではないもっとちょこまかした感じのエネルギーを
「何だこの仕事は…」って感じの仕事に当たってしまった
ニッチ過ぎる…!
非人文系の人たちの適当な発言が人文系の人たちに冷笑されるように、工学部じゃない人が楽観的に技術の進歩を予想するのは工学部でゴリゴリやってる人たち的には結構しんどい光景なんじゃないか、と想像したりするのだが、どうなんだろう
すべてに対して誠実であろうとした結果「にゃん」しか言わなくなった人。
僕は内弁慶・ネット弁慶な傾向があるという自覚あります
一気にキレちゃうことたまにあるからねぇ…
これはもうキレても完全に勝てるでしょっていう条件が揃ってる状況になるとキレちゃうというか…
もっとこうこまめにフィードバックするべきなんよね…
ネットは自他の境界が現実と比べて捻じれやすい。だからネット弁慶は内弁慶に帰着できると思う。内弁慶はなぜかというと、これも自他の距離の取り方を上手く調節できないってことなのだろう。
もうひとつのお仕事が医療事務のアルバイトなんですが、受付とか書類整理みたいな感じではなくて、詳しく言えないんだけどアクロバットすぎて面白いのだが相当のストレスがかかる感じ
本人からすれば超生きづらそうだし周りからすれば超面倒くさいしやばい…
仮に理論的な話だと受け取ったとしても「自己分析って分析する自己と分析される自己が分裂してしまうからできないのでは?」という段階で考えが止まってしまっているのもあまり哲学科生としてセンスがあるようには思えない…
みんななんだかんだで「仕事」としての「研究」にやりがいを感じるものなのか?
きょるるさん、等身大の女子、という雰囲気を感じます
バイト先のクリニックの先生、1回目の時点で既に「自分の人生に衝撃を与えた人」の1人にランクインしている
この仕事…すげぇストレス…慣れれば簡単らしい…
やっぱり何か人生の相当部分を占める仕事というものはそれなりに重視しなきゃダメなものだなぁと感じつつある
でもこの実感から出発した結果なぜか気付いたら院進してるみたいな道がありそう…
ほんと面倒臭い性格に生まれ育ってしまった〜〜〜〜
人生には、先験的な意味や目的はない!
根源的には人生には意味も目的もない、意味や目的のために人は生きているわけではない
人は生きているから生きているのであり、人は生きるために生きている
でも、自分の手で作るのではない、あたかも客観的に存在するかのように信じられる、身体の底から実感できる意味・目的のようなものは手に入らないんだなぁって思うと、なんかちょっと寂しい
人生には、「こうでなきゃいけない」とか「これだけは確かだ」ということはほとんどないのだという実感がとても強くなってきてしまって、その自由さが重くてつらくて逃げ出したい、とでも言えば良いのだろうか
どんな生き方をしようとも、その生き方の妥当さが外在的に保証されることはないのだな、それはとても心細いな、というような気持ちというか。
 生き生きと生活して素直に自己肯定できるような人生を送るとかはしうるでしょうけど、理論的に考えて根源的には人生に意味はないし正しい生き方なんてないという考えはもう変わらないような気がしますねぇ
なんというかとにかく僕は「巻き込まれる」という契機が必要。
ここ二、三年の僕の漠然とした知識欲みたいなのは結局いったい何だったんだろう。
何だったんだろうというか、自己分析として色んな要因は考えられるのだが。
やっぱり今持ってる本一旦全部処分すべきかなぁ。
高等遊民を安定したメンタルで続けるのは無理だわ…
今まで生きてきた自分の積み重ねに基づくと、何がいま自分の最善の選択か
とりあえず基礎学力が最低限生かされる仕事には就く、という程度の縛りではなかろうか
で、もう少し短期的なスパンで過去の自分を見ると、東京都庁を目指しているということになってるので、そこを継続していく、とか
実際まぁ基礎学力というのはそれなりに仕事する上で生きてくるものなのだとそこそこ実感できた、知ってると生き辛さが増えていくような知識・教養もたくさんあるけれど…
多分このペースで勉強しても東京都庁間に合わなそうなんだけど埼玉県庁には間に合っちゃいそうで何というかあれコンビニはタバコとったりチケットの対応amazonの受け取りアイス作ったり… — うん、もちろんそれくらいは想像できてますよ。覚えるの結構難しそうですよね。 https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKG27QFAIIJWTEWCWRUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
コンビニ店員でよくない? — ちゃんとした仕事に就くまでのつなぎとしてはありだと思う。一生コンビニ店員はつらい。というかさすがに自分の能力的にもミスマッチ。 https://l.ask.fm/igoto/45DKECPWB667HQMHN2IG6NM72CTVIQIRPTOZBNZDXR3N77UYYWNCII2NUENOQRRKG27QFAIIVST2VCSRUY7O5MSPLULNAZXWREADFSUCZ3DGNFWD6ETOEXPSSR7JTT3ZS5YGEA73DKTJAMRICUAQTLO4DGHD5UTTTMVJ7DTRCYI4YOZAZOSDA6EYJC372WGTESKIESNXZ4IFVA=…
思い返すと、コンビニ店員っていうとやっぱりどうしてもパッとしない雰囲気の人が多いという印象が否めないのだが、近くのナチュロの店員さんたちパッとしてるしキリッとしているなぁ
「バイト行きたくねぇ〜〜」っていうまるで人間のような感情が芽生えてきた
やりたくないけどやらなきゃ、というかなり基礎的な人間の心の動きのパターンが久々に現れたような…
普段喋っている時に、「この言い回しを使うとまずいかな」と思っている色々が多くだいたいの言葉がスムーズに思い浮かんでこないせいでゆっくりしか喋られなくなるということが起こったりする。
これはユンケルとか投下しておかないと対応できなくなりそうなレベル。
自分自身が引っ込み思案なタイプだとその性格を他者に投影して過剰に色んな気持ちを相手に読み込みがち、というのはあるかも?
でも今のバイト先はマインドスポーツ的瞬発的判断力が要求されてる点で劇団的かもしれない
マインドスポーツ的判断力って自分の中で最も苦手な要素だろうな
「生きる意味はないけど、〜〜〜〜〜〜(詭弁)。まっ、元気を出してっ」というのが僕は理想で、中島義道はそういうパターンだと思う。
労働一般に向いているかはともかく、ちょうどいい難易度の行為をやって報酬がもらえて人とコミュニケーションが取れて、というのは精神衛生に良い
社会の仕組みを知って動かすというゲームに参入する気があるかどうか
どうしても、地球とか宇宙とかに比べて本当にどうでもいいじゃないかという気持ちが。。
ちゃんとした教科書買って勉強したい気持ちはわかるんだけど、そういう人ほど落ちる気がするけどなー。資格試験本使ってパパッとやるみたいな人のほうが受かる印象がある(あくまで印象) — まぁそうなんですよねぇ。
趣味というか、うまい場所に「巻き込まれる」ことが必要なんだなぁ
昨日ふと考えんだけど、能年玲奈はあまちゃんで主演女優をやって現在売れなくなっている一方で共演してた有村架純が売れているわけで、そう思うと能年玲奈の立場はとてもつらそうだ
このまま公務員になっちゃうのももったいないような気がするのですが、ご自分でもそう思いませんか? — そう言われても。何になれば勿体なくないのですかねぇ。極端な話、コンビニ店員とかだったらさすがに勿体ないという話になるでしょうけど
基本的に成熟社会では高学歴は有り余るんだろうし、僕は今やただの大卒文系フリーターよ
ていうか何になったところでそっから人生分かれていかない?
でもさー志望動機とかなんて言うの? — そりゃまぁ何やったってその問題は残るんだけど。
公務員だとなまじ消極的な動機はある分、積極的動機を生成するのが難しいんじゃないかなと思って — ん〜僕が積極的動機を持てそうなことって何だろう。現状、もやっとした気持ちをかき集めて次の段階に持っていくしかないという状況がある。
学校歴のラベルは見られるし、学校歴によって形作られてきた自分のさまざまな経験というのは当然あるだろうけど、でも自分がどういう道を進めば生き生きと生きられるかと、今までの学校歴とは、切り離して考えるべきじゃないだろうか。
なんか世の中の色んな不祥事ニュース聞いていると、世の中にはおかしいこと言ったりやったりする人がたくさんいてそれでも何らかの仕事をやってるもんなのにかたや自分はなぜこんな状況に投げ込まれてしまってるんだろうって思ってしまう
11時まで自宅待機してあるかどうかわからない仕事を待つお仕事
「職場はフレキシブルに変わります」
販売店とキャリア、キャリアと派遣会社が契約関係にあって、販売店は希望の派遣会社をキャリアに伝えて出すという形で、販売店と派遣会社に直接の契約関係はなく、って説明しなくてもご存知でしょうけど
業務待機の仕事はただただメンタルに悪くあぶく銭が発生するだけなのでダメだ
やっぱり技巧的なのじゃなくてまずは第一に面白くないとねと思います。
あとあれだね、世の中はただただ人間によって成り立っているという実感が大学以降一気に深まっていくというのがあるよね…
というか自分の場合それがこの1〜2年で一気にきてしまったなぁ
人間を超えてる領域みたいなのを自分の手で求めていかなきゃならないのか………
みりおんさんが人間だと判明したとか、わりとその過程の一つだった気がする
1年半くらい前は世の中に超人間的なものがあるんじゃないかといまだになんとなく思っていた
漫画本を読むのすらインテリという意見もあったような
途方もなくいろんな人生があって自分はその一人でしかないんだなって実感を深めすぎちゃった気がする。
なんでも知ればいいというものでもないんだよなぁとか
これは言わばメディアの悪影響だ
明日は携帯で、明後日は医療事務の労働
なんで社会人なのに彼女いないの?
「つねに世界に不幸な当事者がいると思うだけで耐えられない」この1〜2年こういうような感覚がとても強くなって何となく悲しくなることが多くなってきた
この感覚がとてもつらくなってしまって、自分は何かできるわけでもなくて…っていう
「つねに世界に不幸な当事者がいる」「途方もなくいろんな人生があって自分はその一人でしかない」この二つの組み合わせは、つらい
ここ数ヶ月、大学時代がとても懐かしいという感覚が強くなっていている
innocentでいられた頃
メガバンクマンの出向したら給与激減って例、親戚にいらっしゃる
立ち仕事をナメていた〜
4年くらい前は、食べ放題飲み放題の飲み会のあとに家家家いってトッピング全部のせでごはん4杯みたいな気が狂ったことしてたけど
こうやって、そこそこ自分の能力で処理可能な仕事をやって一日を終えるというのが標準的な人間の生活というものなのかもしれないなぁ
それはかなりありそうですね。たとえば、理不尽な構造のために発生してる無駄な仕事をずっとやって日々が終わる、みたいなのはストレスたまるかもしれませんね…
しかし、地方公務員で権力を得ても法律やら何やらがんじがらめでシステムを変えることはできなさそうだ — まぁそうなったらそのときに悩んだり諦めたりすればいいんじゃないかなぁ。ていうか、どこにいたって人間はがんじがらめで、
いまどきの日本で生きるということは、がんじがらめの世の中を生きるってことなのではないかなぁ
まぁ戦後すぐとかだったらまた違ったんじゃないですかね。
公務員になったらツイッタやめてしまうん? — そんなんわかんないっすよぉ。なるのかどうかもあやふやなのに。
犬を飼ってめっちゃ可愛がる夢を見ていた
食事中すらずっとそばに居させるくらいの勢いだった
犬はしゃべるという設定の世界だった
高等遊民だったはずが昨日も労働で今日も労働でだるいわ〜
都庁に言っても周りと話し合わないじゃない? — それは大いにあり得ると思っている…。でも、比較的良い方ではないだろうかとも思っている。僕が馴染める世間ってどこだろ
大学院でしょ! — そんなに話合わんのだなぁ。いまの場所は
うそ。。じゃあ哲学専攻にしなよ — いまのところに院進するよりは、あり得ると思います。
他者に「巻き込まれる」、可能ならば、良い刺激を与えてくれる他者に「巻き込まれる」というのが大事なんだろうと感じつつはある
「話が合わない」っていうのもいろんな次元があって、なんとなく雰囲気が合わないとかならともかく、「業務上のコミュニケーションがなんか噛み合わない」とかもあり得るからなぁ
まぁ普通にfacebookに近況報告をするか。
なんか高校くらいまでの教科書読んどけばあとは本なんてそんな読まなくても大体よくない?
 高校レベルの知識一通りあれば、大体の話は粗くとも網には引っかかるようになると思うんですよね。
みりよんさんは数学沼に関して何があったのか
高度な専門性と幅広い視野の調和
大丈夫?ご飯たべてる?熱はない?水分こまめに取ってる?果物食べる?それだと寒いんじゃない?
哲学に(哲学史とか哲学の古典とかに)もはやあんまり興味ないような気がするんだけど、TLの影響でもやっと引きずってるだけのような
どちらかというと、高校〜大学教養レベルの各分野の教科書を片っ端から読んでいくとか、そういうのがやりたい
イメージとしては、例えばひとつの新聞記事とかを読んだ時に、どれだけ多面的な角度からそれを分析できるようになるか、みたいな能力が欲しい
今気づいたんだけど、ハウスダストアレルギーになってるのと何か部屋がいくら掃除してもほこりっぽいの絶対関係あるよな
なんとなく全身がムズムズするのもおらくアレルギー性の症状だ
西船橋が人生の全てだった
あ〜僕の卒業を祝う会は哲学クラスタの方々がやってくれたのです
客観的には外在的制約によってともに過ごしている時間が長いだけなのに、主観的にはそれが運命に感じられる、それが単純接触効果
世界の皆さん、もっとカラッと!
自分の状態を冷静・客観的に見つめられる能力はだいぶ向上しているはずなので、それには精神的にかなり救われているはず。
というか真面目に思うのは、自分が何をもらえるかという発想では人生を楽しく過ごすにはちょっと限界が来てしまっているくらいに遊び呆けてしまった
優秀な同期・後輩などをみてると辛くなりますよね? — うーん。気になるのは事実だけどそこまではっきりした感情でもないのだな。
極めたい気持ちはあるけどその対象がないということですか? — それもないかも…。あることについて際立って専門的に優れている人でも、別の分野ではきわめて音痴な発言をするっていう例がネット上には溢れていると思うのですが、
専門知に対する憧れが消えちゃってる(しかも、おそらくはかなりの程度不可逆的に)というのは致命的だ
でもさー、大学の中で際立った専門知に触れてさあ、憧れないかねえ。そんで、満遍なく知らないより、一個極めてる方が良くない? — 憧れないんよねぇ。立花隆みたいなタイプの人は憧れる。なれないけども。
博覧強記性がいきる仕事はないかねえ。文科省とか向いてんじゃない? — そういえば、寺脇研って何となく憧れる官僚・文化人ですね。能力的に向いてるかはわかんないけど、文化・教育・科学、そういうものに関われるのは良い生き方のように
真剣に高等遊民を目指す覚悟まで固めるには最低まだ2~3年くらいの遍歴が必要そう
ていうか今年落ちてそのまま特に就職・進学しないとすると来年に所属場所なしのまま賃貸の次の更新が来る…
とか、親戚にはどう言っておこうか、とか、派生的な問題ばっかり気になって結局何がしたいのかはっきりしないまま
院進学って言っても何大学の何学部に行けばいいのか
2年間くらい、やたらテレビ番組を撮り溜めて消化していた時期があったけど、そういうのももうやめてしまった
久々にお会いした助教さんによれば「いい顔になってるね」とのことだった
まぁ数ヶ月前よりは良くなってるのかもしれない
基底現実があり、基底現実上でみんなが液晶画面からの光を解釈することによって、ツイッター世界が成立する
まず、勉強はダラダラとやる以上の頑張り方はできないという現実を正面から認める
ここ一年くらい風邪のときは活動がんがん減らして部屋に引きこもって寝る感じにしてたんだけど、もしかして、それはそれで過ぎたるは及ばざるが如しなのだろうか
ぶっちゃけいまの状況だと風邪引くと安心してダラダラしちゃうから体が治そうとしてないんじゃないかみたいな解釈すらできる
冷静に考えて、初任給30万弱は結構すごいことやらされそうな気もする…
病理医とかあるやん — 放射線科医とかやりたいですね。どっちにしろ、もはや勉強苦手になっちゃってるのが大問題だ〜〜
医学部で将来の経済面、ステータスのダウンサイドリスクを小さくしつつ、モラトリアム延長するでファイナルアンサーじゃね? — 医学部ってモラトリアムってほどモラトリアムなんかなぁ。
あんまり迷ったことをここで色々言うと各方面で一生懸命その道を目指してる人がいるのでちょっとやばい恐れ
今日は労働です
年収いくら欲しいの? — 将来的に結婚するつもりがなければ、400万もあれば十分豊かな暮らしができるような。
カムヰヤッセンは毎回面白いので期待
 いろいろあるんですが、いまつぶやいたのは、「都庁なんかに行くのもったいない」って言う人いるけどそんなダメなのかなと思ってネットの就職偏差値()表を見たら全然悪くなかったという不純な理由からですw
でも、東京は暮らしててずっと好きな街なので、っていうのが大きいですかねぇ。さっきのは「都庁なんて…」っていう世間的な目線に対して就職偏差値()っていう世間的な目線を対抗させて自分を納得させてるというのもあるので、まぁ。(やっぱり世間体に弱いのです)
ん〜やっぱり今年のは模試として受けて、一年計画でだらだらこつこつゆったりやるしかないような気がしてきた…
近世の日本とかに経済学の萌芽的な学知はなかったのかな
なるほど。今ちょこっと調べたのだけど、荻生徂徠って思弁的な政治思想では終わらなくてかなり革新的で具体的な経済政策を提案してたのですね。
今日も喫茶店でぼーっとしながらスマホ見るだけの時間〜
ちはやふるを一人で観にきてアレになっている
六味丸はおいしい。半夏厚朴湯はなんか微妙。
どうせもう学校なんてあってないようなもんだったし卒業したって大して変わらないだろうと思ってたけど今の自分の生活では些細な変化が大きく感じられる状態なんだな
最近思ったけど自分のことについては少なくとも総合的には自分が一番詳しいので、詳しいと適当なことを言えなくなってどう説明すれば良いのか分からなくなり、他人から指摘される当たらずと言えども遠からず的な説明の方が納得するなっていう
夏目ちゃんやめるの寂しすぎて苦しい。なんでやめちゃうのかな? — マジレスで今調べたところ、「あさチャン!」というTBSの朝ニュースに平日毎日出てるらしく、それで忙しいのではないか。
関係ないけど、能年玲奈も夏目三久みたいな感じで逆転の復活を遂げてきてほしい
僕ジョブカフェで一番最初に「研究者が向いてるんじゃないですかねぇ」って言われて、そのときはさすがに「さじ投げられたか…!」と少し焦った
ジョブカフェの人のイメージする「研究者」はおそらく古色蒼然としたイメージに近いんだと思う。そんなに研究者志望の人の仕事カウンセリングはしないだろうし…。
このアルバイトは興味深いので、可能な限り続けていきたい
ともに過ごしてきた人々がまた今年も明日から社会になってしまう
僕はほぼ医学を学んだことがないということを理解してくれてる人も多分あんまりいない
3~4年前のツイッターの炎上っていうと本当に馬鹿な人が本当に馬鹿な行動をしたことをつぶやいたら晒されてるみたいな感じだった気がするのだけど、いま振り返れば牧歌的な時代だったのだな~
これからもツイッターはどんどん面倒臭くなっていき人間関係は固定されていき暗黙のマナーが増え新規参入できなくなりマンネリになっていき次第に人は離れていき最後にはbotのみがつぶやき続ける荒野が残る…

2016年4月
大学の6年間の間に起こったことや感じてきたこと、丁寧に振り返って書き残しておきたい。
答えを探りたいとかではなく、ただただ「時間って何だろう」っていう感慨にも近い疑問
「人間が「時間の中に」存在するのではなく、逆に時間が人間存在から出て来るのである」って、今の僕にはとても腑に落ちて感じられる。
そういえば、本日から正式(?)にフリーターです
なんかタイトルだけで映画観に来たらBLモノらしく周りほぼ女性で恥ずかしくなってる
なぜこんなことに…
やめた方の仕事は4月から給与体系が見直されて下げられていた
面接なしで3時間の座学研修でいきなり店に送り込まれて高給もらえちゃうのはあまり納得できない…
@millionsage やくざな仕事ですねぇ…
ヒトコミュニケーションズっていう人材派遣会社
まぁ労働は悪というイデオロギー的立場だった僕としては相当の想像力の変化なのですよ
ていうか逆に、9時5時週休二日有給完全消化だとしても仕事がめちゃつまんなかったら結構つらいだろうな
ネガティブな情報に敏感なので、ブラック企業の報道とか見たりするとネガティブなイメージが蓄積していったんじゃないですかね…
今も暇ではあるかもしれないけど、暇すぎてつらく感じてる間に時給が発生する立場になってみたい…
仕事が暇すぎる場合、暇すぎる間になんか業務に関係しそうな勉強とかやってちゃダメなの?ぼーっとしてなきゃダメなの?
ちなみに、件の初日から徹夜の国家総合職の人はノー残業デーだったため徹夜しても残業代すらもらえないらしい
なんかウズウズする一方で眠く、自分の体は一体何をしたいのか
またすごい夢を見た…
風邪に軽微な花粉症を併発してる説
人類学的参与観察をしているような気持ちがずっと消えないまま人生過ごさざるを得ないんだろうなと思うことはある
勤め先に話(し方)の合う人を求めるのがそもそも間違ってるんですかね。 — 話というか、社風とか職場の雰囲気が合うかどうかみたいなのはまぁ当然あるかもしれませんけど。話が合う合わないっていうのは変な感じがする。
「コミュニケーション能力が大事」って「有能な人は有能」くらいの意味しかないよね
学生時代にはもっと筋トレをやっておくべきだった
哲学を勉強したら、なんかとてつもなく素晴らしく深い何かが学べると漠然と思っていた、そんな頃があった
ん〜、まぁ、最初に抱いていた漠然とした憧れというのは消えちゃった。もっとやり込んだら別の何かは見えるのかもしれないけど、そこまでやりたい気持ちではないな。
でもkmn先生とかすごいし、そうなってみたいと思わない? — すごいとは思うけど、そうなってみたいとは思わないなぁ…。確かに1〜2年前はものすごく憧れていた。けど今は別に…。
なんで憧れなくなっちゃたんでしょうか? — 僕の中での非常に様々な心境変化が背景にあってうまく説明できないのですが、哲学に憧れなくなってしまったのとパラレルな現象ですねぇ。
というか、事務作業は世の中が回っていくために必要なものなのだという感覚が弱くて、「なんでこんな無駄で無意味な作業を…」みたいになっちゃってて、あまり良くない
なんか、べとりんに面白いバイトに誘われた気がする。忘れないうちにここに書き残しておこう。
就職してチンパンジーの群れに投げ込まれちゃった人たちが大変そう
毎日頭がぼやっとしてる状態をどこから変えていけばいいものか
毎日頭がぼやっとしている状態に対しては決定打がなく、小技を積み重ねて調子を上げていくしかない、のか
いま残してある本は、読めば何かが分かるようになるんじゃないかって期待が残ってるやつなのか
ゆっくり急ぐ←→何もやらず焦りだけ募る
『職業としての学問』って、いま思い出す限りだと、「君らはマルクス主義とかに影響されて世界全体を理解するような知に憧れるかもしれないが、学者になるということは専門家になるということであって、そうでしかなく、それが大事なのだ」って書いてあった気がする
朝だら〜っと浅く眠ってるときに見る夢がなんだかんだ何か楽しいのも困っちゃうんだよなぁ
ゲームとか何も生産してないし何の能力も身につかないけど楽しく感じられちゃうということに不条理を感じる。
特殊な家庭環境だったはずなのだが、それが明確に特殊だとはっきり感じたのは高校卒業してから徐々にではないだろうか。それくらいに心が閉じていた。
エミリア編は3時間でクリアーできる
じゃあ普通に解約してお金返してもらいに行くか
特になんの感慨もなくわら半紙のメモサイズの紙切れ一枚に記入して組合員証渡して16000円を返還してもらった。
しかし、結局画面の前でボタンを押してるだけの何の生産性もないゲームが楽しく感じられてしまうというのは、生の無意味さを裏側から照らし出している感じ
月払いだと16260円
いま霞が関で残業している人々がたくさんいることに想いを馳せながらぼんやりとした焦燥感と退屈とともに食べるサイゼリヤ飯の美味しさね
これであと5年間はクレジットカードが使える
医者は卒後3年で年収一本に到達するらしい。羨ましくない? — でもまぁ相当特殊な仕事だからねぇ。。。
たまたま現代日本の教育制度におけるペーパーテスト解答能力が10代後半の頃高かったというだけのローカルな問題で人生を必要以上に振り回されたくない
kankimura先生が立派な人の集まりと思える組織とは
kankimura先生は勉強をしなかったらどんな人生を歩んでいたのか
ノーベル経済学賞レベルの学者への謝礼1万円。。。
tencubeさんとの出会いは5年前に遡る…
自分が生まれて生きていることは、良かったことのように思う
これをもっと強いトーンで言えないと、作っても作らなくても自由である子供をわざわざ作るというのはおかしい話になってしまう…
生まれてきてよかったとどうして思うんですかね? — 生まれること生きること一般が普遍的に良いこととは思ってないけど、自分はそれなりに良い時代良い環境に暮らしてきたから。
慣れてきたと同時にぶっちゃけ既に飽きてきた…
さすがにこの飽きっぽさでは何もやっていけない
眠いしそわそわするしどっちかにしてほしい
3〜4歳の子供を見たとき最初に思うのが「こんな世の中に生まれちゃって…」ということなのが、とても困る
生まれちゃったのは仕方がないので何とか楽しんでほしいのと、あまり迷惑はかけたくない
自分の体の中に内蔵が色々あったり血が巡っていたりするのリアルに想像すると結構気持ち悪い気がする
肝臓とか文字にするとどうってことないけど自分のお腹にそれが収まってるって思うと気持ち悪くない?
逆に年収1000万も稼いで何に使うの?
どうせ死ぬのだし明かりがなかったら夜歩くことすらできないようなただの人間なのにそんなにあぶくを寄せ集めて何になるのか
1000万稼いで何に使うかって?子供を中高一貫校にいれるんだよ! — 実際そうなんよねぇ。塾行かせたり、なんたらかんたら…
大学生のぼく、和田光司さん死去の報を受けガチでショックを受ける — 大学生は、高校のお世話になった先生とかがちらほら亡くなり始める時期ですよね。
Dragon氏は基本的に幸福という言葉で表象されているものを目指してる感じなの? — 目指しているというか、現状はいちおう幸福ではあると思うので、それは目指す目標としては機能しないかも。現状維持以上の指標にはならない。
じゃあ何のパラメータを上げるのが目的なんですか? 夢中になるものが欲しい? — そういうことだと思います。やっとそこにたどり着けたとも言えるし…
ゲームだと、無駄にレベル上げしまくって余裕でラスボスクリアみたいなのがしたくなるタイプ
婚活中とか適当に掲げてしまった
新鮮味があることにも飽きているってかなり屈折してないでしょうか?となるとやっぱ旅・学問・仕事ぐらいしかないです… — そう、手軽じゃない消費か生産をしないともう新鮮味を感じられなくて、つまり頑張らなきゃ楽しくならない状態に追い込
なんというか経済的危機感がないってのがちょっと人とちがうとこなんですかね。 — それは恐らく。普通だったら、「〇〇するためにお金貯めてる」みたいになったりもするはずなんだけど…
(ある程度まともな)親がいるひとなら「本当に辛くなったらお金について相談する」くらいのあんばいで行けるのだけど
僕はこの宙ぶらりんの状態でなんとかジタバタするしかないのです。
認知行動療法はエビデンスがあるっていうより、精神療法心理療法にエビデンスを求めようとするとそういうやり方にしか出来ないのじゃないかなぁという気がする。
なぜか「婚活中」は真に受けられたのに求職中だと信じてくれない…!
なんか今日薬局でよく分かんない喧嘩になったのが尾を引いている…
普通にすれ違いのような気がするのだが、こっちが悪いみたいな感じの言い方だったのが不愉快だ。。。
原因経緯検証モードに入って不愉快さを自分で増殖させていってしまうのが困る
そういう気分になると場所も相手も全く異なる昔の喧嘩とかまで思い出してひたすら不愉快さが増殖していく…
そして全てどうでもいい話なのにそれにイライラしてしまうということにメタレベルにイライラしてくる
ネガティブな感情がどういう風に生じていっているか把握することでとりあえずちょっと気持ちを落ち着けるっていう
あまりに暇だと、どうでもいいことを丁寧に考えてしまうので良くない
やっぱり、結婚したいと思う人々とは、言語的理解では埋めがたい差を感じる。
僕は女だったらもっと強く結婚圧力感じてる性格だろうと思う
一般職女性とかだと、結婚しようとでもしないと人生が暇、かもしれない
どうやって生きようが死ぬまでの間いかに楽しく暇を潰すかみたいな感じよなぁ
起きたときの頭がぼやっとした状態で布団の中にぬくぬくいるの気持ちよすぎる
新高一と思われる男女のきゃぴきゃぴ軍団…!!
人生はゲームだとして、別にゲームとしてのゲームはあんまり好きじゃないんだったということを思い出した(コンテンツとしてのゲームが好き
勝つために知恵をしぼるみたいなの別にそんな好きじゃないということに気付いた
じゃあ何を楽しんで生きればいいのかという
受動的な楽しみ方はやりつくしてしまった感が
ていうか仕事ばっかりやる人生というのも巻き込まれれば結構いける気がする
そう、マイミクの数を気にして申請できそうな人がいないか細かくチェックしているような時代が僕にもあった…
どこまでいっても人生に先験的な意味はない
そういえば、大学時代の僕はある種のコンプレックスを原動力に生きていた気がするのだけど、もはやそういうのが消えてしまった。
身の回りの事柄に忙殺されるというのは、大変だと思うけど、ある意味では羨ましくもある
いつか忙しくなったとき、めちゃくちゃ暇で退屈だったこの日々の思い出が糧になってほしい…
RT鍵 仕事で忙しくすると悩んだり自分の問題を考えなくてすむけど、結局先送りになるだけで最後にはしっかり年貢を納めることになりそう
RT鍵 定年退職したおっさんがすぐに体調崩して入院してるの見てテンプレ通りだと思った
高齢になって、特に大きな悩みがあるわけじゃないんだけどそろそろ良いかなと思ってなんとなく自殺、みたいなの、やっちゃいそうな気がするんだよな…
人生の根源的な無意味さへの確信というのは、ここ1年強で徐々に強まってきたような今後何をしていても付き纏うであろう「別にこれである必然性はない」という感覚
たぶん「人生に先験的な意味はない」というのは現代に自分の立場で生きてるから納得できるイデオロギーであって普遍性はない
お医者さんの仕事本当に儲かりそうだし本当につまんなそうだなという実感が深まっている
たしかに牛丼屋さんってこんな雰囲気だった気がする
いまの社会の経済体制の構造を理解したい…
年取って預金通帳見ながら特にニヤニヤはせず無目的に取り留めなく溜まった貯金に途方にくれる人生送る可能性ある
TLからそこはかとなく哲学情報が入ってきちゃうだけで基本的に哲学・哲学史に対する興味はもはやなくなっている気がする
やっぱり物事をクリアに見るために直接的に最も有効なのは筋トレな気がするなぁ
じゃあ目黒シネマはここさけをまた観に行きますかね。
部屋を一回片付けたものの散らかり、また片付けるというtodoはかれこれ2週間は引き延ばされている
なぜ人はフィクションを求めるのかっていうのに対する一つの答えとして、現実の無意味さ不条理さには耐えられないからだ、という答え方があるけども、
世界は無意味だし不条理だけど、その不条理さの中でそれでも生きていくことが大事なんだってやつ
あぁ、これは先延ばしにより非生産的なストレスをためるパターンか…
やるべきことを引き延ばしている時の焦燥感というのがあるということに気付いた
まったく関係ない人のまったく関係ない出来事や気持ちや考えにずっと晒されてしまうとやっぱり良くない…
退屈さは良い環境に入り込めればなくなるとしても、無意味さにはずっと耐えていかなきゃならんのか…(あとミスマッチな場所に行っちゃった場合単純なストレスが加わる)
自分が何を生産しているのかイマイチはっきりしない割にはお金をもらえるので、自己肯定感を維持するのが結構難しいということに気付いている
FF9の攻略本が出なくてでもなんとかエンディングまで行けて、数年後にアルティマニア出されてるときのあの頃の心の踊り方は
あのときの気持ちと態度で何かに対して臨んでみたい
別の情報とか文脈を参照せずに、純粋に目の前にあるものを楽しむっていう
もしかして整腸剤を飲むと体調が良くなるかも…!?
どんな人でも守備範囲をちょっと外れると…というのを明らかにしてしまっているというのが僕はつらい
客観的に自分を見るに、僕に強い説教なり指導なりをできる立場の大人がいないというのは結構厄介な問題で、そういう中でも柔らかく忍耐強く色々と言い続けてくれる人達にはとても感謝しております。
「コミュニケーション能力が足りないから飲み会には出られないというよりも、コミュニケーション能力が足りないからお酒を飲む」という感覚は大学の最初の頃とてもそうだった
少しずつ吹っ切れてはいると思う、完全に止まっているわけではない、はず…
相対主義みたいなニヒリズムみたいな何かに完全に心が浸食されてしまっている…
高校の理科・社会は世の中を理解する知識としてコスパ高いと思う
すごく勉強してる人がなんで高校理科の教科書・参考書くらい読もうと思わないのかあんまり僕にはわからん
なんか、自分も文化人類学的に観察されうる一人の人間に過ぎないんだって思うと本当に人生くだらなくなってくるって感覚がある
仕事につながるような知識と能力だけ高くてローカルな気持ちにだけ突き動かされて世の中のことは適当に持論で斬って何の疑問も持たなくて過ごせるようなまともな人間になりたかったです〜
しかし一方で、北条かやさんを知り合い扱いした(した記憶ないけどそうなんだろうか?)のは、何ていうか意識高い系的な振る舞いだったかもしれず
そう、僕は青春の幻影に常に圧殺されてる感じ
カルピスのCMもポカリスエットのCMも好きね
ただ、これも15秒にドラマタイズされてるから良いような気がするだけであって、大して良いものではない
やりたいのかやりたくないのか分からないようなことを卒なくこなすことに忙殺されて人生過ごしたすぎる~
やっぱり筋肉はすべてを解決してくれるのだろうか…?
やっぱり、体調を整えるための種々の行動をとるというのを最優先の目標にしよう…
いろいろなものに幻滅して、というか、自分が無い物ねだりをしていたことに気付き、いまこそ何かにすがるのではなくて、自分の足で立ち上がることが求められている
虚無という知的な理解は変化しなくても、虚無で虚しい…/虚無だからこそ楽しい、の違いは、たぶんテンションの違いでしかない…
悲しくてやりきれないのですがどうしたらいいですかね・・・? — 寝ましょう。それか僕と束の間おしゃべりしてくれると嬉しいです。あまりに悲しくて耐えられないときは心療内科はいかが
ぼんやりとした焦燥感がほぼ唯一のモチベーション
なぜ働きたいのか
・贅沢しながら生きたい
・世間体がやばい
・無職でいるのは能力が勿体ないと思う
・働かないのは暇
大学時代はやっぱりやや時間が止まっていた感覚があり、でもここでこうしてるのもいろんな蓄積があってのことなのだよなぁと感じる
誰かと一緒の部屋で寝るなんてことももう当分はないのか
それは結構悲しいことかもしれない
誰かがすでに寝ていて寝静まっている空間みたいなの、恐らくもう当分は経験しないのか、と…
寝食をともにする
学生会館の部屋を確保するためにみんなで結束して泊まり込むみたいなのも懐かしくなってくる〜
特に何があったわけでもないけど気分が明るい〜
風邪をひいてジム通いを中断して、そのまま長引いて治り方が曖昧なままジム通いがうやむやになるパターン繰り返してる気がする
「知への幻滅」というのがあるかもしれない。
将来いつか筋肉にすら失望する時期がくるかな〜
「いくら筋トレしていくら筋肉つけたって…この虚無感はどうしようもないんだ…」みたいな感じになっていたい
「家庭に病人を抱えた経験がある人なら、この絶望的なコミュニケイションを理解することはたやすいでしょう。」
「こんな穏やかなときもっと繋がっていたい全てを見せるのが怖くて少し離れて歩く君の横顔がなぜか壊れそうで守りたいもっと近づきたいよ Secret of my heart 分かってくれるよね誰だって逃げたいときもあるけどそれだけじゃ何も始まらない」(33歳女性)
『それでも、生きてゆく』を借りる
ジョブカフェから電話がかかってきた…!
今日は何したんや? — 渋谷で映画を観て、テレビドラマのDVD借りてきて今見てます… https://l.
特に若い頃だと、自分が特別な世界にいると感じられるときと、自分がつまらなくて卑小な世界にいると感じられるときと、そういう振幅の間で生きていくことが多いと思うのだが、最終的に現実を現実として冷静に見つめられるようになった時に、この世界には人間しかいないというのをどう受け入れるか
言い換えれば、しょせん自分も人類学的に観察されうる一人の個体に過ぎないっていう状況で何に生きがいを感じていくか
これはある意味では出発点に過ぎず、そこにやっと辿り着いて途方に暮れている、というような
『それでも、生きていく』のタイトルにふさわしい
高度な知識のあるちゃんとした専門家かなぜか凄い誤りに陥ってしまう事例…
そう、「一つの分野をちゃんと勉強して奥深さを理解すれば他の分野も同様であると考えられるようになり、・・・」なんて主張は全然納得できない
RT鍵 逆に自分の知らない分野のことは「俺が興味ないということは大した分野ではない」くらいに思っていると思う
でもじゃあこの先生は、この歪んだ信念を持たなかったらもっと良く仕事していられたのだろうかと考えると、むしろ逆だと思われ、じゃあ物事を正しく見ようとすることにはどういう価値があるのか、みたいな気持ちに
物事を歪みなく正しく見ようとすることにはそれ自体として価値があるのかどうか

2016年5月
眠いのに目が覚めちゃうし、寝れないし、なんかうずうずするし、面白く感じられることも思い浮かばないし、ほんと困る
また寝てて、いろいろと変な面白い夢を見た
片付けに取り掛かる瞬間にもやもやもやっと色んな懸案が思い浮かんで動けなくなるっぽいので、それをちゃんと言語化して書き留めて解決に取り掛かりたい
本棚見てると、全部要らないじゃないかなぁという気持ちになってくる
全てに対するやる気が出ない。
相変わらず頭がぼやっとしている。
新しい発見とか、何かへの関心とか、何かの状況に巻き込まれている状態とか
みんなで一斉に休んで色んな場所が混むの何とかなんないのかな
家庭を作ってたら孤独死しないというのが理解できない
九州大医学部再受験いいかも
こんな世の中で何に希望を持って生きていけばいいのか
なんか世の中が「フラット化」してる感覚にどう耐えていけば良いのだろう。どこかに「物語」を見出したいんだけど。
どこで何しててもただの一人の人間に過ぎなくて、どこだって地球上の一個の場所に過ぎなくて、っていうのをどう受け入れていけば良いものか。
どうやって現実を現実として受け止めてやる気を出していけばいいのか
終わりなき日常を生きろ、っていうのが無理すぎる
まぁどこで誰と何やってても終わりなき日常感はもう消えない気がするんですけども…
いや、人生は耐えるのが大事、それは多分変わらない…
あっという間に気付いたら寿命が尽きていて欲しいはある
あと、何かやりたいと感じてもあらゆる自己検閲を無意識に入れてしまって何もやりたいと感じられなくなる、みたいな傾向が一周回って昔より強まっているかもしれない
確かに昔に比べれば客観的なセルフ・モニタリングの能力は上がっただろう。
生理的欲求→安全欲求→親和欲求→承認欲求→自己実現(欲求段階説)
この枠組みでいくと、最後の→のところで躓いている
サインバルタ10mg増量による波
複雑な事柄の複雑さをきちんと理解したいという欲望が削がれているのはすごい良くないのではないか
「知識欲の大幅な減退」とも言い換えられる
理解したいという気持ちだけでは、マッピングできるようになれば、そんなに繊細な理解をする必要はなくなってしまうんだなぁ
何かしないとまずいし退屈だけど、別に何もしたいことはないしその気になればしないでいられる、っていう状況が本当にままならない
この3年~6年くらいの欲望のあり方をおそらく今から転換していくべきなんだけど、行き詰まっている、みたいな
退屈とか暇とか、自分から何かを作り出さなきゃずっと退屈なのではないかという気持ちは、たぶん人生で初めて芽生えてきてるから、どうやってドライブすれば良いのか分かんない
元気か? — なんか今日はそわそわしてますねぇ。
世界から心底不可解なものとか謎なものがなくなってしまった感覚、というのがこの数ヶ月ある。
あと、毎度のこと、こういうときに焦燥感が空回ってしまうのが良くない。
なんか、ビビビッ、ってくるような出来事があればいいけどもねぇ。
確かにこのソワソワ感はワーッと走れば解消するのではとも思う。
今までよりもう一段階高い欲望の世界に巻き込まれていく必要がある
例えばの話、面白くないテレビ番組を見て多くの人が「くだらない」と感じるように、何を見聞きしてもそういう類の下らなさを感じるようになってしまっており、ここからいかにして何かに対して関心を取り戻せるのか、人生の難易度が高い
知識欲と社会的欲求とうまく相乗効果になればなぁ
ジタバタし続けるしかない。
何事かに対して働きかける、何かを自分で作り出す、生み出す、という発想を持たないと、人生が退屈なまま終わってしまう、というか続かない
自分のいる世界が何か特別なありがたいものに感じられていたのが色あせてしまったというのが同じ。
違うのは、涼宮ハルヒはなお非日常を探し求めているが、基本的に僕はもう世の中に目新しいものとか非日常的なものとかを期待してはならないと感じているということ。
でも僕の世界把握の仕方とか認知の発達の仕方とか大分歪んでたから普通に高校生的な要素も混じっていると思う
そう、この感じ RThazuma昔はなにを見ても「これすごい!」だったのが、そのうち「これ前にもあったな、指摘しとくか」になり、最近は「これ前にもあったぜと指摘するのも無駄だから黙っとこう」になってきた。平均寿命だと人生まだ30年以上あるのに、これからどうなってしまうのだろうか。
この3年間くらい、いろんな物事に不思議さとか新鮮さとか目新しさを感じていたのが、一気に色あせてしまって、退屈さに苦しんでいる感じ。
将来が決まってないから不安増幅すると言えばそうなんだけど、別に定職についたところで将来は決まってるわけじゃなく、たぶん同じような状態に陥りうる。
むしろ、漂着したダッチワイフを堕天使と誤解できる純朴さは、そこだけ切り出して捉えるならば羨ましい
償うために生きていく、というのはどういう感じだろう
僕はやっぱり2000年代の歌姫が好き
ゴーゴーバーは虚無の深淵に行けそう
AKB、確か受験直前の年の紅白だったけな、それ見て何かとても励まされた記憶があるんだよな。それがファーストインプレッションだったな。
なんか、何事につけ雰囲気がわかればそれ以上深入りする気がなくなるみたいな傾向があり、良くない
全く理解できない事象はできるだけ減らしておきたいというモチベーションが強いのだと思う
現象学的還元とかエポケーとかって理論的な操作ではなくて一応実践的に実行可能な観察というか態度っていうことになってる感じなんだろうか、結局わからない
この硬いマットレスでこれからの人生やってける気がしないしさすがに何とかしよう
さっそく無印良品に敷布団を買いに行ったのだけど銀座はわりと空いていた
←やる気を引き出そうと行政に試みられている人
日本のgdpを増やしたい!
なんか僕が何かを決めるときって、本当に何にも考えずに勘ですらなく衝動的に決めちゃうことか、考え込んで結局何も決まらないか、両極端に触れちゃうことが多く、欲望イデア誤謬説との関係で
高校理科のリテラシー大事
プレジデントはスルーっていう定石をなんか刷り込まれたけどプレジデントは存在し続けているから、プレジデントは本当にスルーして良いのだろうかという不安が沸き起こっている
これからの人生暇つぶしながら日本のgdpを上げるには
30代童貞を自分から積極的にネタにして明るく振舞える人突き抜けている…
日本社会はそんなにブラック末期に突入していたのかと思ってしまった。
でも小学生の頃はオカルト的なものにすごく興味を持っていた気がする。
確かに、小学生の頃のそれと、ナンマルクスさんへの関心は、通底しているかもしれない
猥雑な場に現世超越的なものが出来するかもしれないという期待の感覚。
人生があと推定数十年続くの凄まじく面倒
適当に新しい展開を起こさねば…
睡眠時間は依然として短めだけど疲れの取れ方が全然違う!
無印良品系お洒落人間なりたい
小ざっぱりした服着て丁寧な暮らししたい
段ボールの送付が遅れてるわ、伝えられた追跡番号が間違ってるわでイライラしている
なんか、教科書っぽいものを開いて読み始めようと思うたびに虚無感が込み上げてくる病にかかっている…
ままならぬ。
小学生の時いつの間にか塾に通わせられていた時に夜遅くまで授業受けてるの嫌になってやめて、でも退屈になって結局一ヶ月くらいで自分から戻ったということがあったなぁ
あぁ…観劇後一時間半でどよ〜んとした気分に戻ってしまった…
Googleのブログとかないのかな。
とりあえず書いて記録できれば何でも良い気がするんだけど、アカウント新しく作らなくて済むし…
この半年くらいの自分の認知の変化に対処できていない
なんかこう、実在しないものにいっつも振り回されて苦しめられてる感じ何とかなんないだろうか。。。
メタ認知としてはそこまで理解してるはずなのにどうにもできないのは。。。
空間認知の仕方が急激に変化して、世界がすごく狭く感じられるようになって、見通しは良くなったんだけど苦しんでもいる
方向感覚とか全然なくて地下鉄とか迷路のように感じられてたんだけど、なんかこう空間を言語的にではなく物理的に把握すると見通しが良くなるということに気付き、、
なんかこう、身体の周囲の物理的な生活環境世界の把握が凄い苦手というか未発達だったのが、この5~6年間くらいでだいぶ修正されてきたんだけど、まだ平均と比べて歪みがあるのかどうかは自分でも分からないのだが、大きめな変化の波のひとつがこの半年一年で来ていた、という
それ自体は良いことなんだけど、そういうのに代表されるような認知の仕方の急激な変化があり、気持ちが対応できていない
関心の設定の仕方は自分で作っていけばいいんだな、みたいなのも最近実感できてきた
各ジャンルの共同体の規範みたいなのあんまり気にし過ぎなくても、というか
自分の関心とか目的に合わせて必要な部分好きな部分を取り込んでいくっていう意識が大切なんだなって
その濃淡は自分の能力とか目的とかで調節していけばいいんだって
ただやっぱり、「守備範囲外のことになると突然驚くべきほどに音痴な印象論や偏見を言う人」にはなりたくないので、そこは謙虚でいなきゃね…
現実的な事柄に対する関心は結構あるのだろう
論理学まなんだら少しはクリアに世界が見えるのだろうか?と淡い期待
数学は、完全に客観的な純粋な学問だとある時期まで思っていたけど、よくよく考えていくと何が最終的な根拠になっているのか謎だから
高校とか、あとおそらくは大学理工系くらいまでだと「現実との対応」で数学は根拠づけられている、って理解になるけど、どうもそれはおかしいようで、だから数学の基礎づけに関する様々な立場については気になる
なぜただの音の組み合わせに色んな感情が呼び起こされるのか
美学というか感性論に興味があるのかな?
なんかこう、よくもまぁ人間なんかがこうもまぁガラス細工のような社会を作り上げてこれたよなぁとは思うし、なぜそのようなことは可能だったのか、ひいては人間がともに生活するときにどのような動き方が見出されるのか、みたいな興味はあるのかな
僕の語感では、それは倫理を問うということになる
たとえれば、論理学は一種の「高地」トレーニングなので苦しいが、これによって思考の「心肺機能」がアップする。思考が「息切れ」しにくくなる。そして「登坂力」が増す。微細な違いに気付く力や、筋が混み入った話への感受性も高まる。学術書の類や、日本語とは思えない悪文を読むのに、きつい坂道を
やはり教科書を開くと虚無感が襲ってきて頭に入ってこない…
本もノート開いてペン持ちながら読んだほうが良いな。っていうか、そうしないと文字が滑っていく
なんかでもこの際リーグ戦をやりたい気がする、とか思って本棚を見たらもっと捨てたくなってきた。
リーグ戦と思い込んじゃうのも計算可能性への執着の一種なんだろうな
論研と現代論理学とどっちかしか学べないなら、やっぱり論研だなぁ
あと奇妙だったこととして、チェーン店という概念はもちろん持っていたのだけどチェーン店はどこでもチェーン店だということがはっきり認識できず世の中にはあたかも無数の店があるように感じていた、とか
なんかだから途方もなく無秩序に混濁して世の中を認識していたのが一気に整除された感じ
沈む船から逃げる
世の中の多くの絶望と現実を受け止めた上でそれでも「祈る」っていう祈りは好きだな。
ファインマン物理学を読みたい
そう思って図書館で1・2巻を借りてきたは良いものの…
学問って目の前の現実からいったん引き剥がされる経験という側面があると思うんだけど、それを経たのちにどうやって現実に対峙して組み込まれていくのかっていう問題でもあるような気がする
現実問題として、こうやって過ごしている間にも自分の労働市場における価値って徐々に減っていくわけだけども、もし自分が女性だったら、現実として性的価値も減っていくということも同時に重く考えているだろうなぁと思う
男性だって、平均的に見れば概ね年齢とともに性的価値は下がっていくだろうと思うけども、そこまで露骨ではないから…
ディズニーの映画って昔からあんなに社会風刺的だったっけ?
欲望を探す旅の一環としてフォローフォロワー整理をやってみようか…
ていうかトレッドミルとかバイクは、目の前の光景もずっと変わらないわけだから、やっぱり退屈さが増すよな
anytime fitness、24時間営業なのが逆にあだになってるかもしれない
一か月くらい定期券買って新宿スポーツセンターのジョギングコースに通い詰めようかしら
ランニングマシーンより普通に走ったほうが走ってる実感が湧いて精神に良いのではないか…と期待したい
何らかのアウトプットをする前提で、絵を細かく描き込むような気持ちで教科書を読む、と頭に入ってくるのではないだろうか
細かいことはもうどうでも良いよぉって気持ちになっちゃうともう終わりなんだよな
欲望トーナメント、脳内で予測すると、現時点では「運動して痩せる」が勝つ、はずなのだが…
そんな若くして思い詰めなくても良いのにねぇというのと、なんかちょっと憧れるとか美しさも否定できないなぁっていうのと、どっちも年上目線の気持ちだな
JC二人で飛び込み自殺のニュース
憂鬱なとき、夭折した著名人のエピソードを読み漁って慰みにする
ガロアのような人生って素敵だと僕は思う
やっぱり夭折した著名人って憧れてしまう。
樋口一葉の享年も超えてしまっている。
さっきのプリントは、授業中に別にノートにとっておいたやつを、あとで一覧性を高めるために要約してプリントに全部まとめて書き込む、っていう作業によって作ったやつ
青春の墓標は卒論よりもゼミに使った原書とこのやたら真面目に書き込んだレジュメ
「あぁ…あの頃は何かを分かろうと必死に頑張っていたんだなぁ…」という懐かしく切ない気持ちになる
確かにそれで頭は明晰になったと思うんだけど、今となってはあれはなんだったんだろうみたいな気持ちになる
僕の場合「院生ってなんか難しいこと言ってて頭よさそう!すごい!」→「よく考えればあれは実際に訳が分からなかっただけかも…?」という経過をたどっている
参院選の行方より自分の人生の行方の方が気になり過ぎる
なんかこう、もっとザクザクっと物事を考えて処理できるようになりたいのだが〜
和辻哲郎『風土』って根本的に思想というものをバカにしていて良いかもしれない
「砂漠みたいなところに住んでると~みんな大変な生活してるから~イスラム教みたいな思想が生まれるんですよ~」みたいな感じの調子で
最近、人生に意味はないって思うと戒めのように親の顔が思い浮かんでくる
能動的ニヒリズムが本当に必要
生の酷薄さの肯定
昨日の夜のメンタルの悪さは本当にどうなるかと思った
この大地と大空を絶対的に肯定する以外の道がない
あれ頭使ってゴリゴリやる感じじゃないと思うけどなぁ
むかしの憂鬱とは違って、不安感・焦燥感よりかは鬱屈さとか退屈さが強く、ある意味では良い傾向なのかもしれない
うまくエネルギーになってくれれば
宇宙の始まりから今ここにいる自分まで時空間として連続しているという感覚がなんか虚無
永劫回帰
いかにして観厘吽さんは永劫回帰推しになったのか
これ本当にどうなんですかね、虚無の中をなんとか生きてるのだろうか
RT鍵 カテゴリーセオリーってあれなんだって数学は数学でも実践的な数学をやってる人にとってはあんなナンセンスに時間を費やして何やってるんだって感じなんだってときどきあまりに抽象的すぎるから
数学の正しさの根拠は実ははっきりしてないって結構すごくない??
この1年くらいこの事実にたどり着いた衝撃で結構じわじわ心が削れてると思う
人間がゲシュタルト崩壊しながら「なぜ女性(かわいい女性)はかわいいのか?」を考え始めると結構わからなくなってくる
女性に限定しなくていいんだけど、別に普遍的な美を形として表現してるとかいうわけじゃないのに、目があって鼻があって耳があって口があって手があって足があって血が流れていて各種臓器があってっていうすごく特殊な特定の身体を持っている生物をなぜかっこいいとかかわいいとか感じるのか
人間ずっと見てると人間ゲシュタルト崩壊してきてヤバない?って最近感じてて若干精神おかしくなりそうで心配なんだけど人間がゲシュタルト崩壊しちゃうとき皆さんありませんか
時給1000円一日8時間月20日で16万で、年収192万
こういう文面を考えるのは、頭の悪い人からいかにお金をむしり取るか考えるのが楽しい人なら楽しそうだし、良心的な人ならつらそう
やっぱり世の中を精細に見るために必要なのは、基本的な調べ物のリテラシーとか日本語力とかの他には、歴史とか科学とかの、事実レベルでの知識ではないかという思いがある。
もちろん事実と解釈は切り離せないというのは一応わかるのですが、それにしても。
いま積んでる本リストを今夜ブログに上げてみよう
やっぱり読みたい本に基づいて総当たりリーグ戦を一回やっておいて、自分の知識欲の傾向を分析しておきたいな
ところで、映画の亜人第二部は面白かった。
なんかこう突然世界が灰色になって全部砂になって崩れていく、みたいなイメージが思い浮かぶことがたまにある
この暴力衝動みたいなのをうまくコントロール・秩序化できるようになると人生の新ステージが始まる気がする
国体のために命を捧げる以外に人生の意味がない
天皇陛下のために命を捧げる、これが人生の意味ですよ
僕の人生はセキュアになったのか否か
というか、そういうことへの強迫観念が色んな欲望をかき消しているかもね
ていうか僕も遂に所得税払うようになった国民になったのだった
天皇陛下のために命を捧げる、その瞬間のために我々は日々を生きているのです
これから人生が何十年も続くのか…
芦田宏直のツイートをなるほどと思って見ていた時期が私にもありました
なんか、震災にあったとか無人島に流されたくらいの気持ちでいれば、通常時の社会生活内で不自由なく過ごしてる分には大抵安心できるのでは、みたいな
でもオウム真理教の地下鉄サリン事件に現れていた社会的風潮をどう言語化するかというのは、当時の問題意識としては大事だったのかもしれない(虚構の時代の果てをパラっと読んだ
あ〜そうだ、あと思ったのは、面白くないことを無理やり面白く脚色できるくらいの腕力がないと人生数十年無理かもしれない
誰かになんとか面白い話を届けよう!みたいな
別に、理解されなくても良いのかもしれないけど、世界に何らかの働きかけをしたら何らかの応答が返ってくるという期待は最低限生きていく上で必要。
これがないと本当に生きる意義がなくなる
世の中とのコミュニケーションを諦めないのだという覚悟
デネットの『解明される宗教』は「うん…まぁ分かるけどさぁ…うん…」という感じなのだけど、今のメンタルだと大抵の本はそうなるというだけの話なのではないかという気持ちもある
なんかみんなで話を合わせてコミュニケーションとるときに使う尺度が天体の運行リズムを基準にしたものになってるってだけで、根源的に感じてる時間はもっと融通無碍なものなんだろうなって思う
一日前か十年前か、とかよりは、どれだけ鮮明な記憶かで主観的な近さ遠さが決まってる感じ
進化論周りの話はどうやっても怪しさが拭えないし、それを文化に応用しようとかなると、理論としてはともかく、自然科学に寄り添ってるみたいな体裁を装うのはどうなんだろうって感じる
遺伝子はまだ対応する物質が(DNAデオキシリボ核酸)がはっきりとあるわけだけど、ミームって対応するはっきりした形のあるものってあるのだろうか…
一般的に流通してる次元でいうと、たとえば、何でもかんでも「脳」で説明するのは、何でもかんでも「愛」で説明するのと同じくらい雑で無内容で、でも何となく科学っぽいからなんか説明された気になっちゃうみたいなのがあると思うんですよね。後者については冷笑する人が簡単に前者を受け入れたり。
「みんな自己保存を考えて生きている」みたいな言明とか、「愛で世の中は成り立ってる」っていうのと同じくらい何の根拠も内容もない非現実的な言明だと思うんだけど、何となく前者は現実的で科学的だと思い込まれやすいみたいなのあると思うんですよね
なんか、明らかに「就職して以来自分はつらい」って愚痴りたいだけの意図なのに「社会に出て働いて初めて理屈じゃなくわかることが〜」って言われ
そのちょっと前にその人は、裏方で舞台装置動かす役回りだったのに舞台上に自分から出ていって拍手されに行くっていうのやってて、もうこいつは終わりだ…って自分の中で抹消してたタイミングだったので完全にプツッと
あの頃はみんなが何をどう考えて生きてるのかかなり分かっていなかったのだった。
響け!ユーフォニアムを観に行こう
この大地と大空と生を絶対的に肯定する or 国体を超越者として措定する
三島由紀夫はディズニーランドが好きだったというのは、とても腑に落ちる話だと思う
お金というのは、物理的には紙なわけだけど、それどころかここ最近だと電子的にやりとりやりとりされる数字の情報にすらなってるのかもしれないけど、みんなが価値があると一斉に思い込んで、実際に価値があるようなシステム整備をすることで、価値があるということにされているわけじゃないですか
肥大化した組織、自律的に自己目的的に回転し続ける、しかし誰にも止められない、たまぁに上澄みとして傑出したプロダクトを産み出す、そのために自己運動し続ける
『劇場版 響け!ユーフォニアム』は某さんに勧められて観に行ったのだけど、高校の吹奏楽部の青春ものアニメで、良くも悪くもきわめてウェルメイドな青春もアニメ映画は、『傷物語』『亜人』『ハーモニー』とかそっちの暴力が万々描写されている系統の方がより好きかもしれないのでした。
今あえて、2010年のあの頃を思い出したりしてみたい
大学生って、まだ、自分のやってることとか、自分の関わってる世界とか、自分の周囲の人達とかを、絶対的に肯定できる時期じゃないだろうか?
絶対的に何かを肯定する、自分でも気付かないくらいに自然に空気のように何かを絶対的に肯定できてのめり込める、そんなことはもう一生ないだろうなって
何かに対して強烈な幻想を持てる経験とでも言えば良いだろうか
なんか、一通りいろいろなことを考えて体験してしまうと、自分のやってることとかおかれてる世界とかの価値ってどうしても相対化されて認識されざるを得なくなるというか、取り憑かれたように物事をなすっていうのは無理になるというか
「人間なんてみんな猿に過ぎないはずなのに。」「やはり宗教的解決しか残されていないのか。」とか4年前にも言ってたみたいで、色々勉強したはずなのに結局同じところに戻ってたんかいと思って草
いま村上春樹の初期三部作を再読すると心にしみるかもしれない。
キューピーコーワゴールドaデビュー
布団クリーナー買ったので、これでアレルギーの改善が開始できるはずだ
リーグ戦を開催すると読まなくて良いものが析出されてくる
秋葉原、完全に飽きた
積み本リーグ戦やりつつ、そもそもこの本読む必要なくね、とか、そもそも何のために本を読もうと思ってるのか、とか、そういう根本的な話に悩み始めたり
これ何の生産性もないストレスが生じてるんだよな。
生活において、強迫的にに気にしすぎている物事と、わりとスルーしちゃう物事とがあって、その分け方はかなり無自覚的になされている
「リア充爆発しろ!」って本当にローカルな観念に振り回されている感じがして学生っぽくて凄く良いなぁって懐かしんでしまう
教科書類は基本的に除外したんだけど、古典とかは教科書類の方に分類すべきかもしれない
亜人第二部もう一回見たい気持ちがある
何となく読まなきゃと思ってるだけのやつと本当に読みたいやつと分けるべき
数学に対する純粋な興味ってあんまりない気がする
「数学っていうあれはいったい何なのか」っていう気持ちと「とりあえず数学のリテラシーを高めれば世の中の解像度が上がりそう」という気持ち
あとツイログを読み返したい
人生のピーク、まだ来ていない。
まだ伸びていないところがある。
髪を伸ばして痩せて昔の感じに戻りたい
直感的には「新しい中世」って捉え方はしっくり来る
「わたしたちの仕事で大事なものは、名誉とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ―だわ。」
仕事で大事なものは、名誉とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わかって、得心が行って、おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信たい
昔はすごく道徳的なお説教臭いセリフに感じたんだけど、そういうんじゃなくて、本当にシニカルなくらいにリアリスティックな発想なんだ
今日14時くらいに起きたのに、今日も一日長かったわ~って気分になっていて、やっぱり一日24時間は長すぎるんではないか
はやく家に帰ってtwilog読み返し自傷を再開せねば
3年前の自分あったまわるいな~って思う
あのころの自分は若かった…若かったよ…
自立支援医療制度
僕は諦めていません!
美味しいご飯を食べたいし良い服を着たいし快適な場所に住みたい
今はさまざまな生活上のストレスや感情に対してプラクティカルに対処することはできるけど、なぜ心というものが存在するのかというのはやっぱり不思議だよねぇ
ここにここ1年くらいで付け加わってきたもうひとつの大きな疑問が、数学とはいったい何なのか、ということになるな
今年健康診断どうしようかなぁと思ったら区で毎月二回やってるっぽいからそれに行ってみよう
これくらいの時間帯に家以外に近場でふらっと行けて落ち着ける場所がほしいんだな〜
結構面白いこと考えてたんだな、っていうか、今見たらそんなん当たり前じゃんって思うだけなんだけど、当時の自分にとってはそういうことに思い至ったのは新鮮な発見だったんだろう
「薄ぼけた自分」を抱えたまま生きろ!と書かれていた。なんかダラダラ色々書いてあるけどここが要点かなという気がした。
アフリカの子供たちに虚無主義を伝えたい
仕事の時間を出来るだけ減らすということではなくて、ライフの中にワークをいかにバランスよく位置付けるかということなのかな、って思いつつある
なんか原因不明のほのかなじわりとした幸福感が…
今日も一日が長かったなぁという気持ち
公務員になんてなるな!ナンパしろ! — 一理ある
ひとはとりあえず生きていくことを強いられているということと、ひとは最後には死ぬということが、倫理的にもっとも根本的に大事なことであるように思える
時代も国も違うテキストを読むときに、どういう基準でこの理屈は筋が通ってるとか通ってないとかいう判断を下せばいいのか、結局納得できないまま
そのさじ加減を学ぶことが、ある意味では全てなのかもしれないし…
うんまい
行動主義、ゲシュタルト心理学、確率論的機能主義
一元論
二元論
 相互作用説
 随伴現象説
 心理物理並行論
 予定調和
 偶因論
 並行論
 「なんかよく分からないけど、この本には、きっとすごいことが書かれているに違いない…!」と言ったような感じの漠然とした過大な期待がありましたね
そう、「憧れ」を失ってしまったということだと思う。
14億あったら僕は何をやるべきか一生迷って過ごしていそう。
14億あったらさすがに満を持して大学院に行くかな?
その前に、14億をどうやって管理運用するか悩むかな
能動的虚無を生きる
注射針の痛さは良いんだけど血液を体から抜き取られるというのが怖い
2年前は、専門書と一般書の線引きとか、論文とそうでないものの線引きとか、専門家とそうでない人の線引きとか、そういうのの感覚がピンと来なくて悩んでいたみたいだが、結局そういうのは程度問題だということ(そして、基本的にはアカデミックコミュニティの成熟度の問題だということ)がわかった
なんか注意力の適切な配分がすっごい苦手なんだよなぁ
どこにどれくらい注意すべきかというのにもっと自覚的になる必要がある。
でも注意力の配分がうまくなれば生活全般にわたって色々と改善するはず。
アドリブ的な注意力配分も長期的なエネルギー配分も苦手
2年前、真理以外何も要らないとか言ってたけど、それを考えると、これでも今の僕はだいぶ世俗的な方向へ舵を切ってきた模様
気持ちの切り替えが苦手っていうのもこの問題の系列だな
「これをやるときはここに注意する」みたいなメタ認知が全くと言って良いほどないんだよな
これは後回しにするとか、これは先にやるっていう判断が、あんまりクリアカットに出来てないというのもある
2014年7月の自分、教養と哲学の関係とか哲学と文献学の関係とかについて拙く語っていて、読み返すのかなりつらい
物理的なパラメータの調整で気持ちがかなり変わっちゃうという現実は、ある種の「精神論」が好きな人にとっては、あまり気分の良い事実ではなく、僕もその気持ちは分からなくない
なんかランダムにいろんな嫌なエピソードが思い浮かんでくる
世界には意味も目的もない、あなたと私は別の人間、すべては幻想で成り立っている、それでもあなたと私は今こうしてそばにいる
「人は何かひとつ誇れるものを持っている。何でもいい、それを見つけなさい。勉強が駄目なら運動がある。両方駄目なら君には優しさがある。夢をもて目的をもて。やれば出来る。」こんな言葉に騙されるな。何もなくていい。人は生まれて生きて死ぬ。これだけで大したもんだ!騙されるな!
ただまぁ、やはり僕の考えるところでは、いわゆる神のような超越者はおらず、ただただこの世界がいまこのようにあり、人は生まれて生きて死んでいくという、ただそれだけのことが確かであり、すごいのであり、それを肯定しなければならないのだ
「人生に意味を与えるただ一つの中心なんてないんだ」「視野を広げたり狭めたりすれば楽しいことはたくさん転がっているんだ」
もっと最適化された頭の働かせ方があるはずなんだよな。
どの部分にどれだけの注意を働かせるかっていうのをもっと意識的にコントロールできるようになれば生活全体の生産性が上がるはず…!
生産性っていうとあれだけど、よりストレス少なく快適に暮らせるようになるはずという感じで
例えばの話、心配になって何十回も手洗っちゃうみたいな強迫観念が生活の質を下げることはわかりやすいけど、もっと微妙なレベルでの様々な注意のしすぎとか注意のしなさ過ぎとかが全体として生活の質や生産性を下げているということがたぶん起こっている
そうそう、昔は、社会の嫌な話はすべて「社会っていうのはそういう嫌な場所なんだ」と一般化されて受け止めてしまって、人生は学生時代で終わるものであとは苦しみが続くのだくらいに無意識に思っていたと思う
僕もこの世界をクリアにしたいって欲望だね
世界をクリアに見られるようになりたいという気持ちは強かったはずだけど、最近はそういう気持ちがあるのかどうかあまり自信がない
twilog振り返りを「人生のたな卸し」と言い換えてくれたのはとても自分で納得した
RT鍵 てか、国家公務員になってハロワで働いてる知人が普通に残業120h/月とか言ってて草
RT鍵 そいつ当時の国2受かってハロワに決まったんだけど、自分らは120hの残業しつつニートに企業概要でやれ残業時間がだの賞与がだの言われながら働かないといけないの辛すぎとか言ってて普通に同情
ダニ・ハウスダストのアレルギー以外はないみたい。スギも消えている。
中性脂肪も肝臓も特に問題なし…マジすか…
というか中性脂肪の値は3年前と比べて下がってる。
この時間帯にふらっと行けて時間潰せる良いお店が近くにあるといいんだけどな〜
惨憺たる血液検査結果を見て食習慣を変える予定だったのに問題なかったのが逆につらい、長期的にあとで響いてくるんだろうけど…
運動・音楽、あたりはわりと確実にせんさんが就職直後「絶望の朝」と毎朝つぶやいていた頃
キューピーコーワゴールド効かず
物質的に豊かになり、精神的な満足を志向するに至るも、その精神すら物質的な基盤によっていることが実感され、救済がなくなった時代
そこで天皇陛下ですよ
この社会で生きてきた僕としては嫌ですけど、何らかの絶対的価値を信じながら生を終えられるというのは(そうだったとすればですが)ある意味では幸福であるように思えるし、少なくとも現代日本人としての価値観のみで否定されるべきものじゃないよなぁ、とは思います
インセンティブ()が支給された〜リフレッシュになるね
『時をかける少女』は、もしかしたら自分たちはこの生とか自分の意志を遥かに超えた壮大なものに包まれてるんじゃないかって気分に少しだけなれる
ささやかな情景が描写されているわけだけども、イデア化されたささやかさというのは良い
3〜4年ほど前、哲学科の人たちはみんな超頭が良いと思い込んでいた頃は、石畑隆っていうアカウントのツイートが流れてくるたびに「おお…なんかすごい勉強してそうな人がいる…!」と思っていた記憶がある笑
哲学科の人達はみんなカントとかヘーゲルとか現代思想とかの難しそうな本をスラスラと読みこなして議論してるんだろうな〜みたいなイメージだったので
すげぇ認知の歪みだったなぁ。
いや、でも一応僕はいま逮捕されて報道されても「無職」とはならなかった、良かった
なんかこう一周回って「みんな頑張ってるんだからお前も頑張れ!」的な素朴な自己啓発や通俗道徳が僕には必要なのかもしれない
あ〜こんなポンコツ企業の社員さん達でも一応は働いて現実と戦っているというのに僕は〜

2016年6月
人間には歪みが必要なこともあるのかもしれない。というか、事実としては誤っていることを信じているからこそ出来ること、有用な歪みというものがあるのかもしれない。
社会的地位が欲しいという気持ちが否定しがたく自分の中にある
ていうかなんでも良いから社会と折り合いをつけられるような欲望を育まねばという
誰のためにとか何のためにとか、心情倫理的に良いか悪いかとか関係なく、結果的に社会に組み込まれて能力が活かされればそれでよい
あらゆる可能性を見比べて最善のものを選ぶみたいな発想は無理なので捨てるべき
ブレブレブレブレブレまくって震えてるのわかんないようにしてやれ〜
あと、何でもかんでも知ればいいとか考えればいいとかいうものでもなく、個々人にとってはむしろ知らない方がいいこと、考えない方がいいことというのがたくさんあるのだな…
自分はただ一人の人間でしかなくて結局は特定の視点と態度しか取れないんだってことを受け入れるべきだ
何人かの人々からの影響(憧れとか反発とかコンプレックスとか誤った理解とか)で、そういうことが分からなくなっていた、というか今も実感レベルでは受け入れられずにいる
紀伊国屋書店新宿南店の中のタリーズにいる
7月下旬までなのね。初めて行ったのは、高校一年生の時だっただろうか。こうやって、これからも思い出の場所がひとつひとつ消えていくのだろうねぇ。