2016年8月15日月曜日

レヴィナス『全体性と無限』に以下のような一節がある(らしい)。
 個別的な〈もの〉は、ある面では工業都市に似ている。工業都市にあっては、いっさいが生産という目的のために適合させられている一方で、工業都市は煙にみち、屑と悲しみとにあふれて孤立しているのだ。〈もの〉にとっての裸形とは、その〈もの〉の存在が目的にたいして有する余剰のことなのである。

2016年8月14日日曜日

『風の歌を聴け』の一節

以下、引用。
 二人目の相手は地下鉄の新宿駅であったヒッピーの女の子だった。彼女は16歳で一文無しで寝る場所もなく、おまけに乳房さえほとんどなかったが、頭の良さそうな綺麗な目をしていた。それは新宿で最も激しいデモが吹き荒れた夜で、電車もバスも何もかもが完全に止まっていた。
「そんな所でウロウロしてるとパクられるぜ。」と僕は彼女に言った。彼女は閉鎖された改札の中にうずくまって、ゴミ箱から拾ってきたスポーツ新聞を読んでいた。
「でも警察(おまわり)は食べさせてくれるわ。」
「ひどい目にあわされるぞ。」
「慣れてるもの。」
 僕は煙草に火を点け、彼女にも一本をやった。催涙ガスのおかげで目がチクチクと痛んだ。
「食ってないのか?」
「朝からね。」
「ねえ、何か食べさせてやるよ。とにかく外に出よう。」
「何故食べさせてくれるの?」
「さあね。」何故だかは僕にもわからなかったが、僕は彼女を改札からひきずり出し、人通りの途絶えた道を目白まで歩いた。
 そのひどく無口な少女は一週間ばかり僕のアパートに滞在した。彼女は毎日昼過ぎに目覚め、食事をして煙草を吸い、ぼんやりと本を読み、テレビを眺め、時折僕と気のなさそうなセックスをした。彼女の唯一の持ち物は白いキャンバス地のバッグで、その中にはぶ厚いウインド・ブレーカーと2枚のTシャツ、ブルー・ジーンが1本、汚れた3枚の下着とタンポンが1箱入っているだけだった。
「何処から来たの?」
 ある時、僕はそう訊ねてみた。
「あなたの知らない場所よ。」
 彼女はそう答え、それ以上は口をきかなかった。
 僕がある日スーパー・マーケットから食料品の袋をかかえて戻ってみると、彼女の姿は消えていた。彼女の白いバッグも消えていた。それ以外に消えたものも幾つかあった。机の上にばらまいておいた僅かばかりの小銭と、カートン・ボックス入りの煙草、それに洗い縦の僕のTシャツである。机の上には書き置きらしいノートの切れ端があり、そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。恐らく僕のことなのだろう。(村上春樹『風の歌を聴け』19節より)

  「そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。恐らく僕のことなのだろう。」というのが、非常につらい気分にさせる一節。 確かにこれは「嫌な奴」だ。『風の歌を聴け』は、29歳の「僕」が、8年前のことを振り返るという構造で書かれていて、さらにその8年前の21歳の「僕」が、「これまでに寝た三人の女の子」を振り返る部分があり、その二人目が上記の引用部分ということになる。一人目の女の子が17歳のときで、三人目の女の子は大学で出会ったと文中に明記されているが、この「二人目の相手」については、相手が16歳だったと書かれてあるだけで、「僕」のその頃の年齢は明記されていない。状況からすれば、19~20歳の大学1~2年生の頃と判断するのが妥当だろう。
 その自分を振り返る21歳の「僕」を、さらに29歳の「僕」が振り返り、文として書き留めているということになる。「そこにはたった一言、「嫌な奴」と記されていた。恐らく僕のことなのだろう。」という一文にも、それだけの時間の幅が刻印されているように思う。それが余計につらく感じさせる。