2016年5月26日木曜日

twilogから抜粋(2012年12月~2015年6月)

この記事は数日で非公開にします。
とりあえず、2012年12月から2015年6月まで。


2012年12月
人間なんてみんな猿に過ぎないはずなのに。
結局昔から問題意識は変わらない気がする
「こうして小さな王子さまは、愛する気持ちがおおいにあったにもかかわらず、じきに花のことを信じることができなくなった。」
消費資本主義社会なんて虚業の塊だ、ゲームだ、まだ人生ゲームの方が人生に近い
何かを勉強することで分かる事が何かって言ったら、基本的に分析力が上がるってだけで、つまりは「分解能」が上がるってだけで、結局のところ本当のことなんて何も分かりようがないよね。って思うと本当に勉強とかやる気なくすんだけどどうしたら良いんだろう。
結局人間なんて、生まれて、ご飯食べて、眠って、排泄して、繁殖して、色々やって、そんな人生に適当に訳分かんない意味付けをして死んでいくだけの虚しい存在なんだと考えると、文系の学問の存在意義がよく分かんなくなってくる。結局、インクの染み付いた紙の束を増やすだけの存在なのか。
大学に入ってから、朝も弱くなったし寒さにも弱くなったし、我慢強さがことごとくなくなっているなと、今更気付く。二度寝というパンドラの箱を開けてしまったがために…。
インクの染み付いた紙の束から世の中が分かると本気で思い込んでるわけ?お猿さんが歩き始めちゃったばっかりに
「気まぐれなことばを真に受けては、とてもみじめな気持ちに落ち込んでいた。」
『夜と霧』の著者として有名な精神科医フランクルによれば、人生には体験価値/創造価値/態度価値という三つの意味があるらしい。
体験価値/創造価値は名前から内容を想像しやすいのだが、ここで面白いのは態度価値。いわく、どんな状況においても、それに対してどんな態度を取るかは人間に自由が残されていて、そこで取る態度によって実現される価値が「態度価値」だと
(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
(*´・∀・)(・∀・`*)ヘー
(*´・д・)(・д・`*)エー
ブルーハーツ好きな人たちでひたすらブルーハーツを歌いまくるカラオケをいつかやりたい。
雲にのりたい/雲にのって遠くのしらない街にゆきたい/名も知らぬどこか遠くの小さな街に。/雲にのろう/雲にのって ゆれ動く青空をながめよう/そこには小鳥のさえずりも深緑の木々のさめきもないけれど/はてしない空虚な広がりがある。/雲にのろう/雲にのって ゆれ動く青空を ながめよう。
自分の将来も日本の将来も不安だ………
テレビによって、人間はみんな人間なのだということが明らかになり、インターネットによって、人間はみんなバカなのだということ更に明らかになり、もうどうしようもなくなってしまった現代
事実としてあるのは、日本列島の関東平野においていま季節循環として冬で、寒い日の薄暗い夕方である、ってだけなんだけど、人間社会の共同幻想として暦があり、キリスト教があり、アメリカ的消費社会があり、その結果クリスマスがありそして今日は12/16であり、ルノアールではクリスマスソング…
ある意味では、過剰なほどに意味に囲まれまくって生きているはずなのに、おそらくは誰でもふとした瞬間に人生の空虚さを感じ、人生の意味を考えてしまう、現代の都市社会の不思議さ。
死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きるものは永遠に生きるのである。視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない。
何かこう哲学というのも根本的に言葉の辻褄合わせという気がしてならない。面白いし有用だとは思うけど面白くて有用なだけというか、面白くて有用なだけのものなら世の中に代替物がいくらでもあるのでは、というか、
夭逝した詩人って、人間の純粋さを極限まで突き詰めた存在のように思えて、憧れに近い何かを感じるね。
中学の授業で、どうやら世界は原子というものを単位に出来ているらしいということを初めて知ったときに、世界観が一気に組み換わった記憶が。世の中ってそんなシンプルな原理で理解できるのかと。
<本当に>自分がしたいことは何か、みたいな純粋主義も突き詰め過ぎると無意味になってしまうのは確かなんだけど、、、
一回頭が働かなくなるとひたすら悪循環し続けるから困る。。
あの頃はよかった(´ω`)あの頃はよかった( -ω- )あの頃はよかった(´・_・`)あの頃はよかった( っω⊂ )あの頃はよかった(´;ω;`)あの頃はよかっ………
ハムスターになりたい( ´ ω ` )
僕らがこの時代にこの社会で安穏と過ごしていることの裏に、どれだけの血と涙があるか
17歳でピストル自殺した詩人と、カントの根本悪について

2013年1月
怒り心頭の3人、凄い挫折を乗り越えてるから尊敬する
仕事がないまま30歳を迎えたときの絶望感って凄かったらしい


2013年2月
多分きみみたいのは自分一人でがんばんないと浮かばれないよ
何だかんだで僕は、人からどう思われるかを過剰に気にして自分の感情を捻じ曲げてるんだなと、まとめてしまうと陳腐だけど、そんな。
もし就活で人生の勝ち負けが綺麗さっぱり別れるならば、確かに残酷だけども、一方でどれだけ楽なことか。残念ながら人生は絶望的にめちゃめちゃ長い
「約束したじゃないか。あの最後の屋上で、僕達三人、もし、ここから飛び降りたくなるようなことがあったら、その時は、何をしていても駆けつけようって。どんな大人になっていても、それだけは約束しようって。」
「うおおおおお」って叫びながら走り回れる場所とかあればみんなストレス発散できて健康になると思うんだけどなー

2013年3月

暗い曲だけをひたすらみんな暗い雰囲気で歌い続けるカラオケみたいなのやりたい。
GARNET CROWが解散だと!?
世界に近づこうとすればするほど、世界は遠ざかり、どんどん独りになっていって、気が付けば真っ暗な洞窟の中で、微かな光を頼りたどり着いた先にあるのは、たった一本じわっと光を放つろうそくの炎で、そこには誰もいなくて、それは確かに寂しいのだけど、でも、これで何も恐れる必要はない、みたいな


2013年4月→男であること、恋愛、容姿、制作の意義、

年金ずっと払ってなくて免除手続きもすっぽかしてたら最終通告と強制執行の予告みたいなのが2か月前くらいに来てたのにここ最近気付いたんだけどいまだに何も対応してない。嘘ではない。
23歳で死んだ天才作曲家っていうのは、幸せなのかね
古典を丹念に読むと自己の存在が揺さぶられるらしい……
生物としてはまさに生きのびることそのものが目的のはずなのに、欲求はその目的をうまく成功させるための潤滑油に過ぎなかったはずなのに、いつから「何のために生きるのか?」みたいな倒錯が起こったのか?欲求を基盤に生があるのではなく、生を基盤に(広義の)欲望があると決めたのは誰なのか?
人間は幸せになる(=“広い意味での「欲望」を満たす”)ために生きているなんて、一体だれが決めつけたのか?幸せになりたいと思うことは自然なのか?義務なのか?みんな、「幸せになりたい」って自発的に思っているつもりで、本当は思い込まされてるだけで、それに一番苦しめられてるんじゃないか?
大器晩成ですよ。
マツコ有吉の「東京=戦う場所」論
けんつさんのコンテンツ力たかっ。。
人間の欲望の不定形さ
22歳にもなって「友達って何?」というベタな疑問に改めて直面している。
RadishのPCメーリス、14年間の歴史があるのですか。。
月に80通とか回ってた時期もあるんだね。きっと、携帯メーリスが一般化してなかったんだろうな。
本格的な硬質な本を読む間に挟む軽い本とか漫画を「チェイサー」と表現していた人がいたけど、この発想は便利ね
「一年生になったら友達100人出来るかな」の罪深さ
せめてHeideggerを理解してから死にたい
今日も世界は何の理由も必然性もなく回っていく
丸善本店の洋書コーナーなんか行くと圧倒されて足が震えてしまう………
人間は本来的に孤独な存在だ、というのは現代の都市社会のイデオロギーのような気もするけど
あまりにのど痛いので明日耳鼻咽喉科行きましょう
確かに、教養学部当局のやってることはよく分からなくはあるし、結論だけ言えば反対なんだけど、みんなで一斉に叩くのも気持ち悪さを感じるというか。こういうのを契機に、自分達の学生としてのあり方を問い返した上で、その上でも学部当局の姿勢には反対する、みたいな態度が大事ではないですかね。
鼻呼吸ができる&喉の痛みが和らぐようになったら眠るのが気持ちよすぎてずっと寝てる
存在は言葉で覆われているけど、その言葉の覆いを言葉それ自身で剥ぎ取ってみせるのが詩であると思う、みたいな適当なことが言いたくなってみた
「僕は二十歳だった。それが人生で一番美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。」(ポール・二ザン)
一人の大学教授の背後に何人の自殺者がいるか

2013年5月→小説を書いて一発当てたいとか言ってる
Amazonで注文した本を徒歩一分のコンビニで自由な時間に受け取れるの便利すぎる
なないちごbotとか作っちゃってるし、なないちごさんの自過剰っぷりマジで面白い
地球が丸いことも知らなかった、時計もなかった、電車もなかった、電気もなかった、そんな時代の良かった人達の考えたことを実感を伴って理解するってかなり無理
物質って言われると原始の離散集合って心のどこかで考えちゃってるから、生成-消滅ってどういうイメージだったのか分からないし、世界の始まりとか全ての原因とか言われると「ビッグバンじゃん!?」とか思っちゃうのです。寄り添って理解するって困難。どうすればいいの。
人がものを表現するときって、頭にあるものをそのまま写し取ってるわけではない訳じゃないですか。表現という行為を通じて、表現しつつあるものの確認と修正を通してだんだん精緻化させてく訳じゃないですか。
台風を低気圧で説明して、地震をプレートテクトニクスで説明するような自然科学という態度を教え込まれて、現に科学技術の所産に囲まれて安寧に暮らし、遂にはそれに飽きて嫌悪すらしている僕らは、いくら言葉を積み重ねたら、昔の人々が天災や飢饉に直面したときの切実にたどり着けるのか、って
地球が丸いことも知らなかった人たちが「世界」をどういう風に想像して、天災などの不幸に直面したときにどんな驚きと切実さと畏怖をもって超越的な存在に思いを馳せたのかなんて、まさに文字通りの身も心も科学文明にどっぷりと使っている僕らには、理解はできても、実感を伴った共感を出来るのかなと
むかしの(たとえば日本の)人々が、神に祈れば自然の驚異は収まると考えていたとして、現代人から見ればある種それは滑稽には見えるけど、実は現代人だって同じかもしれない。
上原あずみってこんな歌下手だったの。。。
魚くらいの神経の発達度ならばそんなこと思ってないかも知れないけど、家畜の牛とか豚くらいの神経発達レベルなら、屠殺されるとき「えっ俺殺されちゃうの、何これやめて、俺の人生(というか牛生とか豚生)なんだったの、ちょ、ま、やめてよ、ああ、うぎゃあああ」くらい漠然と思ってるはずで、
僕、基本的にいっつも鼻詰まってて、これ体質なのかな~とか何となく思ってて放っておいたのですが、最近重い腰を上げて耳鼻科に言って薬もらいつつ治しています。
一回鼻づまりが慢性化しちゃうと、菌とかの関係でそれが常態化しちゃうらしく、一回投薬で鼻治すようにすれば治る場合もあるとか。
鼻というのはつまっているものだと思って生きてきた節があるので、鼻通るようになるとこんなにも世界が変わるのか~と思いました。料理ってこんなに匂いが良いのか~、とか。
こんなに豊かな匂いの世界にみんな住んでいたのだなと思って、今まで損していたような、でも得したような。それに、つくづく人間は、いつも知らず知らずのうちに身体に制約されながら生きているのだなと思いました。
目が見えない人が見えるようになるほどの感動ではないだろうけど、色盲の人が彩りのある世界を見るときくらいの感動ではあるんじゃないだろうか。(どっちも非現実的な話だけど)
でも、なぜ人間は、少なくともある一定の割合の人々が、超越的な存在を信じたりするようになってるんだろう。
超越的な存在がいないとしたら、神の存在を信じちゃったりする人はいるのは!、脳の構造として、単に無駄な機能?バグ?
「つながり」はいつかもつれて「からまって」いくけれど、混乱に似た関係のなかで見上げた空は今日も澄んでるね
人生にラーメンより大切なものが欲しい
ここ半年の暴飲暴食でたぶん15キロ弱太った。
月日を経て思うのは、やっぱり第二外国語はドイツ語かフランス語にしておくのが無難
酔って記憶なくしたっぽいんだけど、一回もつぶやいてないってのが信じられぬ
周囲の形跡から分かる情報として、1:50にネカフェに入店してた、お金は減ってるから払ったっぽい、パスモにお金を入れようとしたっぽい、鞄の中はわりと整理されている、ツイッターにつぶやいてない、たぶん吐いていない(と信じたい)、
「独文解釈の秘訣」なる1978年初版の「大学入試参考書」を発見。昔って凄い時代だったんだな
60kg代切ったか切らないかくらい
同年代の人達が働いてあくせくしてるのを見るとまったり学生やってる自分に優越感感じてくるって感覚わかってくれる人いないかな
文化資本をためているような人見るとコンプレックス感じるが、バリバリ働いてるような感じの人見ても何もうらやましさを感じぬ
最近勉強してて思うのは、この地球上には過去にさまざまな人が生きてきて、さまざまなことを感じ、考え、そして最後には死んでいったのだということ。そしてその痕跡が、今僕たちが生きているこの文明生活を形作っているということ。
「眠さ」っていう一つの感覚があるわけじゃなくて、身体に並行的に生じる種々の感覚があって、それは眠れば解消されるんだっていう経験的知識があって、はじめて「今、自分は眠い」って分かるわけじゃないですか。
瀧廉太郎は23歳で死んだ。

2013年6月
今の自分をみるに、自分がたとえ一瞬でも医学部に行こうと思っていた時期があることが信じられない
母校(麻布中学・高校)に対しては、かなりアンビヴァレントな気持ちがあるように思う。もっと分かりやすく露骨に言えば、ある種の嫌悪感がある。この「嫌悪感」、うまく言語化できないのよね。何に嫌悪を感じていたのか。
(チキンなので絶対言えませんが正直このjさんはブチ殺したくなるタイプですよね…)
あっ本当は苦手って言いたかっただけなのだけど、そうやって訂正すると逆に生々しくなって更に傷つけ、しかも私は暗に反発され
@peroperosaretai傷つけてすみませんでした。別にどうでも良いと思われるだけかな(読まれないかな)と思って強く言い過ぎてしまいました。RTが回ってくるとこの人少し苦手だなと思うのは本当ですが、別に嫌いというほどではないです。申し訳ありません。気を付けます。
@peroperosaretai はい、了解です。ブロックします。申し訳ありません。
11~12世紀の中国では原始的な産業革命に近いものが技術的には起こっていたのだけど、おそらくは商人を蔑む儒教思想のために商業が大規模化しなかった結果として資本主義的な発展には繋がらなかったという指摘(マークニール『世界史』上巻p.392)は面白い。
「釈迦、キリスト、孔子、ソクラテスを四聖と呼び、それぞれ一つの大きな思想の源流となりながら自身は書物を残さなかった」という話で思い出したのが、某先生の退官記念公演の表題「キリスト、孔子、そして…」というやつで先生曰く、「…には自分の名前を入れたかったがさすがにやめといた」
『星の金貨』と『愛していると言ってくれ』は見てみたいドラマ
最終的に「なんで世界が存在してるんですか!?これ不具合でしょう。修正してください」「すみません、仕様なので」みたいになるのかな
理三受かったよ。入試前日深夜まで友達とskypeしてたのに受かったらしいよ。演劇サークルに入ったよ。サークルではとても可愛がられて主宰もやったよ。一浪一留して結局文学部に進学して、5年後の今は楽しくやってるそうだよ。 #5年前の自分に言っても信じて貰えないこと
オフィーリアとかレンブラントとかノヴァーリスとか出てくるからすごい
『ドラえもん のび太の魔界大冒険』で「最新のコンピュータグラフィック映像!」って宣伝してた1990年代のアニメDVDを見たあとに劇場版まどマギを見たときの
大人はみんな何でも知っていて、ファミレスは美味しいものが食べられるところで、24時過ぎて起きてるのは非日常で、幽霊がいるかどうか結構真剣に疑問に思ってた子ども時代に戻りたいと思うことありません?
交通やらメディアやら科学技術やらが発達してなかったら、世の中には神様みたいに知恵のある聖人がいるって本気で信じられた時代もあったと思うの
鴻上尚史『孤独と不安のレッスン』『コミュニケイションのレッスン』『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』は大学1~2年くらいのうちに読んどくと良いと思う。どれもサラッと読めて分かりやすいと感じるわりに、折に触れて読み返すと深い。

2013年7月→制作
心があることの必要性がまったく理解できない
学歴と幸福度の相関関係はかなり低いと思うな。
学生相談所に「よくわかる卒業論文の書き方」「失敗しないはじめての学会発表」みたいな本がズラッと置かれてるので、そういうので悩んで来る学生も多いのだろうな~と思う
2限が余命宣告系のドラマについて、3限が日本人の死生観・霊魂観について、4限が古代日本における倫理思想について、5限が植物状態の看護をめぐる死生学ということで、一日ずっと死の影がついてまわるラインナップとなっております。
信じがたい話かもしれないけれど、僕は高校卒業頃まで、例えば、「咳が出ていて鼻水が出ること」によって「自分が風邪であること」に気付くということがなくて、「風邪じゃない?」って周りに言われても特に何もしようとも思わなかった。身の回りの世界に対する根本的な無力感があったのだろう。
これは一つの例であって、要は、身体感覚とか感情を徹底的に無視していて(というか感じることができなくて)、生活にさまざまな問題が起こっていた。なぜそうなったかと言えば、とりあえずの答えとして、周りの全てがあまりにも嫌で、感覚をシャットアウトすることでしか生きられなかったのだろう。
多分どんなサークルも受け継いでいくのっていっつも綱渡りで、薄氷を踏むようなバランスで個人の自由と全体の事情が綱を引き合ってぎりぎりのラインで成り立っているって緊張感、それを受け継いでいくのは一人一人の使命なんだって責任感、今の二年生にあまり伝わらないまま来ちゃったかな。。

2013年8月
死生のケア(看護)の現象学のレポートなう、なのです
ひたすらミスチルの『雨のち晴れ』を聴いていたいような時期もあるよな~

2013年9月
北海道すごかったな。
しかもあんまり自己把握力とか自己統制力が諸々の理由で非常に乏しかったので、「どれくらいのコンディションでどれくらい飲むとどういう状態になるからこれくらいのペースで飲もう」みたいな発想が働かなかったのですが、
自分の中の時間感覚として、中高時代は灰色の遠ざけたい時代になってしまっていて、逆に大学以降時間が進んだ感覚が希薄というか、こうしている間にも刻々と時間は進んでいて、周りの人もその関係性も社会も自分も日々否応無くめまぐるしく変化していくものなんだという状況に対応できてないというか
動的な生成のイメージとして人生を描きたいというか、つねに代謝が必要というかなんというか。人性はどこかに目的地があって、そこにたどり着いたらすべてが楽になるみたいな暗黙のイメージがどこかにあった気がするのだけど、そうじゃなく移ろいゆく中でひたすら動いて生きてくもんなのかなみたいな
色んなエピソードからだんだんはっきりと分かってきたのだけど、「楽」して成果を得たいと思って焦る(?)傾向が自分の中に根強くあることは事実で、この傾向はそれこそ「楽」には(簡単には)変わらないので、それを強く自覚することから始めなければね…。
中高の頃は周りも自分もすごく嫌いでびくびくふらふら生きてたので、そういう思考回路もぎりぎり「生き延びる」ために自分が自然に選び取ってきたものなんだろうけど、いまはそこそこ自己把握に基づいた等身大の自信も作れるはずだし、当面の生活に強い不満はないし、もう少しメンテナンスができるかも
中高時代は、自分の考えている事とか感じてる事を表現することが自分の浅はかさを暴露してしまうことのように思えて恥ずかしくてすごく嫌いで、いつしか自分の中でも考えること、感じることが出来なくなっていて、他人と話すことが(仲の良い友達と話すことすら)うまく出来なかった。
外的に見れば、昔は普通に優等生のように思われてて、今若干人生が拗れかけてるように見えると思うのだけど、内的に見れば全く逆で、むしろ人生は明らかに好転してきている。人と会って話すことが苦じゃなくて楽しい、自分でものを考える感じられる、そういう基礎的な生活能力は取り戻せたのだから。
そういう基礎的な生活能力が戻ってきて、最近になって初めて勉強の楽しさが分かってきたようにも思う。
なんか、十代の頃本屋とかで、「これだけ多くの本があって、本当のことが書かれてるのはどれなんだろう」みたいな、今思えば訳わからない少々的外れな考えが頭を離れなくて、何をしていいのか分からず絶望して立ち尽くしてたことがしばしばあった。本当に無意味な時間だった。
あの頃の拗れ方は半端なかった。綾波レイといってもいいくらい喋らないヤツだったし、何しゃべったらいいか、何したらいいか、自分が何を感じてるのか、何もピンと来なかった。ただ壊れた機械のようにフラフラと生きていて、これまずいなぁと薄々思いつつも、どうすればいいのかは全然分からなかった。
でも事務的な話とかは出来るし、まあ社会生活は営めてるから、みんな「こいつはまぁよくわかんないけど何か考えてるんだろうな」くらいに思われてたのだろうと思うし、そう思われてる自覚があったから余計どうしようもなくてがんじがらめになってたな。
アスペルガーとか何とか障害のひとつじゃないかなと内心悩んだこともあったけど、恥ずかしくてそんなの誰にも言えなかったし、とにかく全てから逃げて、最低限の居場所だけ確保して表面だけ取り繕って生きてたね、高校時代までは。
外から見れば「大人しい良い子」だっただろうけど。
あの頃の完璧に行き詰まってた自分に比べたら、いまの生活は凄く安らかだと言えるだろうし、生産性も今の方が上だろう
僕の性格だと、バブルの頃とかに社会に投げ込まれてたら今の比じゃない虚無感にきっと襲われていただろうな〜と
20前後のときは進路とかで悩んてで30前後のときは結婚とかで悩んで40前後で子どものこととかで悩んで50前後で健康の話とかして60前後で仕事の進退を悩み?
駒場小空間でやる某劇団のプロデュース公演で制作やりませんかってお誘いをいただいていて悩むところ。
この後に及んでやってる場合かとも思うし、でも三劇主体のプロデュース公演に制作で関われるのはかなりいいチャンスではあるし…
何だかんだで三劇には憧れるというか、コンプレックスがあるというか、単純にもはや制作の仕事が何かぶっちゃけわかんなくなってきたので外の世界を見たいのもあるし…。
今はっきり気づいたけど僕は制作としてはかなり経済感覚に欠けている気がする…
というか普通の生活人としてみても経済感覚に欠けている。浪費するとかではなく、経済的な見通しをつけるのが苦手だな。
理念上はともかく事実としては、アトム的個人の契約関係による社会が最初にあるわけじゃなくて、性愛と生活の共同による広義の家族関係が最初にあるわけで、個人間の結合の原理(愛)は親子的なものと夫婦的なものときょうだい的なものとによる擬制で成り立ってるんじゃないかな、とか。
「哲学科と倫理学科って何が違うの?」と軽い感じで聞かれたら、詳しく話し始めると長くなるしよく分からなくなるので、「あー、ほら…同じ音楽のサークルでも個々のサークルによって雰囲気とかやってるジャンルとか違ったりするじゃん…たぶんそんな感じだよ」とさしあたり答えることにしています。
わずかでもかかわったものも含め、魔法のベル、BQ38、●、スパイラル、さよならノーチラス号、御手洗さん、MinT、逝きザマ、ただいま当サークルでは、極楽トンボ、非正規戦士アルバイダー、回廊、KAN-KAN男、と。

2013年10月
睡眠導入剤のんだんだけど眠れなくて、なんか不思議な感覚を体験中。
絶対的否定性ってなに
おっはよーーーー☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆☆*:.。.
怒り新党でジョンケージの三代音楽
わらびの思い出の店が色々と閉店したり入れ替わったりしていて淋しい。
牛八を経営してたご夫婦はどうなったんだろう。
実家の絶妙なゴミ屋敷っぷりはもはや現代前衛芸術かもしれない
そもそも人間関係全般が苦手だった頃、「これを逃したら一生自分には愛し愛される人なんてできないんじゃないか(=もっとカジュアルに言えば、モテないしずっと彼女できないんじゃないか)」みたいな極めて自己中心的な必死さを恋心と勘違いしてた時期があったんじゃないかとは、恥ずかしながら思う。
自分の場合は親に似ているのだろうかと考え出すと、似ていると決めてかかって色々思い出してみると確かにすごく似ている点が見つかる。
今日の発表終わったら和辻の倫理学をまた読み始めるんだ…。
良い言葉が思い浮かばず「伝え継ぐ」とか言っちゃったのだけど、過去から「受け」止めて未来へ「継なげ」ていくのだから、「受け継ぐ」ってことか。
NHK高校講座地学基礎の垣内彩未がすごい美人
ぼくにとって麻布の中高時代はひとつの「巻き込まれた状況」であって、素朴な意味でも「あのころは良かったよな~」とは言えないし、まじめに考えても手放しに美化は出来ないし、無駄に過ごした時間や後悔せずにいられないこともじっさい多かったけれど、いまの自分をどこかで深く規定して、
その過去との相関の中でぼくはあり続けるのでしょう。それは、さしあたりは良い事とも悪い事とも言えなくて、ただ、事実そうであったのであり、そうであるのだ、としか言えない。
あきらかに、卒業して浪人して大学入ってからの4年半が一番変化が大きいからね。
とは言え、中高時代に撒いておいてわずかな種があったからこそ、ここまで生き延びて変化してこられてきた、ということも確か。
状況が変われば過去へのまなざしが変わるのだから、実質的な意味では過去は変えられる、というのは、そういう個人的な希望を込めて言っているわけでもあったりする。
世界がいかにあるかということではなく、世界があるということが神秘なのである。
まず純粋な空間と時間があって、それが結びついて世界が成り立ってるわけじゃなくて、時間と空間はそもそもの最初から分かち合い難く結びつきあって存在していて、それを分節化して捨象すると空間や時間という概念が成り立つと言った方がたぶん正しくて、
テキスト情報だと微妙なニュアンスが伝わらないとか、同じ空間を共有している親密感がないとか、いろいろ欠点はあるだろうけども、でもチャットや単純な対面の会話なんかじゃ絶対に実現できないようなダイナミズムもやはり持っているように思う。
いきなり新聞とか読み始めて分からない人は、多少恥ずかしいとか馬鹿馬鹿しいとか思っても、池上彰の本とかそのレベルから始めた方がよいと思われ。
笑っていいともガチ打ち切りなん!?
「タモリってなんなんあいつ?」とかいう世代が出てくるのか…。
サークルにおけるメンバーシップの問題

2013年11月
理系って毎年「去年は暇だったな〜」ってつくづく思うらしいから、
法学たんが結構適当なこと言っとるw天皇は内閣の一機関と断言したw
法学たんが言い訳ツイートをしとるwwwwww
法学たんがエゴサーチしてふぁぼってきたwww
法学たんのふぁぼ欄見てたら中の人の自己承認欲求の強さやばいなと思った。
法学たんが顔真っ赤にしってるっぽいことは何となく分かったw
NNNのドキュメント良い番組多いよ。
チェックシャツを超おしゃれに着てみたい
エンドレスエイト懐かしいな〜。ちょうど浪人してる頃だった。
衝動的にサガフロンティアやりたくなってきた
一度勉強しようと思い始めると大学ほどありがたい環境はないんだなって実感してきた
長く一人暮らししてるとRPGでだんだんと装備と技が充実してくるのに似た楽しみを感じられる
ツイッターやmixiが出来て、みんなが各々の内面を吐露する障壁はすごく低くなったんだろうと思う。そしてそれは、おそらくはとても良いことなのではないだろうか。
マーキュリーのすごい良かった。内容的にも技術的にも最高峰だった。駒場演劇みてて2年ぶりくらいの感動。
「男女雇用機会均等法により労働者に対する男女差別が禁止され、女性従業員を女性であるという理由だけで補助的業務に就かせることができなくなったため、男女別ではない総合職と一般職という区分が設けられるようになった。」
「ある」と「あらわ」と「あらわれる」。
和辻哲郎のお墓参りしたいな〜(鎌倉にあるらしい)
イオンモール楽しいけど、人生ここで終わるのか的な閉塞感ある
『存在と時間』のゼミのノートをまとめ直します
webもここ十年くらいでだいぶ一定の秩序が出てきた感じするし、アナーキーでアングラな昔が良かったと言う人もしばしば見るけども、近代日本における印刷出版メディアも、おそらく最初は非常にアナーキーで、だんだんと秩序とか住み分けが出来てきたのだろう。
江戸時代の言葉遣いとか擬古文体とか残存してた(?)人たちからすれば、東大英文科卒の小説家が「我輩は猫である。名前はまだない。」って書くのは斬新だったはず。たとえばいま教科書とかに「うっひゃwwwテラワロスなidentityの脱構築!」って書いてあったらびっくりするじゃないですか。
高校時代があらゆる方向に詰んでたことを考えれば今はしあわせや。
山本義隆みたいな「予備校講師」だっているわけですし、池田信夫のような「大学教授」だっているわけですし、「研究者」とは何なんでしょう。
根本的に日本人は自信なさすぎよ。右翼的なナショナリズムとかだって単なる自信のなさの裏返しよ。なんだかんだ昔からかなりの文明水準を保ってきたんだからもっと高貴に振る舞うべきでは。
なんの脈絡もなく突然べとりんってつぶやきたくなった
存在と時間が23節でおもしろくなってきた
「今いわごーさんとまりもさんと看板運んでる!」というメールが高校の同級生から来て、世間の狭さがね笑
僕の遊びで法学たんの中の人が顔真っ赤にして必死に怒ってた話を聞いて来たので楽しくなっていた
コリさんをいちはやく師匠だと見抜いたnknの鑑識眼はやっぱりかなり凄かったのかもしれない。。
すごい変な話なんだが、深夜に人の少ない池袋のネカフェ(PCないブース)でひとり寝ていて、ふと母は幼いころの自分をかわいがってくれたよな~みたいなことを思い出して、同時に「全てはつながってるんだ!」みたいな考えが思い浮かんできて、涙があふれ出してきたことがあって、
こういう体験から神秘性(?)みたいなのをを根こそぎ取り払って脳波(?)の分析とか出来たら面白いよね、って思うんだけど、そんなの心理実験室に適当に被験者を呼んで1時間とかの実験じゃ中々起こせないよね
もしや学習院哲学科の方?
有吉ジャポン録画したの今みてるのだが、レンタル恋人特集。。
だいぶ現実離れしたこと言わせてもらうと、 真っ赤なドレスとか着こなせちゃう女子が最強
マイナビがこれまで何人の学生を自殺に追い込んだかに思いを馳せながら院に行った後の身の振り方を少しずつ考え始めよう

2013年12月→特定秘密保護法案、askを始めている
結局むかしから、言語的ロジックで抽象的に何とか処理できる話は得意だし、物理的・生活的な現実を本格的に相手にしなきゃいけない話は苦手なんだよな。だいぶバランス良くなってきたつもりだけど、これはむか〜しから変わってない傾向だな。
あーなんかすべてが馬鹿馬鹿しくなってきた。。。(定期)
どうせ百年後にはみんな死ぬのに。
国語学の教授、毎週グローバル化について危機感を刺激する結構生々しい話を語っている。。国語学だからこそなんだろうなあ。
自分なりにまとめると、日本の新聞は海外情勢については欧米紙の後追い記事ばっかりで、速報性が命のグローバル化時代の経済界に全く対応できておらず、日本の新聞だけ読んでるんじゃビジネスの世界では遅れをとってしまうからダメ、みたいな話
おっさん何十人も集まって、道徳に検定教科書とか導入したら道徳心高まるって結論に至るの馬鹿なの?
最大の自己投資は食事。
nhkの視点論点見てたら東大法学部の長谷部教授が出て来て、憲法学者だしどうせ左翼なんでしょとか超雑な先入観で見てたら普通に特別秘密保護法案擁護してたので、ほほう、と思いました
『BQ38』の頃の夏はすごい青春ぽかったよなあという感じがする…。
そう言えば、大学に入るまでけんかというものをほとんどしたことがなかったが、ここ1~2年けんかみたいなのをわりと健全な意味で出来るようになったような気がするので、きっと良い事なのだろうと思う。
突き詰めて言えば、人生って本質的にはギャンブルなんだろうな…。
よく知らないけど麻雀に近いかも。ある程度戦略とかテクニックとか計算はできても、いかんともし難い「流れ」とか「運」といったものがたしかに存在する。
正直な話、講義中に最前列の席でよくツイッターやってます。
いや、いま眠いのだが、現にいま感じている「この感覚」を、なぜ眠いと思えるのか
人間万事塞翁が馬の如し。
90年代最高わかります
熊野先生の講演『和辻哲郎と私』ラジオで聞くで。
(ask)私もぜんそくで、一人っ子でした。
さいきん英語の勉強の一環としてNHKのスーパープレゼンテーションという番組を見てるのだが、今更だけどアメリカって凄いわ。うまく伝えられないけど、ほんと凄いわ。
万葉集詳しいけど雑談は評論家のコピペな先生
ここまで風邪長引いてるの3年ぶりくらい
やっぱり総合芸術かつ集団制作なのでとても学べる
一番自分を守ってくれるものは何ですか? — ひとことで抽象的にいうならば「力」だと思っています。
アレルギーはありますか? — 子どもの頃はかなり病弱で、喘息(ぜんそく)の他にも目やら鼻やらにアレルギーがあって、耳鼻科やら眼科やら小児科やらにずっと通っていた時期があったのですが、今はさほど問題ありません。
研究提案書を作って200人の大学教授にメールしただと…何たる行動力!!
なんとなく、龍さんって柴田淳の曲を聞いてそうなイメージなんですけれど、彼女の曲は好きですか?
医学部で勉強すると日々のちょっとした兆候で自分がかかってるかもしれない病気の名前とかがぽんぽん浮かんでくるようになって怖いらしいし、法学部で勉強すると警察の違法捜査の横行など世の中の闇が色々見えてきて怖いらしいし、みんなやっぱり地学とか勉強して地球と宇宙の神秘に感嘆しよう
猪瀬さん失脚しちゃうの…。
大企業総合職の人生の選択肢を消す覚悟さえあれば、力を少しずつ貯めていけば人生なんていくらでも何とでもなりそうかなって最近思ってる。
学生なりに少なくとも人並みには色々な社会経験は積んできたつもりなのだけど、バイトやったことないと賃金に対する経済感覚みたいなのは体感できないよね。
日本人のひとりとしては、第何民主政だの何だのころころ変わってカオスでグダグダしながら国王死刑だのやってきた国をさほど羨ましいとは思わないが…
フランス、革命記念日に軍事パレードとかやる国だぞ?核保有国だぞ??日本の原発事故の惨状と混乱を見てもいまだに原子力発電推進してる国だぞ???そんなお洒落で民主的な国か????
1〜2年前ESSドラセクの制作の人に「上のOBOGからは『ESSドラマセクションの劇団化』が批判されたりするのよねぇ」みたいな話を聞いたことがあって、どこにでもそういう話はあるのかなぁみたいなことを思った。ESSドラセクの沿革(立ち位置の変化)みたいなのも気になると言えば気になる
三劇が「三劇」という名前で自己規定をする必要はいつどんなきっかけで生じたんだろうか。

2014年1月
実家、完璧に荒廃している
親戚20人くらい集まって新年会やってた頃もあったように思うのだが、今ではゴミ屋敷…
17世紀とかのかなり知識も文化も文明も発達してた時代に、めっちゃ頭良くて博識だったはずのデカルトとかがそれでも神の存在を証明しようとしてたのはやはり理解できない。
永山則夫のドキュメント、「児童虐待」やら「機能不全家庭」やら「貧困」ということばが生ぬるく感じられてしまうようなショッキングな内容だった
綾瀬はるか司会しながら泣くとは…ハイレベル…
おかみに通りがかりで会いました(というか声をかけられて気付いた)
明日はじめての個別指導だが何をどう教えていいかまだ決まってないしこわいよ。。
「ニーチェがどうの〜」とか言うと普通だけど、「レーヴィットの和辻哲郎への影響」とかいうとちょっと通っぽい
教習所の技能教習は指導教員によって言ってることが違ってて、その辺を折衷して理解して運転する要領の良さがなかったのがつらかった
インターネットのプロバイダーと携帯を両方KDDIにしたら通信料金が総合してめっちゃ安くなったっぽい
あ、「魔法に憧れる→化学へ」の感覚はわかるな…。
相対性理論は誤っていると主張する某先生(かっこよく言えば「在野」の人)に渡された相対性理論の誤りを主張するプリント、何となくこのプリントの主張がおかしいのだろうなとは思うのだが、どこがどうおかしいのかちゃんと指摘できるようになりたい。。。
結局日本の普通高校の教育は非常にバランスよく色んなことを教えてるんだなという実感にここ1〜2年で至りつつある。
まぁでもマツコ有吉の怒り新党の三人は凄い修羅場をかいくぐって生き残ってきた感じなので、この三人のトークを見てると和むし笑うし勇気付けられるよ。
ガロアはたった20年間で終わった人生の中で、のちの数学史に残るような業績を残したし、
あるいは、滝廉太郎は23歳で死んだ。
尾崎豊が享年26歳だよね
それにしても、ツイッターとかだと講義の受け売りとかちょっとしたアイディアつぶやいただけでもプチ専門家ぶれちゃうけど、熊野ゼミの先輩方たちと飲むとみんなきっちりすごい勉強してる様子がかいま見えちゃうので不勉強な僕は怖いっすね。。
なんかこう、大学受験こそが人生最大の関門みたいな高校生的幻想って、何だかんだでありませんでした?
つまり重く考え過ぎた結果精神がキャパ越えして脳が処理落ちする。。。
要するに焦りすぎだから「落ち着け」って話なのだが、それがいまでも出来ない。この焦燥感の感じやすさは何からできた性格なんだろうな〜。
意思の弱さというか優柔不断になってしまうところは悪いクセなんだけど、その悪いクセすべてが悪い結果につながってきたわけでもなくて、重要な局面でブレーキとして機能してきた面もあるから、どう直したらよいものか。
「講義で扱った哲学者のうち二人について講義内容をまとめ、その上で現代の哲学の可能性について論じよ」
本郷三丁目、チカラめしの跡地に野郎ラーメンなる店が来たが、それによって隣の老舗らーめん末廣がどうなるかか見もの
Gメールのためにグーグルアカウント作ったけど、これでyoutubeもグーグルドライブも使えるしめっちゃ便利ね。グーグルには一生逆らえなくなってしまう気がするね。googleに対しては個人情報ダダ漏れね。
手話を出来たオランウータン(ココ、1971年生まれ)がいて、2000以上の単語を理解して研究者とコミュニケーションができて、猫を可愛がって育てて、事故で猫が死んだら2日間泣いていたそうな。
研究者が「オランウータンはいつ死ぬのか」と聞いたら「病気になり弱って死ぬ」と答え、さらに研究者が「オランウータンは死んだらどこへ行くのか?」と聞いたら「苦労のない穴へさようなら」と答えたそう。
ask龍さんは、自分は何歳まで生きそうだと思いますか? — 難しい質問…。リアルに考えるなら、50代~60代くらいまでかなと予想します。いまの社会状況と自分の体力とかを考えるにこの辺かな…。
詰み始める→不安の先取り→心身不調→本当に詰み始める→不安強まる→…の悪循環
現実的に妥当な見通しをつけたり予定を立てて行動するのが苦手なんだな…
つまり、どれくらいのエネルギーと時間をかければどれくらいの成果を得られるかをあまり把握してないので、なんか途方もない苦労が待ってるように感じられて漠然とした不安が増大
ちなみにSTAP細胞は凄すぎて信じられない。。。理系の教養レベルで生物学を学んだ身としては、ほんと信じ難い話

2014年2月
細胞の最奥部にある遺伝子を化学処理でこねくり回して細胞を初期化するiPS細胞ですら画期的だったわけじゃん。それが、細胞の外側を刺激するだけで初期化されちゃうって、今まで頑張ってやってきたことは何だったんだよっていう。
竹田青嗣はフッサールのどこをどう読んでああなってしまったのか…
『論理学研究』読んだら何か凄い引き込まれそうな気はするのだけど、、、
しかし外小屋でやるということで、外子屋は未経験だし色んなノウハウがわからないので僕も心してかからねば
なぜ国語学の教授がグローバル化について語るかというと、今や日本語学に関するちゃんとした研究論文が外国人(日本人でも)研究者によって英語で書かれることもあったり、中国・朝鮮の文明を大幅に輸入して発達した古代の日本の事情に触れる文脈であったりとか
『日本人は何を目指してきたのか』という、沖縄やら水俣やら福島やら、毎回90分で戦後日本の地方のひとつに焦点をあわせて振り返っていくNHKのドキュメントを見てるんだけど、なんというか日本のしかも地方ってすごい大変な生活を強いられてきたのだなと思った
Sein und Zeit やなぁ
感覚を受け取っているのは全て身体にくっついている感覚器なのに、世界はたしかに自分の外側にあると感じられるということは、考えて見れば不思議なことで、
明日朝起きたら突然、ラテン語の文献を読んでドイツ語で卒論書けるような超優秀な人になっていたい
別に、豊かな時代に生まれたから自殺したいとか思うわけじゃなく、死と隣り合わせみたいな過酷な環境で生きてる人だって「何でここまでして生きなきゃいけないんだろう」って思う気がするけどなぁ。
はっきり言って日本の将来は、少なくともこれから数十年あまり明るくないことはほぼ確定的だろうから、そんな中で少しでも楽しく生きる術を磨いていかなきゃね
今日話題になってる東大無料塾ってなんなの
心身二元論の問題から行動主義やらゲシュタルト心理学やら確率的機能主義まで、まさに巷の臨床心理学とは一線を画す心理学概論って感じであった
樋口一葉の「たけくらべ」って吉原遊郭か舞台の小説なのね。24歳で夭折してそんなのを書き遺したとは。
いやでも細川に投票したはしたが、かと言って正直、細川都知事はいやかも…
適当にやるって苦手なんだよなー。適当にやって良いって思うと本当に半端なく適当になって壊滅するんだよな。
試験に限らず、「結果が出るかどうか分からない微妙な状況においてそれでも最善を尽くす」っていうのが昔からずっと苦手なんだよなー。
ただ、何で諦めが早いかと言えば、少なくとも今まで何だかんだそれで帳尻を合わせて生きてこられた(逆に諦めの早さが良い判断につながったこともあった)からなのであって、諦めの早さを修正するには、諦めなかった結果成功したという経験を積んでいくことが必要になるのだろう
本郷に進学した当初は、こんな死んだような場所で何のためかも分からない勉強をし続けることになるのかと暗澹たる気持ちだったが、勉強が楽しくなったので今年は良かった。
「投票にすら行かない人は政治に文句言う権利ないと思う。うんたらかんたら」という中学生レベルのドヤ顔爆笑ツイートの氾濫期待
心と身体(物体)の関係を説明する際、一元論(身体=物体or意識のいずれかに還元できる)の立場と二元論(いずれも存在している)の立場があり、二元論における心と身体の関係性の説明としては、相互作用説、随伴現象説、心理物理並行論、予定調和、偶因論、並行論、などがあるそうです
内容はきちんと把握してないけど、ヴント、行動主義、心身二元論、科学革命、内観心理学、ゲシュタルト心理学、確率的機能主義、あたりのキーワードを繋げてよくわかんない作文を作って可を欲しい
この先生きのこるにはどうすればいいですか? — 体力をつければいいのでは…? http://ask.fm/a/ab65jadd
最近バイトしはじめた塾の塾長さんが「相対性理論理論には誤りがある」と主張していて、本人もトンデモとして扱われてることは自覚しているのだけど、でも僕にもどこがどう間違ってるのかは指摘できないっていう…。
動悸・息切れがして人生に今までなかったくらい体調悪いのに、熱も咳も鼻水も出ないので、これなんか臓器的にどっかやばいんじゃないか…心配すぎる…。
というかもう、大学の学部を根本的に再編成して、「教養学部」とかじゃなくて「哲学部」が欲しい。文学部と理学部を統合してゴチャ~~っと混ぜたら何か面白い議論が生まれてくるでしょきっと。
『相対論の正しい間違え方』って本が良いらしいので今度買って持っていこう
旅行行きたいって気分が全く湧かないんだよな。東京都内だけでも観たいもの、場所はたくさんあるし、特定の人とずっと何日も過ごすの好きじゃないし、一人旅するほどの必然性もないし、ドキュメンタリー番組とか観てる方が旅行より楽しいし、リフレッシュするなら寝るのが一番だし。
それなりの学歴やら地位があるのに犯罪で逮捕された人がその後どういう人生を辿ることになるのか結構気になる…具体的に知りたい
美容師さんがハサミに対するこだわりを話してくれた。3000円くらいの普通の店だけど、その美容師さんは12万のハサミ(自費で購入)を使っているそう。ハサミを研ぐ専門の職人さんというのがいるらしい。刃物を扱う職人技術が好きで、料理人と美容師のどっちを目指すか迷ったらしい。
日出づる処の 御国(みくに)を護り/外国(とつくに)までも 率いむ心/ここに集へる 若きますらを/いよよ鍛えむ いざもろともに
「認知行動療法」はやり方がある程度規格化・標準化・データ化(エビデンス化っていうの?)しやすいから、心理療法の中では珍しく保険診療の認可が降りたとか何とか
院進組の西洋倫理系の先輩2人の卒業論文をざざっと読んできたのだけど、1年弱後にはこの水準に達してなきゃいけないのか~と思って戦慄している。語学もやんなきゃだし、まだまだ苦労を重ねることになりそう。非常に憂鬱だ。。。
このそわそわ感は、仕事に向き合わないと根本的には解決しない類のそわそわ感だということは分かっているのだが、しかし、そわそわしてるから向き合えない訳で、そわそわそわそわ…
みんなが感じている空虚感というのは「寂しさ」というより「心細さ」なのではないかね?
『全体性と無限』( Totalité et infini )と『実践理性批判』( Kritik der praktischen Vernunft )の読書会に来週から参加します
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』なんてタイトルを掲げられると何か凄いことが書いてあるんじゃないかと勘ぐってしまう
NHKには大分お世話になってるのでお金払うことには抵抗はない。
「人生はエチュードだ」と「ツイートは芸術だ」は印象に残ってます。
(こりさんは彼女を確保したあたりからめっちゃ頼りになる人になった気がする…)
きっかけは何かはともかく慢性的に胃が痛いモードに入った。。。

2014年3月
百回以上繰り返されてるネタな上に答えもググれば出るけど、「豆腐」と「納豆」の字面と意味内容が逆っぽい問題
最悪、研究者になんてなれなくても構わないけど、教養不足な人、視野の狭い人にだけは絶対になりたくない。。。。
この2〜3年、山あり谷ありでありつつ、ゆっくりゆっくりと色んな力を身につけてこれたつもりなんだけども。まだまだ伸びしろはいくらでもあるはずなんた…。
じんせいのもくてきをみうしなっているようにおもえます。まいにちの意義はありますか — 僕がという話ですか?あと、「意義」だけ漢字であとが平仮名なのが怖いのですが…。僕は自分に与えられた人生と何とかかんとか向き合っているつもり
「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」だからねぇ
高校時代の殻にこもってた自分に比べれば、色々なことが楽しめるようになったし、色々な人と出会えた。もっとこれからも世界を広げて行きたい。
留年浪人がどうというより、みんなより人生3〜4年遅れてる感がなんかあるんだよな。高校のときほぼ完全に殻作ってたからな。
日本であれば、普通にそれなりの大学を卒業すれば、たとえば平安時代の貴族よりもはるかに知的・文化的水準の高い生活を送っているような気がするんだよね
生き急ぐ必要はないし、まぁ僕よりも各方面で優秀な人はたくさんいるだろうから、そういうことはそういう人達に任せて、自分は自分のやれそうな道を進めてもらいますぜ、っていう
睡眠導入剤のきかなさやばい…寝不足なはずののに睡眠導入剤飲んでも寝れないって何やねん
人の入れ替わりが非常に激しくて人数も少ない団体ってなると、責任感の強めな人が結局残って気を揉むことになり、しかも様々な意味での記憶か引き継がれずサポート体制も脆弱な中手探りで色々とマネジメントしなきゃいけない、そういう人を必然的に生み出す構造の中で、
たしかに気軽に1〜2回参加して楽しく終わるって人もいる一方、「ゆるいサークル」という看板で人を集め、一部の人に負担が集中する構造は、あんまり納得できぬ。
機嫌が悪いときや不安なときは、「ああ、自分はいま機嫌が悪いんだ」とか「ああ、自分はいま不安なんだ」みたいにしか思わなくなってしまって、まぁ昔よりは大分楽になった。
制作チーフ、仕事の量自体はさほど大したことないように思ったのだが、引き継ぎがしっかりしてないし、自分自身の要領が悪かったのもあり、とにかく何をどこまでどうすれば正しいのかがはっきりしていない精神的な不安感と、頼りにしたり相談したりできる相手があまりいない中での孤独感はやだったな。
2年間続ける中でさまざまに学べることはあったので、良かったと思う。これかなかったら今の自分はなかった。
後任の人がいるとしたら、引き継ぎ・サポート体制の脆弱さによる不安感とか孤独感は感じてほしくない。丁寧に繊細に教えてあげたいと思う。
「日本の演劇界は、明治以降の世の中全体がそうだったように、急速な近代化の流れに乗り、歌舞伎に反発し新派が生まれ、歌舞伎・新派に反発し新劇が生まれ、新劇に反発し小劇場運動が生まれるといったように、それまであった演劇への反発を繰り返しながら、別の集団・表現をつくることで動いてきた」
何ていうか、キノシタのときに、三劇(四劇)のきめ細やかな教育・引き継ぎの文化というのを垣間見ちゃった気がして、
うちにはそういうのがあんまりないから、無用なストレスとかプレッシャーとかディスコミュニケーションが生じているよな、という風に思って、
憂き世の義理は捨てて生きていこう
世の中には非常に質の高い創作物が溢れてるのに、そこに新しく一個の作品を付け加えようという気持ちが根本的にあまり分からなくて、だがら、創作というものに何というか根本的に向いてないなぁと思うこと多くてさ
定期的にこうなるからだいぶ慣れて来たけど
どういう弾みに回復するかの記憶があんまりない
一年生の冬のときは毎週駒場小空間の公演をftmnと見にいってて楽しかったよね。
うーんでも、学生演劇ももう正直飽きてしまった…
楽しそうで良いなぁとは感じるし、たまにすげぇ〜〜って思う作品もあるにはあるけども。
演劇って五感も感情も言語も総動員する活動だし、そういう意味では学生がやって成長するにふさわしいジャンルだとは思うのよね…
僕も一時期、中島義道の本(どちらかと言うと一般読者向けのエッセイみたいな感じのライトなやつ)を読んでて、ああこういう感じのひねくれた人もおっさんになるまでピンピン生き延びて妻子持ちにすらなってるのかって思って救われた時期があった

2014年4月(この頃になっても、死や自殺というものについて、一般的に、あるいは個人的に繰り返し考えている)
そう言えば、郵送されてきてる様々な書類2月くらいから溜めてるからやばい気がするな…
なんつうか、仕事をシェアするとその分コミュニケーションコストが上がって結局辛いのではないかって疑惑がなくもない…
睡眠不足だし睡眠導入剤も飲んだのに寝れないのは流石におかしいし副交感神経ちゃんと仕事しろって感じだ…
明日からご飯を食べる量をちゃんと調節しよう。。。
何度も言ってるけど社会人って言い方も本当いやだよな。。。
赤ちゃんから老人までこの「社会」に生きてるメンバーなはずなのに、学校も家庭も地域も大学も病院も老人ホームも刑務所も「社会」なはずなのに、なぜ日本語で「社会人」というときに、「社会」は「企業社会(=経済社会、サラリーマンの作っている世間)」にすり替わってしまうのだろうか。
戦後の日本になって初めて学校で「社会科」という枠組みの科目が教えられるようになって、きっとそれはとても画期的なことだったのだろうと思うのだけど、今になっても個人と個人が連帯し合って築き上げていく本来の「社会」(society)という感覚は根付いていないように思う。
ESSのOBOG劇団がやってた髑髏城の七人が一番好きだったなぁ
大学入りたての頃は生活上の悩みとか精神的な悩みとかその他諸々常にキャパ越えで処理落ちしてる感じとかで勉強できてなかったからなぁ
でも1〜2年前の視野の狭さに比べたら大分まともにはなったはずだけども…
1年後どんな自分になっているだろうか。
でも本当にあの二人(関係ない人をビクッとさせないために限定しとくと塾関係ね)の無責任で軽薄で頭でっかちな感じは、いくらなんでも流石に信じられないレベルだからなぁ…僕の性格だとひたすらグチグチ考えてしまうんだよな…
経営戦略(笑)だの情報学(笑)だの言ってるわりに、ビラ一枚まともに作れないじゃん。それで飽きたら今度は教育アイドル(笑)とか言い出すし。あの二人の頭の中はどんだけお花畑なんだよ…。
信じられないレベルの脳天気馬鹿がたくさんいてなぜか普通に社会を渡ってけちゃう一方で、いま自分が無駄な怒りとイライラで不毛な時間を過ごしてるの本当わけわからん…。
麻布のあの無秩序な退廃的な教室空間の中で苛立ってもがいていた人達、実は案外たくさんいるんじゃないかという確信が最近深まってきたのだ
というのも、凄く適応しててイケイケな感じで楽しそうでみんなにも人気に見えた某君が、実は凄く悩んでて苛立って色々もがいたという話を最近聞いたので
自分的な評価として東浩紀は有名アルファツイッタラーに格下げしよう
まぁなんだかんだで、二年前よりは一年前、一年前よりは今、って感じでゆっくり地道に力を溜められてきた気はするので、今年もなんとかしたい。
なんつうか、少なくとも自分の中では、高校生までって、自分の実力って(狭い意味であれ)いわゆる「試験」が担保して保証してくれてた部分が大きかったのだけど、
大学生になるとそんなの吹っ飛んでしまう。日々のあらゆる経験から、あらゆる事に関して自己把握をして研鑽を積んでいくしかない。学問の世界だって、テストみたいな分かりやすい基準はない。
自分の立ち位置や実力は、ただただ現実に経験を積んで測り、試行錯誤して伸ばしていくしかない。
単なる受験秀才だったと言ってもいい僕には、その現実がいまだにつらいのだな…。なんとなく底なし沼感を感じてしまって。
じわっとした原因不明の焦燥感と虚無感がずっと収まらないな…
別にもう一留くらいしてゆっくりやればいんじゃね?って気分もある。
将来はサビれた予備校講師とかやってんのかなぁ。
なんていうか、社会の問題やらすでにある様々な社会的インフラの整備・維持とかは他の優秀なみんなが頑張って解決してくれそうな気がする。この人なら何とかしてくれそう、って人をそれなりに多く見てきた気がする。自分の出る幕ではないように思う。
楽しいことは一通り経験したし、さまざまな人に会って、仲良くなったり、嫌われたり、仲直りしたり、まぁ一通りのことは会った気がする。
この先に自分は何を求めればいいんだろう?
勉強したいっていうとえらい人な感じもするが、単なる贅沢と言ってしまえばそれまでなんだよな。
倫理学科で一年間でしかないけども勉強して、二年目に入ったいま、気分的な問題なのかなんなのか分からないけども、色んなことが儚く(もっと言えば、下らなく)感じられるようになってしまっている。現実がどうでもいいことに思える。でも将来の自分に対する保身の気持ちは残っている。
ただ、大学入り直したいっていうのは現実逃避でそう考えているだけのようにも思える。
僕両親を亡くしてるから、思い切ってやろうと思えば、大して誰の反対もなく大学入り直せちゃったりするのよな。
人生が自由すぎて底が抜けていて、怖い。
みんな結局、恋愛とサークルと学業とバイトと就活と漫画なり音楽なりのコンテンツの話しかしないからなぁ。社会人になったら仕事の話と結婚の話と出産の話と子育ての話と、居酒屋で政治談義とか。つまらん、つまらん。
僕は真理を探求したいんだ。われわれはどこから来て、どこにいて、どこへ行こうとしているのか、知りたいんだ。それ以外したい事なんて何もないんだ。
「生きることに対して無気力」な気質はむか〜しから一貫しているような気がする。
よくみんな、学業してバイトして人付き合いしてって色々悩みつつもするするとこなしていけるよな、みたいな感覚あるな〜。大体のことは下らなく感じられてしまうのよな。
ネガティブな感情は本来、その感情を引き起こしている要因をいち早く取り除くためのサインとして機能していて、原始的な社会なら「怒る→殴る→解決」みたいな感じでうまく機能するのだが、複雑化した人間社会だと、ネガティブな感情を引き起こしている要因も複雑なのでそう簡単には行かず、
「悲しいときほど気を強く持とう!」「怒ってもまずは冷静になろう!」みたいな心理的適応技術が必要になる、と。
一人で勝手に色々行動するのはわりと得意な気がするが、みんなを巻き込んで何かを動かそう・変えようみたいなのは全然無理だなぁ。
人生は何もしないには長すぎるけど何かするには短すぎるっていう、まさにその感じ
ふわふわな話をすると、快楽ではなく「知」を求めることが倫理学・哲学のはじまりだったとして、「知」というものが爆発的に増大した時代に、もはや「知」は快楽として消費されるものでしかなくて、あるいは大海を前に僕達は立ち尽くすしかなくて、みたいな
すべてに飽きてしまった…
近所にあるごく普通のショッピングモールの一角にある本屋で、学術的な新書・文庫から週刊誌・児童書・漫画・実用書まで一通りは揃っているところなのだけど、ここにある量の情報や知識すら自分は一生吸収しきれないし、じゃあ人生って何なんだろうみたいな、そういうところから自分の哲学は始まった。
人間は、それなりに生物学的に同じような身体構造を持っているわけだから、この世界をある程度は同じようなあり方で見ているはずであるように思えるし、その見え方に基づいて共同的に生き残ってきたんだから、その見え方は世界の真の姿をある程度はトレースできているはずだと思う。
僕は基本的に、人類社会は進歩しているし、真理に近づいていると思う。神話で世界の起源を説明するような時代よりビッグバンで宇宙の始まりを説明する方が明らかにこの世界の真の実態に近いだろうし、総じて言えば、昔よりみんな文化的・経済的に豊かでは。
ff8のシーンで、みんなが孤児院の時代を振り返りながら、「昔は子どもだったから道は選べなかったけど、今は自分たちの力で一緒にいようと思うことができる。だから僕らは戦う。」って言って絆を深めるシーンがあって、めっちゃ好きなんだな。
まったく関わらなくなるわけじゃなく、制作のことだけはできる限り丁寧に引継ぎたいけど、4年間非常にお世話になったサークルだった。サークル選びと学科選びは失敗しなくて本当に良かったと思う。
正直今の雰囲気と時代の流れには古参の僕は若干ついてけないし、もともとこのタイミングでやめる予定だったし…。他にやりたいことが出来たし。この四年間、様々な意味で自分を変えてくれたサークルだった。
今日は基本的に布団の中にいた。
『孤独と不安のレッスン』は大学生(できれば1、2年生)のうちに多くの人に読んでほしいと思っている。鴻上尚史さんの優しさと願いが溢れ出ている本だと思う。
いっつも言葉の重箱の隅つつきまくってる哲学科が何で講義と授業という単語の使い分けできないんよ。
『世界にひとつだけの花』に出てくる「No.1にならなくてもいい もともと特別なonly one」って、単なる甘やかしの現状肯定になっているだけじゃないかという批判が流行した当時あったように記憶しているのだけど、この歌は本当はシビアな現実を歌っている。
小さい花や大きな花、ひとつとして同じものはないから、小さい花が大きな花になりたいと思っても、それは身の丈に合わない願望で、ひとりひとり違う種を持つ世界にひとつだけの花である僕らは、そのひとりひとり違う種にしたがった花を咲かせることに一生懸命になるしかない。
大きな花は大きな花のようにしか生きられないし、小さい花は小さい花のようにしか生きられない。花屋の店先にすらなく、誰も知らないような場所で咲いている花もある。花は必ず咲くとは限らない。
あの歌には、そういうシビアな目線が明らかに入っている。一方で、人間を均一化して扱い共通の尺度で競争させるような競争社会に対する批判が込められてもいる。
No.1になれるなんていうのは幻想で、人間はもともとonly oneでしかありえないのだ。それは特別ちやほやされる自分というわけではなくて、今ここにただ一回の人生をこの身で生きなければならないという意味でのonly oneの自分。
そのonly oneの自分の人生の花は、大きいか小さいか、陽の目をみるかみないかは分からない。しかし、その花を咲かせようと僕らは努力するしかない。
とりあえず部屋を片付けることから始めようっていって一週間くらい経ってる気がする
夭折した著名人一覧をぐぐって慰みにする
突然に公務員試験受けたくなってきた(ぶれぶれ)
某先生に「君は何事かをなそうとか思わず楽しく生きるといい。誰にも何も迷惑をかけず楽しく生きられる人生、それで御の字、何も悪いことないじゃないか」とか言われたのを唐突に思い出すな〜。
結局どこかで「ひとかどの人物」になりたいみたいな願望あるんだろうな〜。でも明らかに僕はそういうの出来る性格じゃないのだろうな。社会の片隅でゆるりと暮らしてた方が楽な気がする。
10年前の自分と10年後の自分に一言ずつお願いします。 — 10年前:これから色々悩んで大変かもしれないけど、君はこれから相当変わるから頑張れ!今の自分はそれなりにやってるぜ~焦らず、周りの人達を大切にね~!
大器晩成。
感情的にネガティヴになるというより、思考力・判断力・決断力が弱まって、それが悲観的気分を惹起している、といった方が僕の場合には適切だと思う。
要するに、さまざまな心理的・精神的負荷によって思考回路がごちゃごちゃになっていて、脳・神経系統の機能が低下して、日常的な決断力・判断力・思考力が低下し、それが自己否定感にもつながり、精神的憂鬱に至る、みたいな。
逆に、素人考えとはいえそこまで分析できちゃうと、憂鬱感はあまりなくなる。結果にすぎないと理屈で理解できるから。頭が働かない、という部分のほうが大きい。
なので、頭が働かない状態の中で精神的・心理的プレッシャーを取り除くような行動をしていけばよい。要するに、生活環境を整え、悩みを明確化し、対処法を明確化すればよい。
はっきり言って中高生の頃は、勉強ができるということが唯一のアイデンティティであったと言ってもいいほどだったから、理三に受かったというのは当時の自分にしてみれば、それがたとえ実際いま振り返っていかにちっぽけなことであったにせよ、とても光栄なことだった。
当時の幼かった自分は、勉強ができるということが、本当にただひとつのアイデンティティのすがりどころだったから、理三っていうのはただそれだけで強烈な憧れだったな…。もともと理系だったというのもあるし。
いざ受かってみて、高校生までのひどく陰鬱な、殻に閉じこもっていた自分を何とか変えようと、本当の意味で何者かになろうと、大学入りたて当時の自分はその時なりに必死だったように思う。
それからもう四年間経つ。周囲の色々なことが全て変わった。自分もあの頃に比べれば、遥かに成長したと言っていいだろう。これくらいは自信をもって自分を褒めてあげてもいいと思う。
ミスチルの『彩り』、共感しつつ、桜井和寿ほどの成功者が一体何を言っているんだって昔は薄っすら感じていたけど、「多分あそこまでの境地に達してもそういう気持ちは誰しも多かれ少なかれ同様に感じるし、人間は一生そういうものなのだろうなぁ」ということは、今になってみると何となく想像できる。
自分自身だって、広く一般世間的に見たら、少なく見積もってもそこそこ恵まれた良好な人生を送っている立場なはずで、人間関係もまぁまぁ良好だし、容姿に凄いコンプレックスがあるみたいなこともないし、決定的な不満なんてないはずなのだが、それでも悩み、不安、コンプレックス、不満は尽きないし…
70億人の地球規模の社会の中で見たら自分に限らず誰だって、人間は砂粒のような無力な存在でしかなくて、それでもちっぽけな自分の過去を引き受けつつ将来の可能性に賭けていくしかなくて、しかも、あらゆるメディア・世間は、溢れんばかりの「ありうるかもしれない自分」の可能性を囁いてくる…
人間、お腹が満たされるだけじゃ満足はしないものなのだなぁ。それは多分、肥大化しすぎた想像力のせいなのではないかというような気がする。ほぼ大抵の人は、井の中の蛙でいた方が幸福なのではないかなぁ。
138億年前のビッグバンに始まり、46億年前に地球を生んだこの宇宙はひとつの宇宙に過ぎなくて、その「外」には無数の宇宙があるというのが最近の宇宙物理学の定説らしい(佐藤勝彦というわりと信用できそうな宇宙物理学者による)。そんな壮大なこと言われるとまじで人のちっぽけさが堪えがたい…
人間は、自分で望むことのないままにいつの間にか生まれてしまっているし、おそらくは、自分が死ぬまさにその瞬間に「あ、自分が死んだ」とは思わないまま、自分の死を確認できないまま死んでしまうし、その人生の閉じなさ、不気味な宙吊りの開かれ方も、とてもとても堪え難い…
『自死という生き方』という本を書き残して、自然死よりも自死を選択するべき理由を訥々と述べて、確か2005年ごろに65歳で自殺した哲学者の須田さんがいましたね
幼少期はかわいい男の子と言われ続けたなぁ
小学校高学年くらいでもJCにかわいい男の子扱いされてたような
ただ現代の東京で普通に高等教育まで受けて博物館とか行ったり適当に本読んでるだけでも、カントもアリストテレスもデカルトも全然知りようもなかった様々な人類の知や文化の恩恵を、カントやアリストテレスやデカルトより恐らくは頭が悪いであろう僕らでも普通に享受できてるわけだと思うのだけど、
なんかこう、勉強することはいいことだと刷り込まれて育つけども、知に対する欲望というのは本当に善いものなのだろうか。
大卒資格をさっさか取って院に滑り込んで中退覚悟で適当に勉強をやり散らかして遊びほうけながら公務員試験でも目指すのが一番楽しい道っぽい気がする
とにかく日本で生き延びていく以上、まず大事なのは、大学卒業することと、履歴書に空白を開けないことだ
だいたい、研究者になってもせんまぁ〜い分野の専門家になれるだけで、大抵の大学に務めたら相手にする大学生は授業内容に興味もなければ高い学力もないわけで、つまりは大学教授なんて大して凄い知識人でもないわけで、茨の道の結果としてそんな職についても別に何も面白くないのではと思うのだが。
結局、僕は受験秀才なんだなぁ。浅く広く知識を飲み込んで行けば自動的に世界が広がっていく時代は楽しかったもんだ。いまは、とにかく人間の知と文化の深さ・広さに途方に暮れている。
藤村操 日本初の哲学的死を実践した若者と言われた高校生。1903年、哲学的厭世観に取り付かれ、華厳滝に投身自殺。17歳。
樺美智子 東京大学在学中の1960年6月15日、60年安保闘争での全学連の国会デモに参加中事故死。22歳。
岡田有希子、ポスト松田聖子と言われたアイドル、18歳で飛び降り自殺、ウェルテル効果も起きる。
とにかく僕は社会のことは優秀な人達に任せて適当なところに収まって適当に楽しんで生きていきたい気持ちでいっぱいになってしまったのだ
結局何が嫌かって、生活のために何かせんまぁ〜い分野を突き詰めなきゃいけないということが本当に嫌なのだ そうやって何か見えるつもりになって何も見えなくなっていくのが嫌なのだ 勉強やだ やだ やだ
というか18歳くらいのときからずっと、中高時代にがんじからめに作っちゃった殻を破って「喪かつコミュ障かつ大学生・院生なのに小中学生みたいな恰好してる子」になるのを避けてまともな人になることが目標だったようなところがあって、相当ウダウダとしていたが自分なりに必死だった。
何かダイチさんにツイッターで見守られながら職を得るまでの今後数年(推定)を過ごしていきたい感じある。
地方上級くらいの公務員試験に収まるくらいのところで手を打つのが一番丸く収まる気がしてきたでー
『白夜行』第4話から見るで
銀八丼に凄い愛想よくて要領よくて後輩店員の指導までしっかりやってる凄くデキ女のおばさんの店員さんいるよね。
23歳、今の自分は大人だろうか、それとも。
いや〜何だかんだ周りの友達の内定が続々決まってきたし、みんなの将来が楽しみだわ〜(*^^*)
白夜行最終話は明日見よう
ひたすらテレビドラマの名作シリーズをツタヤで借りて観続けるだけの生活とかしたい


2014年5月
借家って借りる契約する時に1人で利用するとかそういう約束がくっついてると思うんだけど、同棲ってどういう扱いになるんだろう
白夜行の衝撃の余韻がまだ残っている。。
運動神経が悪いっていうのは、一因として、自分の中で思い描いている身体の動き方のイメージと実際に身体を動かしたときの動き方が異なってしまっているってことがあるだろうから、役者をやるときにメリットにはならない…気がする
今日はじめて池袋西口の東京芸術劇場いくわ。演奏会だけど。
自分の攻撃性は強い方と思いますか? — わりと陰湿な性格だと思うw http://ask.fm/a/ak635cdm
全体的に「先生」って呼ばれる仕事は体力とメンタル力と知力の全てがないとつらいイメージある
自分が自分であって良かったと切に思うような気分の夜であるなぁ。
エルガー、威風堂々
Jポップの曲はたった5分とかで一つの世界を描き出してくれるからやっぱり好きよ
熊野先生くらいなんでも論じてしまう学者を見てしまうと、自分じゃ絶対あそこまでたどり着けないんだろうな~と思って途方に暮れてしまって萎えるけど、たぶんあの境地まで行ったところでますます色々なものが見えてしまって途方のなさを感じるのは同じなのだろうなという気がする
憧れるものをいくつか羅列してみて下さい — ものというか人でいうと、たとえば、熊野純彦、立花隆、松岡正剛、坂本龍一、要するに、ハイカルチャーの頂点に君臨しているような人。 http://ask.fm/a/akihbfmk
22歳でシングルマザーって大変だなぁ
テレ朝で今期から池上彰解説塾って番組が始まったけど、NHKの時論公論と見比べると、明らかにNHKの方が時事の話題に関する解説の密度が高いなぁ。
「先送りする人は直接的ではないが家庭環境から先送りすることを学んでしまっている」ってすごくよくわかる
今後アルバイトをするとしたら、どのようなことをやってみたいですか? — 飲食系のバイトをやってメンタルを強くしたり雑用の手際の良さを身に付けたりしたいです。 http://ask.fm/a/al2lba2g
猫背とかの姿勢の悪さが明らかに自分のQOLを下げてきたのだろうなぁということを最近痛切に自覚するのだが、どうすればよいものか分からない。
自己肯定感という概念を発展解消してこれからはアイデンティティ・キャピタルを大切にする時代にしよう
結局今日も睡眠薬3種類飲んでも寝れない〜
夜4〜5時間寝て日中に1〜2時間寝るパターンが最近常態化しているのだが、下手すると夜の長い睡眠の方を身体は昼寝と認識しているかもしれないとすら思ったりする
金魚坂ハイカルチャー過ぎる
40過ぎると塾・予備校の講師としてすら採用してもらうのが厳しくなるらしい。
大学の非常勤の仕事から教育・受験業界にシフトして片足突っ込んだら、「塾ってこんなに楽に稼げるんだ〜」って感動したらしい(=博士とったあとの非常勤の辛さは異常なのだろう)。
まぁでも参考文献に限らず、自分のレベルとセンスが変わっていくにつれて巡り合うものや人も自然と変わってくるっていうのは何となく納得できるよね。
上野、秋葉原、新宿、渋谷、池袋、六本木、駒場、下北沢、高田馬場、錦糸町、スカイツリー、浅草、中野、阿佐ヶ谷、広尾、恵比寿、原宿、王子、駒込、千駄木、後楽園、白山、青山、赤羽、大手町、神保町、淡路町、お茶の水、三鷹、銀座、明大前、九段下、築地、汐留、お台場、etc…
ドメスティック志向というかローカル志向なので東京遊び回ってるだけで満足してしまって旅行とか行く気になれない。
横浜、鎌倉くらいはまた行きたいなぁ。
中々生活リズムが整わないの、どうしたものか。
「セルフネグレクト」か…
雰囲気が良いと感じた場所を教えてください。 — 駒場の裏側にある「絵本カフェ&バー 三叉路」とか。 http://ask.fm/a/alnjdhp9
眠れないにゃん〜
めぐたんさん見に駒場食堂に行くか
そう言えば「気持ちの切り替え」っていう感覚が本当に分からないんだよな~
時々刻々、何もかもが変わっていく
ひまわり寿司閉店してたのか…
現代文芸論の講義のレポートで、戦後の学園ドラマの系譜の中に『女王の教室』の位置づけ、『女王の教室』と『家政婦のミタ』を対比しつつ、当時の日本社会の政治状況の反映として両者を解釈し、前者における作品としての失敗がいかに後者につながっていったかっていうことを書いたことがある。
いらいらしてるスモーカーがタバコたくさん吸うみたいに、なんか常に水分とるのがクセになってて、それが習慣になった結果、体の側が対応して喉乾きやすい体質になってしまっているっていう
人生とっても飯田橋!
一時期早稲田の演劇をよく見にいってたときに学習院女子大の横をいつも通ってたことを思い出すと不思議な気分
倫理学徒として、龍さんはデビット・ベネイター氏のような反出生主義に対して賛同しますか、反対しますか。理由も
あー家家家いきたい…

2014年6月
経済成長って言葉がいまだにしっくり来ない
『思考の整理学』は各節3行でまとめられるようなことをだらだらと分かりづらく書いてあるエッセイでしかないので、国語の問題の題材にはなるかもしれないけど完全に無視すべき本
体幹を鍛えると肩こり腰痛が本当に改善するらしい
虚無ライスさんがブロックされるのなぜなんですか?
いやでも大学の先生にも頭の良し悪しとか教養の深さに違いはあるのだなぁっていうのはひしひしと感じるよ。みんな一定のラインはクリアしてきたのではあろうけども。
「(道端に咲いてるタンポポの花びらの数の平均を研究する)研究者になりたい。」
みんな小学校で自由研究したことあるんだから研究者だ!!
ワークライフバランス!!!
だりぃ〜楽で安定したポジションに収まりてぇ〜
肩こりに悩んでるんですか? — はい。 http://ask.fm/a/anhkfg71
生命倫理学って、「『倫理』規定」を作ってバイオテクノロジーの発展になし崩しにお墨付きを与えるためのアメリカ発の学問という側面があったのか…。
結局のところ職業的にどこに収まれば自分の望む形に近いライフスタイルが手に入るか、そのためにここ2~3年(最長で)をどう接続すればいいか、って話なんだよな。
怒られた経験が少ない分一回怒られたときにぐるぐる考えてしまうのは、「回数が少ない→大事なサインだと受け止める→怒られることで自分の考え・姿勢を修正する機会の少なさを一回ごとの衝撃の強さで補強する」という形でのある種の感情の適応システムなのではないかというようには思うのだが。
研究職を目指す気はほぼ失せてるのに「そんなんじゃ食ってけないぞ」とか言われても「ははあ、そうですか」としか言いようがないし、研究職を目指す気はないという態度を明確にすべきだろうか。そしたら院行けなくなるかな〜。
たぶん僕がまかり間違って常勤の研究職についたら、「ポスト確保した途端に論文一切書かなくなる人」になるので良くないだろう。
相変わらず人生迷走してるな〜
「五月病→夏バテ→雨の季節の憂鬱」と推移している
湿布を使い始めたら肩こりと首・背中の痛みが少し改善した。湿布を発明した人、神だ
いや自覚はあるから最終的に働くつもりではあるが。
精神論と戦略、どっちも大事、まだどっちも足りてない。
何としても自分の生きたいように生き延びてやるぞ。
正直、自分が何かを理解したいと思っているだけで論文やら本なんて一行も書きたくないのだけど、論文を書く過程でしか得られない理解というのがあるはずだし、書かなきゃ卒業・進学できないという制約の中で何とか書こうと思えているだけであって、そんな感じなので研究者やライター等には向いてない。
周りから見れば「???」「もっと柔軟に考えなよ〜」って感じの大したことない話なのだが。
ふと思い出したんだけど、僕の周囲だと『さよならノーチラス号』と『極楽トンボの終わらない明日』と比べると、案外『さよならノーチラス号』の評判の方が良かったのよなぁ。やっぱり本当に激素人の人から見れば技術レベルとかより単純な話の分かりやすさと面白さの方が大事なもんなのかなぁと思った
今みたいに文書作成ソフトでガンガン文章が書けて精緻に文章を作れる時代の感覚で、大昔の人が書いたテクストを一言一句まに受け取って細かい注解をするのは正直どうなんだろうってたまに思うのだけど、どう考えるべきなんだろう。
哲学的・実存的な問題としてというより、実際問題としてみんなが何に価値を見出してどういう行動基準で生活していて、たとえば映画を観るときにどう観ているのかとか、たとえば歩いてるときに何を考えているのかとか、たとえば「眠い」というとき人それぞれどんな身体感覚を感じてるのかとか、
『世界の中心で愛をさけぶ』も『白夜行』も、決して人間は自分のためだけに生きることだけは出来ないんだってことを劇的に訴え掛けてきているように思われて、でも僕自身は基本的に自分のために生きていると思っているので、その点価値観が揺さぶられる
Coco壱は実際、ファーストフード店っぽい内装のわりにはここ一番にしか使えない価格設定なのが謎
10兆円も降ってくると管理とかセキュリティとか面倒だし金遣い荒くなって警察に疑われたりしそうだから、3億円くらい降ってきてくれればいい。それならちびちびと使いながら一生暮らせるし誤魔化しがきく。
図解雑学シリーズって、専門家のひとにも案外評判良いよねぇ。
たぶん僕が専門的な学会とか見学したら「何でこんな下らない細かいこと研究してられるんだろう…。」って思ってしまいそう。
「あれは学者と言って、死んだ天才にめいわくな注釈をつけ、生まれる天才をたしなめながらめしを食っているおかしな奴だが、おれはあれを見るたびに、なんとも知れず眠たくなるのだ。」(太宰治『猿ヶ島』)
アリストテレスとかカントとか文理横断的にめちゃくちゃ色々研究してた人達に人文系の人しか注釈を付けないのは、彼らに対する大きな誤解を生んでいるもとのように思えて何か釈然としない気分だけど、ウィトゲンシュタインとかには注釈をつけてもらわないと彼が何と闘ってのかさっぱりわからない
2年前くらいに、親戚のおじさんの友達の、銀行からTBSの財務部に転職した人に赤坂のバーで飲ませてもらったことがあるのだが、理三の学生証見せても店員さんは「へえ~」って感じの薄い反応だったので、おお、これが世界か、と思った
セカチュー見たら、『現象学的人間論と看護』をきちんと読みたくなってきたな
いや、この先生きのこるには
正直、概説書ばかり読んでいたい…
ひたすら上澄みの面白さだけすくいとっていたい…
もう一度疑問を提起しておくと、某教授が「日本の大学ではカントの純粋理性批判を原書で講読する授業がある」とアメリカの哲学研究者に言ったら驚かれたらしいのだけど、その驚きは「レベル高いな…」ということなのか、「まだそんな古臭いことにエネルギーかけてるの…」ということなのか?
僕は原書で読むのは大事だと思うけど、博士課程の先輩が「あの論文の要旨、英語だと普通すぎるしどうせならラテン語とかギリシャ語で書きたいよね〜(笑)」って言ってたのにはあまりにも内輪向きな発想のアカデミズムを感じちゃっていやな感じしたなぁ。
同時代的に誰かに発信しようと思ったら英語で書くのが一番アクセシビリティが高いに決まっているのに、一体なんの知的遊戯をやってるつもりなんだろうと思った。
最終的に数学と語学(古文漢文日本語含む)きわめとくと何にでもある程度対応できるのではなかろうか。
独検3級も院試対策の一環に申し込んでおくか。
何か、みんなよく本に付箋貼ってるけど、あのメソッドの活用法がよくわからない。
死ぬほど貼りまくってる人いるじゃん?あれ意味あるの?
たっつんさんは確かにチャラい
ていうかいい加減和辻哲郎のお墓参りをしたい…
「もう〇〇歳だよ~」みたいな焦燥感とかではなく、周りも自分も否応なく歳をとっていて、すべてのものは変わっていって時代が移りゆくっていうことが何となく切ない、みたいな気分になることあるよね
是枝裕和監督で綾瀬はるかと長澤まさみ共演の映画は楽しみだな
2015年夏までは死んでも生きなければ…

2016年7月(今から振り返ると、物事に対する粗雑な解釈を振り回している場面が多い)
麻布の授業中のうるささには6年間打ちのめされ続けたなぁ
楽してお金を稼ぎたいなんてとんでもないと小学生のときくらいは純朴に思っていたはずなのだが、楽してお金を稼ぎたい。
・一部の院生が細かい議論をする ・学部生がついていけずにほとんど発言しない(できない) ・お互いそのまずさに薄々気付きつつも、その風通しの悪さが続いている という今のゼミの空気は何かダメ、ということで意見が一致した
うーむ、やっぱり英米とかに留学して科学哲学・分析哲学を学ぶっていう夢も完全には捨てがたい…
一度しかない人生、無難にまったりと楽しく進むか、冒険して頑張って遊びまくるか、どっちも捨てがたい。どっちがいいとかではなくどっちも捨てがたい。
っていうか、今更だけど、フッサール勉強するんだから榊原教授には積極的に媚を売っていかなければ…!
熊野先生は媚を売って何とかなるタイプじゃないから、実力というか素質を見せつけるしかないし、研鑽をつまねば。
「この部分に関しては〜な解釈と〜な解釈と〜な解釈とがあって、一番有力なのは〜」みたいな話ってどうやって手に入れたら良いの?
法学みたいに通説・有力説・少数説みたいな棲み分けをみんなで共有してるわけでもないし。
曲がりなりにも哲学を勉強してて、理系音痴が甚だしかったり世間に凄く疎かったりする人、ひたすら文献解釈ゲームに腐心してる人、哲学やってるのに結局専門バカなのかよと思っちゃって、やっぱりすごく軽蔑してしまうな。正直。
正直、専門バカになるくらいだったらただのバカでいた方がマシであるように思える。
「教養人」と「器用貧乏な人」の違いって何だろうね。
今日も生産性イマイチな日だったなぁ。
別に僕は文献学を否定してるわけじゃなくて、ことばを大切に扱う営みというのは好きなのだけど、一方で、もはや文献学にしか関心がなくなってる人が、その限界を自覚せずに「哲学」っていう言葉をちょっとドヤ顔で使ってるとすごく居心地の悪さを感じるっていうだけなのだが…
別に、一次テクストを書かなきゃ意味がないという意味で言ってるわけじゃない。いわゆる「教養」の幅を狭くしたまま、文献学をやってるだけで世界の全てをわかる「哲学」をやっているかのような顔をしてる人というのがたまにいて、それは何かイラっとする、という話
いきなり「中間発表あります、準備しといてね」と唐突に謎のメールが来て、内容・形式等を聞きに行ったら「そういう情報はちゃんと先輩から集めろよ!」と逆ギレされて、そういう感じの環境です。(少し盛ってる)
という風に、リアリスティックに考えれば考えるほど、人文系の大学教員を目指すのはハイリスクローリターンな選択肢であり、それを分かってる人は離れていくのだとすれば、人文学における人材の枯渇も進んでいくように思える。
まぁそれはともかく、やはり今の日本社会の状況を大局的に見た上で自分の人生のことを真剣に考えると、大学教員を目指すのは非現実的でしかないし、どこかで見切りをつけて就職しないとな。
.@millionsage おそらく東大レベルでも文学部だと、学部生のレポート・試験の採点、卒論指導などをしていると、あまり出来が良くない人が多くてかなりげんなりする仕事なではないかと思います。
@ergosopher なるほど…。性格的に言って、「職業としての学問」は僕には無理だと思います。
東大の倫理学科では応用倫理の卒論は推奨されてないっすよ。基本的に古典のテクストの解釈。応用倫理っぽい科目も倫理学科という枠ではほぼ開講されてないし。
たぶん東大の倫理学科は相当に硬派というかプライド高くて、「倫理学が応用倫理学として他の学問・実践知の手段みたいになるのはけしからん、あくまで原理を追求せねば」みたいな風潮を感じる。「アクチュアリティ」という言葉すら嫌う。よくこんな化石みたいな学科が残ってるなと思う。良くも悪くも。
「元気があれば何でもできる!」⇔「何かができないということは、元気がない」という対偶は積極的に主張していこう
僕の置かれてる状況とか辿ってきた来歴って、客観的に見てもかなり特殊な方だと思うのだけど、そうなると、一体これまでの自分の人生は何であったのか、これから自分の人生はどうなっていくのか、ふとした瞬間にとても不思議な気分になって考え込んでしまう。
普通に考えれば過去に起こった出来事それ自体は変えられないのだけど、過去の捉え方は実は日々刻々と変わっているわけで、その意味では今ここでの行動の積み重ねによって、過去の意味は変わってくるし、端的に言えば過去は変えられるんだって気付いたとき、とても救われた気分になった。
そういえば最近ある人に、「あなた高等遊民みたいね(笑)」って言われた。
基本的な質問なんですが、徒弟制度的な研究室コミュニティのあり方を俗に「講座制」というのですか?
@Tama_Goldheart なるほど~! 最近、年配の学士入学の学生の方が講座制への批判をしていて、講座制ってなんなんだろうということを気になっていたところなのでした。ありがとうございます!
ジンメルを訳しながら、「テンポ」と「リズム」の違いについて考える
なんか講座制って、学部・学科・研究室の編成の仕方のシステムとしてのニュアンスと、学統・学派の継承のあり方としてのニュアンスがあるんですかね
「愛という字を〜思い出すとき〜家族の顔が〜先に浮かんできたぞ〜」の健康感はやばい
「頑張って成功させるぞ!」じゃなくて「失敗したらどうしよう…」のネガティブ思考になるのはどうにかして直せるもんかね。
戸田山和久『哲学入門』はとても革新的で面白かったけど、何というか、抽象的な文句になっちゃうのだが、一番核心的な部分を最後まではぐらかされて終わっているような歯がゆい感じがした。
「ローマ法とイスラム法と律令制を比較しつつ、自由な観点から論じよ」みたいなめっちゃ教養主義的な問題が突然試験に出て来て戸惑い苦しむ法学徒たちの姿を見たくなって来たw
RT鍵 千と千尋って売春宿の話なんだよね~
トトロは神様でサツキとメイは巫女のメタファーなんだって、日本倫理思想史が専門の某教授が言ってた。何十回も見て研究したらしい。
一日一時間くらい運動した方が、体も鍛えられて体力ついて、夜も眠れて生活リズムが整って、生産性が上がって、運動する一時間分のロスタイムよりもメリットの方が大きいのではないか。
そうそう、まずキャリアサポート室に一目散に駆け込むべきね
まぁでもそれはそれで健康な世の中で良いような気もする。QT@ynabe39: このまま推移すると近いうちに成人でも大学生は飲酒禁止,もう少しすると20代30代でも習慣的に飲酒している人は社会的不適格者,というふうに進んでいくのではないかと予想している。
なんか「わりと楽しく過ごしていそうにも見える苦学生」と「経済苦ではないが苦しんでいる大学生」というのがいるよな~
斎藤環の評論は面白い作品カタログとしては使えるけど、ラカン用語をよく分からん雰囲気で使ってるので言いたい中身は薄っすらとしかわからない
ルシファーさんはただ面白がられてるってだけで、本気で何かを考える人は別にそんなにいないと思いますw
いま思い出したのは、いまでも物理系の学会には、相対性理論は間違っていると主張するアマチュア研究者もどきの人による論文が大量に送られてくるそうで。
まぁでも、ワープア的な、生活苦しくて人間関係での承認も不足してる人が、隣国を憎悪して国にすがることで、そしてそういう風潮をネット上で共有することで、かろうじてアイデンティティを保っているというのはあるんじゃないだろうか。
かつてデリダ論で輝かしい業績を上げ将来を期待された若き俊英が、40代に入り「ネットばっかりやってないで外に出よう、身体を使おう」というエッセイ本を書き出すのは老いたとしか思えない…w
そう言えばモスバーガー蕨店も閉店してたな。フランチャイズで、閉店させるという本部の方針と店舗運営側で争いがあったみたいで、本部への抗議めいたフレーズを含む閉店の張り紙がされていたのが印象的だった。
朝日のような夕日をつれての公演があると聞いて速攻で予約キメた
特定の一つのものをそれだけ長い期間好きで居続けるというのがどういう気分なのかあんまりよく分からないのだよな。なんかどんどん目移りして行っちゃうから…。
付き合いの長いものって、好きとか嫌いとか単純に言い難いような変な愛着が出てくるよなぁというのは最近気付いた
講義とか読書も、読んでるうちに別の話を連想し始めて全然別のことを考えてることも多かったりして、ひとつのトピックに集中するってどう頭を働かせればできるのかがいまだにあまり分かっていない。
男のメンヘラは一部のニッチな界隈に需要あると思う
オマテキさんてリアルではどんな方なんだろう(小声)
(江口先生のブログの自虐芸見る度に爆笑してしまう…)
佐世保の事件から無理に教訓を引き出すとすれば、身も蓋もなく言えば「著しく変な子は、わざわざ心を開かせる努力とかせずにあんまり深く関わらずほっとくようにしましょう」「著しく変な子は精神科などにつれていくようにしましょう」ということになってしまいそうで、なんかかなり哀しいよな…
甘えの構造の「甘え」概念は曖昧過ぎるから意味がないと小谷野敦が批判してたのを読んで、ああそうなのね、という感じでスルーしている本
しかし、林修が中島義道ファンって意外w
村山聖の生き様はひとつの憧れではあるよね。
何か夏休みをめっちゃダラダラ謳歌して楽しんでる感があってやばい。
ていうか実は夏休みではなくドイツ語の試験が一科目残ってるって地雷だし。
ask質問来ないしid変えられないし、店仕舞いだな〜。
龍さんの経歴は学歴コンプの人を刺激すると思うのですが、学歴コンプの人などに誹謗中傷のaskを投げかけられた... — ん~投げられたことはない気がします。もし来たら、答えた上でブロックすると思います。そういえば、法学たんの中... http://ask.fm/a/b2llno54
結局なぜ心なんてものがあるのか誰も根源的かつ決定的な説明はできていないし、昔の頭の良い人が考えた空想(たとえば輪廻転生とか)が巡り巡って実は現実に近かった、ということもないとは言い切れないと思うのだなぁ。
でも、自殺した人は地獄にしか行けない、みたいな信仰は、「死んだら全部なくなって楽になれる」という現代科学的な唯物論的発想よりは自殺の抑止になりそうだと思いません?
まぁ宗教の話はちゃんと理解してもらうのは難しいですねぇ。ただ、自分が何を暗に信じているのか、それを自覚していない時に、その信念(思い込み)は一番強くひとを拘束するということはありますね。
もちろん、素朴な意味での、むかしの人びとが考えた神・天国・地獄のようなものはないと思うけれども、でも、なぜむかしの人びとはそういうことを考える想像力を持てたのだろう、ということを疑問に思ってます。動物は神とか考えないと思うのだけど、何故それより頭がいいはずの人間が神とか考えるのか
それは、人間の抽象的思考能力・想像力のある種の暴走でありバグなのか、それとも世界の何らかの本質を直観的に把握しているのか。ふつうに考えたら前者なのだけども。
あるいは、たとえば旧約聖書には、神が自分たちを救ってくれるなんてありえるんだろうか、そんなの都合の良い幻想なんじゃないだろうか、っていう疑問を提起するようなテクストがたくさん収録されていたりもする。ナイーブに偽善的な事柄を信じることが宗教というわけでもないと思うのです。
「心とは何か、〈ここ〉にある心がなぜ〈世界〉を把握することが出来るのか」とか、「なぜ何もないのではなくこの世界が存在するのか」とか、そういうことを考えてたりすると、物理学の知見とかをいくら取り入れても、たぶん確定的な解答は現代の人間は出せていなくて、そうすると「???」ってなる。
そういう根源的なことを考えてると、現代人が考えている「死んだら何も感じない無の世界になって終わり」という唯物論的なひとつの想定も、ほんとうにほんとうにそうなのだろうか、という疑問を差し挟む余地もあるよなぁとは思えてきます。
.@daichi1984 僕はそういう時、「でも結婚したとして離婚しないとも限らないし、離婚しないにせよ幸せな家庭が築けるとは限らないし、そもそも何歳まで生きているかだって分からないし、それだけの理由で結婚という形の選択をする必然性も別にないような…」って思っちゃうんですよねぇ。
ん〜まぁ確かに。というかまぁ僕が考えてるのは、個人の自由と社会の秩序はいかにして調和させられるかという、よくある話の一種でもあると思うのですけどw
現実問題として、極端に考えれば、生まれて来なかった方が良かったと最期まで思い続けるくらいに不幸な人生を送った人というのは少なからずいると思うし、生きていることそれ自体が100%純粋に無根拠に肯定できる善いことだとは思えないなぁ。
倫理なんて極端に厳密に考え過ぎるとキリがないからそこそこのポイントで落ち着かせておきましょうというアリストテレスの洞察は凄いと思う。まさにそこにハマっているので。
高野悦子『二十歳の原点』を初めて買って読んだのは、確か18歳の高3のときの東北大入試の前日で、仙台のジュンク堂で買ったように記憶している。
鉄道への飛び込み自殺で人生を終えた、女子大学生の高野悦子さん(1949〜1969)の、二十歳になってから自殺するまでの半年間の軌跡が日記に収められていて、ある種の青春文学として読めて、彼女が紡ぎ出す純粋で繊細な言葉と、その言葉に乗せられた自己や社会への苛立ちなどは、心揺さぶられる
はじめて読んだときは高校生だったから、「ああ、こんなお姉さんがいたのか」という感じだったけども、折に触れて繰り返しパラパラ読んでいくうちに、もう既に高野さんの3歳上にもなってしまったのだな。
いまもし生きていたら65歳か。きっと彼女と同じような状況で悩んだたくさんの「高野悦子」さんは今でも生きていたりもするのだろうけども、たまたま高野さん本人は感受性が鋭敏過ぎて死を選んでしまった。でも、その死があったからこそ、日記が公に出版されて、今でも読み継がれる作品になっている。
まぁ、あえてキャッチーに言ってしまえば、「古き良きメンヘラ」という感じの趣きもあるのだけど。
ときには『二十歳の原点』にギリギリ心を支えられながら生き延びていたような頃もあったように思うけど、24歳を目前にした今読むと、「うん、うん。こういう風に悩む時期もあるよねぇ。」という風に思ってしまうんだよな。それでも現実には、高野さんは死を選び、僕は生きているんだよな。
アンネの日記なんかも、クラスメイト(だっけ?)に対するどぎつい悪口なんかも書かれていて、今読み継がれていることを果たして当人がどう思うかは分からないですよね。ジャーナリストになりたいという夢は、結果的に思わぬ形で叶ってしまった、とも言えなくはないけれど。
(*´ω`*)
結婚に対する社会的圧力が弱まって、少子化・非婚化が進むのは良い面もあるのではないかと思う。機能不全家庭で育った人が機能不全過程を築き、不幸な家庭が延々と世代を超えて連鎖していくよりは、幸福な家庭を築く積極的な自信と覚悟のある人だけ結婚すればいいという考え方もありでは。

2014年8月
僕も他人からどう見られてるかいまいちよく分からないんだよなぁ。結構怖がられてるというか、面倒くさがられてたりもするのだろうか。
オマテキさんこのタイミングでふぁぼるんですかwww
ガザの72時間の停戦合意が2時間で崩壊したって、傍観しててもかなりげんなりする話だし、当事者としてはたまったもんじゃないだろうな…
ていうか大学院は研究者養成のみのためにあるなんてカビの生えた発想なのかと思って失望したしなんかもうあれなのだけど…いまどき文学部がそんなことやってたら衰退産業になっていく一方じゃん…?
結局、STAP細胞とされたものはES細胞だったのではないかという疑いというストーリーなのね
@masumind ん~どうなんでしょう。大学の先生って、まじめにやっていれば講義やら研究やらで人類文化の発展に寄与していると思うのですけども。もちろん興味の追求ではあるといっても、職業的にやる以上いろいろな制約は受けた上でやっているわけですし。
.@masumind そうなのですけども、どこから芽が出てきて花開くか分からないからこそ、様々な多様性を持った研究が行われている必要があるわけで、やはり期待値的に考えれば人類文化の損失になっているのではないかと僕は考えます。
明日起きたら『僕の彼女はサイボーグ』を観る
オーケストラのピアノの譜めくり役の苦悩をモチーフにした詩とか誰か書いてないだろうか
物理的暴力はあかんやろ…
そうも思う一方で、どんなに頑張っても、わずかに知り得たことと殆んどの知り得なかったことを残したままでこの世を去らなければ行けないのかと思うと、とても儚い気分になってしまうんだよなぁ
確かに、そうですね。“@masumind: @algorithmicism それは欲が深い。そんな事を思う時間があれば前に進むなり、外に出て行きましょう。”
「希望というものをあれほど強い快感にしているのは、われわれが思いのままにする未来が、ひとしくほほえましく、ひとしく実現可能な、さまざまの形のもとに、同時にわれわれに対してあらわれるからである。たといそれらのうちでもっとも望まれていたものが実現されるとしても、…
…残りのものは犠牲にされねばならず、したがってわれわれは多くを失ってしまうことになるだろう。それで、無限の可能性でふくれ上がった未来の観念は、未来そのものよりもいっそう豊かであり、そしてこれこそ、所有よりも希望に、現実よりも夢に、よりいっそうの魅力が見いだされる理由である。」
y_ogwai おはおはーーーー☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆☆*:.。.
逆に音楽を理論的に勉強したことないから、音楽を音楽自体としてちゃんと楽しみ尽くせていないだろうことが残念で、いつか音楽勉強したいよな~
名の質問者のせいで自分まで龍さんの髭事情に関心が芽生えました。お髭は濃い方ですか? — まぁ普通なんじゃないだろうか…。そんな気になんない程度だろうと思います。でも気にしたら気になるでしょう。とにかく髭の剃り方が雑なのですw http://ask.fm/a/b3lddh1l
雫さんは、肩叩いて振り向かせてほっぺたつんってやる遊びを三歳上の先輩男子の僕に許可してくれた子です
『僕の彼女はサイボーグ』は名前からお察しの通りDTの妄想っぽいお話でした
ていうか、公務員試験予備校とか超つまんないところだろうな〜と覚悟していたのだが、今日よさげな先生にめぐり会えたのでちょっと希望が出てきて良かった
たとえばもし、タコでイメージされるような宇宙人(知的生命体)がかりにいたとしたら、どんな数を思考の基礎として使っただろうか。8進法?肯定/否定の対立から二元対立的思考は当然にうまれる?
それとも、人間の身体がシンメトリーに、二元対立的にできているから、肯定/否定という論理形式が生まれた?
わりと僕は隠れ肥満的な傾向が強くて助かってきた気がするが、それでも最近は若干まずさを指摘される段階。
今日の個人的なハイライトは、雫さんに「その目の使い方、鏡の前で練習してるの?」って聞いたときにゆの介とべとりんが吹き出したときだった
あれを無意識にできちゃうんだから、やはり皮肉抜きに天性の才能だと思う。
僕の部屋はいま本が散乱してます
本が散乱してるの楽しんじゃってる側面は少しあるなぁ
「分かる」こと、「分ける」こと、「割り切る」こと。
社会常識とか人生経験とか、そういう生活の知恵レベルで理解できる話に対して、いちいち学問的なターム使われると、ちょっと一旦落ち着きましょうぜ、って気分になる
終わらない青春だ〜
英検一級は結構ガチで難しいはずだからルシファー氏がもっているというのは正直ビビる
「まいにちフランス語」と間違えて「テレビでフランス語」を買ってしまっていた…
実際世の中って、平凡なことを平凡に積み重ねられれば十分に優秀なんだよなぁ
小学校の成績通知表にすら、「整理整頓かきちんとできる」「あいさつができる」「みずからの考えたこと、感じたことを表現できる」etcみたいなことがずらずら書いてあるけど、小学生のときからぜんぶ万遍なく出来たらすごいよなぁ
ここ二週間くらい根本的な部分が進捗しなさすぎで生産性が落ちまくっている…
dmng=ダメ人間? — はい。まぁそういう気分になるときもあるもの…。
卒論が凄い勢いで書ける壺ほしい〜
新宿ゴールデン街にある謎な劇場行ってみたいな
『存在と時間』は、「自分の在ることが気になる」という現存在の在りようを、それを構成する主に三者の契機を取り出して分析する作業が、気遣いや開示性、時間性、歴史性といった、いくつものレベルで繰り返される体裁を取っている。そのせいもあって、別々の言葉が互いに似た意味やほぼ同じ意味で使わ
三者の契機って言われて三者が何だか分からないくらいに頭が錆びてる
Yuiのチェリーなんてまだ7年前だけど、恋のはじまりの携帯メールのやり取りの描写なんて完全に時代遅れのフィクションな感じあるし、やっぱりやばいよ最近の入れ替わりの激しさ、と思ってきた
郁文館夢学園(ワタミが買収した中高一貫校)に子供を通わせたい親ってどんな層なんだろうか
確かこりんき師匠によれば、愛とは神の側にあることだっけ
もふもふもふもふもふもふもふもふ
中居正広のISDNのCMはギリギリ覚えてる
その彼だって、今はダメになっているとしても、あなたとの経験が5年後10年後に何らかの糧になっているかもしれないし、そんなにすぐに物事の結果を決め付けなくても…と思わなくはないです
救急医療で頑張ってる人の「死後の世界はあるという確信」はそんな一概に馬鹿にするのも不謹慎か…?
「家系を絶やさないために」ってラーメン屋の話だと思っちゃうくらい思考が汚染されている
僕の友人というか知り合いの範囲内で、いちばん重度のメンヘラ、というかメンヘラという手垢のついた言葉が通用しないくらいに深刻な精神疾患罹患してる人は、精神病院への入院歴があったり、大学病院に通院していたり、自殺未遂の経験は当然あったりという、かなりやばい感じで、
たった数十年前まではAVなんてものもそもそもなかったのに、今や一度撮影されたものは半永久的にフリーでWeb上を漂い続けてしまうのだから、とても非人道的で暴力的な話ではある
まぁ経済的事情さえクリアできるなら留年するに越したことはないのでは、と僕は思ってしまうよ。留年はペナルティーではなく権利だよ。どうせ世の中どうなるのか分からないのだから、生き急がずに若いときに時間を無理やり作って力をためておくことは悪いことじゃないと思うよ。(悪魔の囁き)
僕は、いちおう色んなアンテナ張ってさまざまな人に相談して視野狭窄にはならないようにはしているつもりなのだけど、最終的に自分の人生について強く拘束的な意見を僕に言える立場の人ってもはや誰もいなくて、それは強みでもあるのだけど、弱みになっているということもひしひしと感じている…。
僕としては、社会的にも個人的にも「勿体ない」人生にならないように生きようと折り合いつけようとしているつもりなのだけども。
自分が否応なく社会化されていくのを感じる
もう十分人生楽しかったし、どうせ棒に振るなら思いっきり棒に振っちゃえ、みたいな気分があったはずなのに
この経歴で、僕がキャッチーな事件で冤罪で捕まったりしたら、「あぁなるほどね…こういうやつなら無理もないね…」みたいな感じで納得できそうなストーリー作られて報道されそう。ツイッターのつぶやきたどられて、感じ悪いツイート抜粋されてナレーターが神妙なトーンで読むとこ想像できる。
善良な市民でぃょ。。。
ツイッターで、弁護士・ジャーナリスト・大学関係者等々の自営業的な形態の人たちの考えはだいぶダイレクトに発信されるようになって、それはそれで見える世界が広がるようになったような気はするのだけど、官僚とかサラリーマンとか、組織に属している人の生の本音みたいなのは見えてこないのは残念
ガロア理論入門の授業を高校2年生と一緒に受けていて、4日目なのだがそろそろ脱落しないか不安…
哲学塾カントっていうのもネーミング微妙だけど一回覗きに行ってみたい感じある
ともかく大学なしで勉強を続けられるスキルとリテラシーを身につけねば…
うまくネットで書籍やら研究会やら私塾の情報へのアンテナ張っていけるようになれば、あとは物理的環境と時間的余裕を確保できれば少しずつでも…と思う
勉強って語学と数学と歴史的知識につきるなぁ
なぜデカルトは座標平面の発見より方法的懐疑の話の方が哲学史上の主要業績と見なされちゃうのだろう
無洗米使えば、炊飯器でご飯たくのは洗濯機回すのと同じレベルの簡単さだと聞いた
なんかやっぱり家庭科の資料集欲しい
バイトのお誘いが来た。お世話になった方からのお誘いだし、興味はあるし、でもやる必要性は必ずしもないし、他に時間をかけたいことはあるし、悩ましい…。
去年のゆずのライブで、ラブピーダンスに参加しましたか? — ラブピーダンスって何だか分からないし、覚えてないですねぇ…なんか変な振り付けの動きをみんなでやる時間はあった気がするのですが、僕はノリ悪い感じで突っ立ってました。 http://ask.fm/a/b69cke5p
つねにすでにいまここに生きているから、としか言いようがないように思う
どんなジャンルでも、ちょっと入門すれば何にも知らない人からはいっぱしの詳しい人っぽく見えるが、そのジャンル内には上には上が果てしなくいつづけるから、どこを基準に好きさや詳しさを判定すればいいのか分からない問題
龍さんのツイートが近頃不穏なくらい穏やかですけれども、何か心境の変化があったのでしょうか?? — そうですかね?>不穏なくらい穏やか http://ask.fm/a/b6h6cdhk
黒澤明『七人の侍』観てきました
生の目的は生それ自体ではなかろうか
今週のドキュメント72時間は、歌舞伎町ネイルサロン
次回は福島第一原発から最も近い駅の72時間だそう
読者投稿だけ延々と載ってて投稿者の住所も掲載されてる『ポンプ』という雑誌が1970年代にあって、ツイッターの先取り的なあれだったらしい
昨日ふと東京新聞を読んだら、同じ日の読売新聞と比べて別の国の新聞かと思うくらいピックアップされてる事件が違った

2014年9月
明日から二日間ポアンカレ予想に関する話を聴きに行きます
RT鍵: バイト先の、30代フリーター(男性)から偉そうに人生の先輩としてのアドバイスされるの納得いかない。
お米のとぎ方とか、玉ねぎの皮のむき方とか、揃えるべき調理器具とか、皿の洗い方とか、ありとあらゆる基本的な知識がゼロから書いてある料理本ほしい
「服屋にいく服がない」問題はあらゆる分野に同じような構図があると思うのだけど、僕にとって料理というのはそれくらい敷居が高い
中年向けの男性ファッション誌を真に受けられる経済力があるほどの中年男性がファッション誌を真に受けるのかっていう疑問がいつもある
クワインの壺って、メビウスの輪の端っこと端っこをくっつけた4次元の図形なのねぇ
朝日新聞が池上彰とドタバタしてるの面白いw
一人暮らし4年目にしてついに掃除機買ったよ〜
今までほうきとアルコールティッシュくらいで何とかしてたから大進歩
変にもの分かり良いぶってメタ視点で斜に構えて冷めちゃっていて、結局どこかで自己防衛してて、そんなの全部捨てて、ワーッて気持ちを解放して泣いたり笑ったりできたら、少なくともときにはそういうことも出来るようになったら、きっと僕の人生はもっと素敵になるはずだと思っているのだが
たとえばの話、カウンター形式の飲食店とかで、自分はちょっと高めのメニュー注文して、となりの人(赤の他人)の頼んだ普通のものチラっと見えただけでも、「あ…ほんとすいません…」って僕は思ってしまうのだが、こういう感覚に共感してくれる人っているもんだろうか…?
「モノ(資源)」を「融通」し合うための経済的媒体として貨幣制度が発達していって、いわばそれは「物-融」とでもいうべきものだったと思うのだが、さらにその貨幣(金カネ)を融通し合うために「金融」の制度が更に二階建てに発展していって、そこにも紙幣・証券・債券・投機色々あって…
演劇・音楽サークルはいつクラッシュしてもおかしくないという結論に至ったサシ飲み
今までの人生で感じたことのない類の、悔しさと罪悪感と、もしかしたらずっと響き続けるかもしれない…
4年前くらいに初めて来たときはみんなお洒落なのかなとビクビクしたけど、最近たまに来ると「みんなお洒落ぶるのに大変だな〜」みたいな謎の余裕と上から目線にシフトしてきた
孤独と不安のレッスン (だいわ文庫) 鴻上 尚史
人生に希望をくれる12の物語
いま思えば、氷上先生の始業式終業式のあれはオーラあったなぁ
この三人はほんと強いなぁ…
なんか内容よく聞いてないけどこの三人が今週も変わらずしゃべっているのにホッとするって感じになったなぁ
死刑囚・作家の永山則夫の生い立ちなんかの話を知ると本当に悲惨で、さまざまな環境のせいで否応なく精神に不健康さを抱えていってしまい、そんな中でも懸命に生きている人というのはいつの時代にも、おそらくはどこの社会にもいる
学生演劇の舞台、たいていは2〜3日やったら解体されてしまうのに、そのために一ヶ月〜二ヶ月かけて一生懸命作り続けるという、そのモチベーション、僕にはあまり感じられなくて、だからみんなが頑張ってるの本当にすごいよなぁといまだに思う
「ジョハリの窓」の発想とかはわかりやすく整理してる。
なんかものすごく大きな責任を抱えているわけでもないような気がするのだが、心の中の世界でどんどんと不安と憂鬱が増殖していってる感じがする…
スティーブジョブズっていうのは周りをブラック労働に巻き込むぜっていう意味で言ってるんだろうか
ただ、「本当に役人になんかになっちゃうの?」みたいなこと言われて、そこには幾重ものニュアンスがあるような気がして、ここは幾重にも揺さぶられるべきなのだろうか、という気もする
もう青春は終わりだと何度も思ってきたはずなのだが
「好きになった相手にたまたま妻子がいたの。これを世間じゃ、不倫て言うんでしょう?」
「一番の理由は、その宗教が、セックスを拒否してたからなの。セックスは、罪悪なんだ、悪魔の仕業なんだって説明されて、心底ほっとしたの。ああ、私の居場所はここなんだって思ったの。」
「私の愛した人はみんな私から去っていく。どうして、どうしてなの!どうして嘘をつくの!どうして私を裏切るの!どうしてもう愛してないなんて言えるの!」
「どうしてそんな事が言えるの!どうしてそんな顔ができるの!どうして他の人を愛せるの!どうして他の人が抱けるの!どうして、愛してくれないの!?」
「どうしたらいいの、私はどうしたらいいの!あの人のいない生活なんて、あの人のいないテーブルなんて、あの人のいないベッドなんて、あの人のいない毎日なんて、私はどうしたらいいの!」
腹痛〜
同じ地区に、日本最高峰の博物館・美術館の並びがある一方で、ホームレスがいて風俗街があり…
今でもかすかに覚えている、幼稚園児くらいの幼い頃に一緒に近所の公園で遊んでいた子、その後中卒で水商売を始めたという噂だけ入ってきた一歳上の女の子は、いま一体何をしているのだろうか
何かそういう、身近にある格差社会の闇みたいな話ってみんなあるものなのだろうか。あった上で、そんなに普段露骨には話さないものなのかな。
なんか幼稚園生くらいの時に悪い子の子分みたいになっちゃって一緒に万引きさせられて店に超怒られて親同士トラぶってみたいな話あったなぁ。
母方の祖母は、やたら学歴とか社会的地位とか気にしてコンプレックスが垣間見える人で、亡き母もそういう思考回路を完全に受け継いでしまっていて、僕自身にもそれはおそらく今でも少なからず響いているのだが、それを自覚して対象化できるようになったときから大分悪影響は薄まったように思う
父方と母方の宗教的(宗派的)衝突というのがあって、いまだに二人の骨を一緒に埋葬できていないのよね…
これから長くいきていけば、おそらく、ともにひとときを過ごした仲間の中で、何らかの形で命を落としたり、社会から脱落していったりする人は一定数出て来るはずで、それが紛れもない現実なんだろう。
そういうことが起こる度に、自分の無力さとか、自分もいつかはそうなるかもしれないという不安とか、逆に脱落せずに生き残ってきた罪責感とか、すべてひっくるめたやり切れなさとか寂しさとかが募っていくような気がする。
「祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である」
「記憶の中だけに住む人だけど今も私をそっと包んでる」
タバコと塩の博物館いったら喫煙寛容派になった
結婚と恋愛の重さはやはり全然違う。ふつうこの国において結婚するということは、最終的には紙っぺら一枚の正式な約束を交わして役所に提出することで、そのことによって法的にお互いに様々な責務が生じて、戸籍に正式な記録が残り、場合によっては国家権力による折衝も受ける関係に入る訳だから
朝の満員の丸ノ内線で大きな荷物抱えながら日経新聞読んでる女性、ただ日経を読んだ気になりたいだけではないのか
メール少しずつ進捗させてますがいかんせん凝っちゃうのと疲れてるのとで時間かかるかもです…
「太宰治や宮沢賢治は、はっきりと富める者、搾取する者たちの側にあった。その作品には罪の意識が隠れ、あるいはあきらかに顕れている。和辻にはそうした罪責感覚が希薄である。少年期をふりかえる和辻の視界を染めあげているのは、むしろ慕わしい懐かしさであったといってよい。」
「村ではただ二軒の、農業に従事しない家に生まれた和辻少年の立場は、なにほどか複雑なものであったろう。和辻は、寒村の、とはいえそれなりに恵まれた一家の出身であったのである。」
「どんな思考回路だって、それまでの自分の人生で自分を守るために自分が否応無く作り上げざるをえなかったかけがえのない思考回路なんだから、ある程度は肯定した方が良い」ってカウンセラーさんが言ってました…
okdさんのふぁぼはいつも素敵です
この波でいくと、5年後くらいには僕は驚くほどの人格者になっている…はず…
僕のピュアなラブの話でサークル中が盛り上がったりした頃はもう4年前…
あの頃のRadisher世代は「恋って何なんだろうね?」みたいなお前ら中学生かよって話を夜通し話していたりした、今思えば凄い純粋な世代だった

2014年10月
僕の中にも純粋さを求める気持ちと世の中に対する憎悪とが同時に渦巻いた結果として性格の悪い言動となって結実しているのだということをどうか少しは理解してほしい…
なんか秋葉系?のサブカルコンテンツはあんまりフォローできてない。けいおん!ってJKがバンド組む話?まどマギの劇場版は観た。ラブライブは最近タイトルが耳に入り始めて何の話だか分からない。プリキュアってタイトルしか知らない。ハルヒとかエヴァとかその辺は懐かしい。
やっぱり柳井正に誰か売り込んでシンクタンク作らせようよ。
なんか本当に最近は時代の移ろいの速さを感じさせる出来事が周りに多い。
なんか先生、ベートーベンみたいな髪型になってたぞ…。
あるカップルが2〜3年の長期間付き合って別れる初めから終わりまでをそれなりの距離感で見届けた例は実は今までなかったような気がする。それが二件重なると、なにか他人事とはいえ切なさと時の流れの残酷さとを感じる。
きっと20年後にもなれば、誰々と誰々が離婚したらしいよ、みたいな話題が否応なく出てくるのだろうねぇ。
誰々が死んだ、みたいな話はあまり聞きたくない。でも、歳を重ねるにつれて増えていくのだろうね。
同窓会に来る人と来ない人がだんだん分かれていって…とか
適当に言いたいことを言い散らかしてるだけのつもりなのだか、どうしても上世代ってだけで権威付いてしまうので、僕の悪影響が及ばないようにそろそろみんなをブロックした方が良いかもしれない…
船曵ゼミで、駒場に乙武さんを呼んで話を聴く公開討論会みたいなのをやった時に、船曵先生がセックスに関する話題について振り、乙武さんも動じず答えてて、メディア慣れしてる人達は凄いものだと思ったと同時に、確かにそう言われてしまうと乙武さんの性事情はどうしても気になってしまうのだった
どうやらこの状態は急性カフェイン中毒と呼ぶようだ…
死っていう話で言えば、直接の友人・知人のレベルだと、救急車来たりするくらいの自殺未遂経験の話は2〜3件は耳にしたし、友達の友達の範囲だと自殺したって話も数件は聞く…
もちろん多くの人がこれくらいの年齢になると感じるように、「はぁ…もう24だよ…」という気分もあるけれども、24になってこれだけちゃんと生きてられるとは昔全然思ってなかったしもっと悲観的に将来を不安に思ってたから、あえて喜んでみようと思う
こういうとき、判断力と決断力が極端に落ちてどうしようもなくなるのだなぁ…
とりあえずラジオ体操をやるということになった。
「自殺 neverまとめ」でぐぐって心の慰みに…
僕は相当浮世離れした環境で生活していて、それは恵まれていると同時に不幸な一面もあると言われ、まぁ確かにそうだと思った。
あと、やっぱり僕は、客観的に公平に見てかなり変わってる人なんだろうと思う。
半端なく睡眠の質が悪いなぁ。
数行で終わる小さな報道記事の背景に関係者のどれだけのイザコザがあるんだろうってたまに考えると途方に暮れるよね
べとりんと飲んでみたい
有吉が風俗店のアンケートの切なさについて語っている
大学に進むってことは、いろんな人生の可能性を切り捨てて、一番汎用性の高い可能性を温存しておくリスクヘッジという
お金で買えないものがあるってきっと頭ではわかってると思うんですが、お金で買えないものがあること、実感として伴っていますか? — 逆にお聞きしたいのですが、僕はそんなに何の苦労もしたことのない人に見えるんでしょうか? http://ask.fm/a/bcnko19e
倫理学科や哲学科で将来学者として花開くと思われるような方はいますか? — すごい憧れる院生の先輩がいます。数学基礎論から仏教まで学びつつ、新カント派の某学者の研究をしてる方。 http://ask.fm/a/bd0hfae8
飯島愛が亡くなったのは2008年だから、ちょうど僕が現役の大学受験生だった頃か
レヴィナス、何言ってるかよく分かんないけど読んでるとなんとなく慰められてしまう。
世界は空であることを悟った。

2014年11月
高校生ぐらいまでほとんど完全に感情を麻痺させて生きてきたから、ひとつひとつの感情を丁寧に感じ取って消化して、色々な感情的経験を積みたいねぇ。
どうして僕はこんな下らない生活を送っているんだ〜っていう気分になっている。
何か壁にぶつかっている気がする…。
誰か僕の根性を叩き直してくれ〜
.@masumind そう言われると、燃え尽きた、みたいな感じに近いかもしれません。
物理的には何も動いてないから全部頭の中での出来事なのだなぁ僕よりもっと苦しい人はたくさんいるかもしれないけども、とはいえ僕自身も現に苦しくて何もできなくなってることも現実だからねぇ…
僕よりもっと苦しい人はたくさんいるかもしれないけども、とはいえ僕自身も現に苦しくて何もできなくなってることも現実だからねぇ…
ただ、お互い全く知らない赤の他人だったのと同様の状態に戻っただけのはずだとしても、否応なく消し難い痕跡をお互いに刻みつけていっちゃうのだよね…
今日は、漢文の江戸時代における訓読法の二つの流派の違いについてと、ワンナイトラブは割と普通にある(某女子大生の情報)ということを知って終わった一日だった。
メンタルが弱ってるというのは脳という臓器が弱ってるってことだからねぇ
「歯磨きしなくても一日3回くらいモンダミンで大丈夫っしょ~」ってことを1か月くらい続けてしまって久々に歯磨きしたら血が出まくった…全然大丈夫じゃなかった…歯医者いこ…
横浜のキャバ嬢の女子寮潜入取材っていうテレビを見ている。
21歳で月100万か〜
麻布がというより、中高時代の自分が本当に嫌いだ
中高時代はうまくいってたけど大学以降迷走してるよね、って外面的には見えちゃうのだけど、中高時代の方が圧倒的に暗黒だった。けどもその感覚はうまく表現できないからほとんど誰とも共有出来ないのだよね…
白夜行のテレビドラマは、性・暴力・愛・正義をぜんぶ生々しく描き出してるところが良い。
断続的につけている日記を読み返していたら、去年の3月のところに、「25歳になるまでは何があっても死なない」って書いてあって、随分と思い詰めていた頃があったんだな〜と思った。
そんなことを書き付けたのは、多分、鴻上尚史が昔そうやっていたという話をみてマネたんだと思う。
2年前の7月の日記に「体重56kg、痩せたい」と書いてあって、いま体重は遥かに増えて痩せたさは減ってるぞ…
2年前の6月の日記にはひたすら「自分は無価値じゃない」って書き連ねてある…
2011年9月の日記には、「人って表情一つ変えずにあんな簡単に嘘をつけるものなのかと思うと人狼をやるのが怖くなった」と書いてあって、本当に昔は純粋だったんだなと思った…。
「無駄に色々と空想を広げて不安になるのはよくない」って3年前の日記にも書いてあるけど今でも同じだな〜
「善意や優しさの気持ちだけじゃ不十分で、それを現実に移せる力(能力や努力)こそが大事なんだ」とか
白夜行の好きなシーンは? — 雪穂と亮司が自首しようと一回決心しかけて、その前に、と二人で深夜の教会に忍び込み、亮司の前で雪穂が教会の内装をぶっ壊し回って叫ぶシーンが一番好きです。二番目は、第1話の最初のシーンで、雪が降る街... http://ask.fm/a/bep28990
十字架がまたひとつ増えていく
人生に厭きたモードに…
もう一生言葉の牢獄の中に閉じ込められて彷徨い続けるだけなのだ…
こんなのも所詮は気分と体調の問題なのかと思うと虚しくなるなぁ。
どうしてもこの時間帯に1回起きてしまう…
また起きた
@daichi1984 クリスマスイブに吉原のソープで脱童してそれ以降もいない歴年齢の人知ってるんですが、どっちが悲惨ですか?w
「超越」とか「異常」とかそういうテクスト上に出て来ない分析概念は誰のどういう研究の蓄積で出て来てるんだろうか。それはみんな各自何かで勉強してるのか?
ふつうに古文で書かれてるテクストの研究の歴史から「超越的存在」みたいな現代日本語的な熟語の分析概念がどうやって作られてきたのかがすっ飛ばされてるのでわからん。どうやって勉強すればいいのか、何となく慣れておけばいいのか…?
ふつうの人は人生で後悔してることってあるんだろうか?
短期的には後悔することはあっても、長期的にはだいたい全部受容する方向へ行かない?
というか、現実の日常生活のレベルで、他の人が日々何をどう感じて何を楽しんで何を苦しんで何に意味を見出してて、どういう人間関係・経済状況にあって、どういう生活リズムと思考回路で生きているのか、それとの相関関係で僕はどれくらいの立ち位置にあるのか、みたいなのがどんどん分からなくなる。
幸か不幸か、僕が相当特殊な状況に投げ込まれて生活しているんだなぁということは日々実感するのだけど。
ときどき自分でも気付かずに、誰に対してでもなく「死ね」ってかすかな声で繰り返しささやきながら歩いていることがあるね
なぜ生きてるのかというと、人間はすべての行為を明確な意図に基づきやっているわけじゃなくて、意図せずして何らかの行為をすることはたくさんあり、そういう行為の集積として、あるいは生物としての機能全体の方向性としてたまたま生きているのが実態であり、何か明確な理由のもと生きてる訳じゃない
なんかでも、本を読んで精神的に慰められるというのは実はほとんど初めての経験のような気がする
なんか最近世界の見え方が大きく揺らいでいるような気がする…
博物学的な知識への欲求がストンと枯れてしまった気がしていて、もっと腰を据えてやるべきだと身体が促しているような感じがする。
ひたすら読書と勉強に徹するような生活を開始した方が良いだろうか。
薄幸の美少年に生まれて詩的なイメージを漂わせたい人生だった。
自律神経がどこにあってどう機能してるかとか全く知らないのだけど、とりあえず自律神経のせいにしとくと落ち着いて自律神経をコントロールしようとするとうまくいくから、自律神経という概念が大事なのだ
中高時代の方が圧倒的にダメだったよ。ただあの時期に勉強だけはちゃんとしておいたのは本当によかった。
オムライスさんはいつも誰と闘ってるんですかw
ていうか、時間を見積もる能力を伸ばしていかないと常に不安感を拭えない人生を送り続ける気がする。
インターネット上で「豆腐は白い」って書くと、「白くない豆腐もあります」「白い豆腐が食べられない人もいるんですよ!」「私の豆腐は白くありませんが」「厳密にいうと薄いベージュです」「豆腐は黒くあるべきです」「豆腐信者乙」「豆腐主義者め」「豆腐とはお前自身だ」などのリプがきます。
20代後半の倉木麻衣が歌うSecret of My Heartは悪い意味で切なすぎる
あんまり関係ないけど、『判断力批判』っていうときの「判断力」と「批判」って本当に絶望的なくらいに凄く日常的な日本語のニュアンスとかけ離れてるよなぁ
そりゃまぁ哲学書だって小説とかじゃなくて学術書なんだから、独特の専門用語がたくさん使われててそんな簡単には読めないのは当たり前っちゃあたりまえなんだけど、日常日本語としてふつうに使う「認識」とか「存在」とかにすら膨大なニュアンスが込められてるのだから、どの熟語にどういうニュアンス
が込められてるのか本当分かりづらいから敷居高くなるよねぇ。「脱構築」とか「解釈学」とかなら専門的なターミノロジーなんだってすぐわかるけどさ。日常的に使う熟語にどういう傾きの意味を込めてるのかいちいち気を遣うっていうのはだるいよねぇ。
憂鬱なときにはPerfumeのライブDVDを見ると良いというアドバイスをくれたけどとくにその後実践はしてない #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよう @tsucak
なんかいつの間にかフォローされてるツイッター内存在な人なんですが、コーヒー飲みすぎて体調崩した時に色々はげましてくれたりアドバイスをいただいたのが印象的 #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよ @millionsage
サークルの後輩なんだけど、まだ現実できちんと絡んだ記憶はなく、ツイッター上で仲良くなりました。お冷サシ飲み対決に誘われました。 #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよ @0310radish
この前初めてお会いしました。この人とこの人の元カレ(=僕の高校の後輩)と僕という三人の組み合わせ。 #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよ @A8aT
昭和50年代生まれの既婚のお姐さまということで、ツイッター上で中学生並みの下らな過ぎる下ネタリプを飛ばしあってたりDMで僕の話を聞いてもらったりしていました。 #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよ @daichi1984
確か、テストの話ばっかりしてる法学部生の会話ほんとやだなぁって僕がぼやいてたときに共感してもらって相互フォローになったような気がします。近所に住んでる話びっくり。 #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよ @IncipitTZ
今年もRadish等で色々とお世話になりましたが、昨日かわいい顔でかわいい話をしていたのが珍しくて新鮮で印象的でした。 #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよ @rainy_drop
何度かの曲折を経て相互フォローしてもらえるくらいの関係には無事戻れました(背景まで考えると意外と大事なエピソード)。 #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよ @carsh295
よくツイッター上で色々お話ししてます。公演を彼女さんと観に来てたのが幸せそうでニヤニヤって感じでw #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよう @tusami072
たぶん雫さん関連&哲学科の人ということで認識してます。確か黙々とふぁぼり合うだけの仲だったのが、エアリプし合える仲に圧倒的成長しました。 #2014年もあと1ヶ月とちょっとしかないのでふぁぼしてくれた方とのエピソードを振り返ってみよう @Nanakusa17
なんだかんだで今年はまだ元気な方だっていうのはある
ていうか研究者になるって言っても実質的には学校の先生になるってことだし、どうしてもハイリスクローリターンなイメージを持ってしまう…それなりにワークライフバランス保てる職で働きながら読書でもしてた方が人生楽しくないだろうか。
ふ~一日寝込んでぎゃあぎゃあ騒いで大分回復した気がするがこの流れで今日は眠れるだろうか…
日本において「ニート」とは「15〜34歳までの若年無業者」のことを指し、労働・教育政策などで何とか救える範囲の若者のことを示す言葉であって、35歳以上になると「ニート」とすら言われる権利はなく「救いようのない無職」という扱いになる。
ただなんにせよ今のベッドは穴ボコボコでもう耐用年数過ぎてる感があるので買い替えた方が良い。。。
今日は部屋を掃除しよう…
人生で一番ひどい時期は自転車に乗れないくらい、あるいは人と話してても言葉が全く思い浮かんでこないくらい集中力注意力が鈍っていた
「どうしてそこまでされて怒らないの?」って言われて、その後一発来たらさすがにカチンと来て、やっぱり僕は怒りを無意識の領域に溜め込みやすいところがあるのかもしれなくて、それがこの2ヶ月くらいあったのではないかという仮説がある。

2014年12月(millionsageさんをめっちゃ気にしている)
あの時は何か若干躁状態だったんじゃないかな?
院進する気が失せたり、個別指導バイトをちょっとやったらすぐ終わったり、サークルからだんだんフェイドアウトしたり、色恋沙汰で様々あったり、駒場演劇に対する態度・価値観がだいぶ変わったり、浅く広く色んな知識を充填したり、大体そんなことをしていた気がする。
たしか独仏勉強したりサークル外の演劇公演に参加してたり本読んでたり演習の予習してたり授業受けたりしてただろうか。
色々な事柄に対する、僅かばかりの憧れや情熱が色褪せていったり、世間の途方も無い広さを更に深く感じたりしてしまっていたような。
うん、なんだかんだで自分が体験している世界というのは少しずつ確実に広がっているとは思うのだな。
自信をなくしてしまうのは、それだけの広さの世界が見渡せるところに自分が立てているからでもあると思いたいような気がする。
極端な話、小学生のときだったら、ファミレス行ったりちょっと夜更かししたりするくらいで楽しかったわけだし。
中高生くらいのときは、本当適当な新書読んでもふむふむなるほど、みたいに思えてたし。
未知の領域が減ると、非日常を感じ辛くなってしまうのはあると思う。
ただ読みたい本も知りたいこともまだまだたくさんあるし、そこは前向きなはずなんだけど、なぜ憂鬱から抜け出せないのだろう?
いやまぁ人生を通して溜め込んできたものは根深いと思う。
僕は相当変な人らしい。
夏目漱石の小説に出てくる高等遊民のうだうだ感は今ならとてもよくわかる。
何かこう煮え切らないんだよなぁ。
なんとも言えない強迫観念に縛られているような感じもする。
人生はどこで区切りがつくわけでもなくだらだら続いていくなぁ。
まぁでも昔に比べたら遥かにマシだから引き続き頑張ろうといういつもの場所に帰着しちゃうのかぁ?
まぁでも5年前くらいに思い描いていたよりは遥かに人生面白いしこのまま死んじゃったりしてもそこまで不満ではない。
何かもう各方面に対して謝り倒したいような感じで自己肯定感が削れている…
ツイッターのTLわりと有象無象の世間が流れてきてこういうときは気が滅入るねぇ
まぁでも実際両親離婚しかけたし、どっちも亡くなってしまったから、人の儚さは身に染みちゃってるのかな…
虚無感〜〜
人生は20代じゃ終わらないんだ〜…!!
髪型の悩みはかれこれ4〜5年くらい放置されている。
←一人暮らしの部屋で死んだ目で「にゃー」とSNSで全世界に向けて発信する男性(24)
ラカンとラッセルつなげるってどうなんだろう?
就活解禁が後ろ倒しになった影響で公務員試験の日程も一斉に変わるのね…
ただ寝ていれば気持ちいいのになぜ起きなきゃいけないの?
私立の学校の先生って何十年も同じ職場で飽きないのかな?
岩波新書の水準でもかなり普通に間違ったこと書かれてるんだなぁというのは結構な衝撃だった。
ていうかさ、世の中で言われてるほとんどのことは適当なでたらめだらけなんだなって何となく思ってしまって、それがすごく絶望につながってる感じがある。少なくとも精神的にはそんなことを考えている。
ホントお前はいつ寝てるの?(≧∇≦)へたってるはずだけど活字に弱りを感じないからすごいと思う♪ — いや、今日めちゃくちゃ寝まくってましたよ。 http://ask.fm/a/biac8kcj
また変な夢を見たな〜〜。。。
また変な夢を見たなぁ
悪い夢というより変な夢ばっかり見るんだよなぁ。
適当に抽象的なことを言うと占い師的なノリで何となく当たる例の現象、バーナム効果と言ったりするのか。
やるべきこともやりたいこともそれなりにはっきりしてるはずなのに何故こうもやる気が出ないのか。
「マスコミは、毎日、膨大な「自分について考える」ための情報を、僕達にくれます。おしゃれに関するさまざまな情報、恋愛、食べ物、仕事、金銭、事件……。さらに、テレビドラマやマンガや映画や小説や演劇が、いろんな人生の可能性を教えてくれます。」
「それらをたくさん抱え込めば抱え込むほど、私達は、自分自身に対して、さまざまなことを考えるようになるのです。こんな現実に生きていて、自分の発言や自分の未来や自分の人生に敏感にならない人間がいたらおかしいのです。そして、自分のことを考えれば考えるほど、“自意識”は成長するのです。」
この1年間はそれなりに色々あった気がする…。疾風怒涛と言って良いように思える。
結局みんなただの人間なんだという絶望が呼び醒まされてしまった一年だったような気もする。
女に生まれ変わったらサブカルメンヘラクソビッチではなく普通の感じのスイーツ(笑)になりたいです
演劇だとカムヰヤッセンの『未開の劇場』がベストワンだった気がする。
あと個人的なあれとしては、radishにずるずると居続けてやっと身を引けたたことが結構大きな出来事のように思うのだが、半分は義務感で続けていたもののやめたらやめたで一つの規律というか居場所がなくなったのだなぁとしみじみ思うような気がする
この虚無感を超えたところには何があるのかな〜
楽しい気分になりたい!楽しい気分になりたい!楽しい気分になりたい!
身体感覚の希薄さ、感情の淡白さ、観念的に考え過ぎる傾向、このアンバランスさが昔から抱えている問題
自律神経よ。
某君がfacebookに出してる選挙に関するコメントがキザかつ無内容でいらっとする〜!!
あんな平凡な内容をよくカッコつけて「自分ってすごい考えてるでしょ?」みたいな体裁で書けるね。恥ずかしくないのか?文体にも内容にも一切センスが感じられないぞ。「いいね!」つけてる人達なんなの?
ココ壱はどこにお金をかけていて1000円前後するのだろうか。松屋とかの価格帯が異常でココ壱こそが正常なんだろうか。
今こそ『さくらの唄』を読み返したいような気がする。
自分から出ていった悪意が、巡り巡って自分を突き刺してくる…
そう考えると、あれは明晰夢ではなく、明晰夢を見る夢だったとしか表現しようのないよく分からない夢を見てるレム睡眠の状態だったと…
なんかこれじゃあ疑似科学にハマっちゃった人みたいじゃないか!
武士は食わねど高楊枝…か
誰がどんな生活をしているかなんて、一皮めくってみたら本当に全然わからない…。何年も仲良くしていても…。
ミリオンセージさんはツイッター内存在なので生活実態が相当に分からない
「南無妙法蓮華経」を規定字数分繰り返したやつでページが埋まってるのを提出して精神が崩壊した雰囲気を出しながら口頭試問に臨んだら、もしかしたら卒業させてくれるというか追い出してくれるかもしれない。
突然だけど、上原あずみの人生に思いを馳せて悲しくなっている…
帝国大学の教授以外は「在野」と呼ばれた戦前ってすごい。
あんまり上手く伝わらないのだけど、中高時代くらいにほとんど完全に感情を押し殺し続けていたから、その分の精神的成熟の遅れがあって、でも多分知的能力はそれに不釣り合いな程度にはあるから、全体的にとても歪なメンタリティを持っていて、それに折り合いをつけるのに今でも苦労してるのよ
でもこれから歳を一つ一つ積み重ねていくにつれて、家庭環境のせいとかにもしていられなくなるのだ…
それもあるけど、「実際本気出したときにどこまでできるのか無意識に怖がってるから、『きっと本気出せば自分はできるんだ』っていう自己愛をとりあえず満たすために本気出すのを延々引き延ばす」ってニュアンスもきっとあると思うよ
実家の祖母と叔父のお金・時間を使うべきところで使って、節約すべきところで節約するというのもほとんど教育されなかったままというか、むしろ反面教師にしかなってくれなかったね…。ただただ漫然と不快適なままに過ごしてるだけの感じだった。
そういう風に漫然と過ごすメンタリティは絶対に自然感染しちゃってるんだよな…
マツコ有吉が3年8ヶ月という話を聞く前に、僕にとってこの4年弱くらいは一体なんだったのだろうかということをちょうど考えていたのだよな
それは丁度、一人暮らしを始めた時期とほぼ重なる。
何が変わって、何をいまだに引きずっているのだろうか…
渋谷の街並みももうすっかり厭きて日常の雑多な風景のひとつに…
中学生くらいのときは渋谷ってだけでなんとなく心が弾んでたような気がするんだけど。
池袋も新宿も渋谷も、慣れると何もない。
半分くらい飲食店を潰して何か面白い場所をいろいろ作って欲しい。(無茶な願望)
たたみに布団を敷いて寝られるスペースとかを大量に作る。
なんか昨日の反動か今日は一日中寝ていた。
夢を色々と見て、無意識で何を考えていたのかちょっと分かった気がした。
物理学の先生がニュートンのプリンピキアを読まなくて良いのはとりあえずわかるとして、経済学の先生が諸古典を読まなくていい(のかな?)のはなぜ?
1年と13日後に卒論締め切りかと思うとやばい…
まさに生まれた瞬間というのを記憶していることは出来なくて、気付いたときにはもうここに生きているし、ちょうど死ぬ瞬間に自分がまさに死ぬという意識を持つことも出来なくて、せいぜい死ぬ直前に自分は死ぬだろうということが分かるだけ。生は、始まりも終わりも閉じることなく宙吊りになっている…
久々に新聞を開いてみたけど、ほとんど興味が湧かなくなってしまった…
とりあえずインターステラーが気になるというもやもやは解消したのできっと意義はあった。
途中で「SFならスターウォーズ観ればいいじゃん」という囁き声が頭の中に響いて終わった。
芸能人もどんどん歳下が出てくるねぇ
今年は個人的には激動の一年だった…
高収入っても働いてるんでしょ…
年収1000万の奴隷
年末年始になって謎の動き辛さというか所在なさを感じている…
実家とのつながりが希薄になっている…
地方だと医者は王様なのか。
ただ、やっぱり医学部行きたいという気は今も全くないから、切った選択肢はたぶん正しいのだと思う。
医者やりたいか?って考えたら、やっぱりやりたくないなぁ。
医者やるかどうかは個人的にはそんなに大事な問題ではなかったけど(明らかに自分にやれる仕事とは思えなかったから)、世間的には勿体無いと思われるので。
18歳くらいまで本当に何も考えられないし感じられないメンタルだったのがあれだった。普通の人が色々考えて成長するはずの青春期をそこからやり直してるからこんなにぐだぐだになってしまっている。
なるほど。 RT鍵: どうしても「入るまで大変」の部分を重要視しちゃうんだろうな周りの人は→医学部
なんか学校も家も居心地悪くて、そこでとにかく殻を作ってスルーするっていうのをずっとやっていったら、感受性とか自発性とかほとんど全部失っていたのだなぁ
「感受性や自発性を失う」というのは、「寒くなってきたから衣替えする」とか「鼻水が出ているから風邪だと思って薬を飲む」みたいな日常的な生活判断ができないレベルの。
それでも外見上は「おとなしい優等生」くらいにしか見られていなかったはずだったから、その辺がとても理解されずらい…。
@millionsage ツイッター内存在として色々お世話になっております。10月にコーヒーで体調崩してたときに励ましてもらってから一気に存在感が増しましたw。来年もよろしくお願いします。 #2014年もあとちょっとだからふぁぼしてくれた人に一言
なんちゃってインテリおじさんというのは何で新聞コピペしただけのソースの話をあんなに自信満々な顔で言えるんだ…そんなおじさんになりたくないよ…
新聞の受け売りじゃなくて自分の話をしてくれ!!馬鹿にしてるのか本当に!!
どんだけ鈍感に生きてたらそんなんで数十年生きられるのよう。
しかも世間的に成功してる人だと本当にもうむかつく。
これからは「ドヤ顔新聞コピペおじさん」というカテゴリーを作って生きていく。

2015年1月
憂鬱な時、世界に対して失望している時にしか分からないこと、見えないことってあると思うし、それは大切なプロセスだと思うのだが、そういう時に何もできなくなってしまうのは本当に困る…
黙りながら「みんなつまんないから黙ろうよ」ってつぶやく…
無駄なことをしゃべるよりは黙ろう.
お持ち帰り闘争を繰り広げている男女をまじまじと見つめてフッと笑って立ち去った.
「ある」の衝撃からはじまる.
素敵な青春への幻想ねぇ
青春への幻想はなまじリアリティがあるだけに持てないけど、FFみたいな冒険してみたいなぁという気持ちはずっと残りそう。
親戚の中で一番まともなおじさんの言ってることがなんか変だと思ったら、文系蔑視の理系信者&実務信者なのか。
それでも今の自分の進路をいちばん理解してくれているんだから大切にしよう…
よくよく振り返ってみれば仕事で自己実現するべきだというタイプのようだし、そういう人から見れば僕の進路の決め方は勿体無いしいまいち理解できないのか〜
確かにそうね。振り返れば、院進やめたときに「なんで学者になるのやめちゃうの??」みたいな空気を感じたのはそういうあれか…w
国家公務員の平均給与は1000万越えだという謎情報を言ってたし、官僚なんて東大卒じゃくても出来るみたいな論調だし、いとこに起業を薦めてたし、やばいなこれが世間か。
親戚界隈から聞いた話で、「大蔵省→財務省が東大法学部閥だったから日本の金融・財政政策は長らく経済学的にはめちゃくちゃで、だからめちゃくちゃになってる」という情報は唯一ちょっとそれっぽかったので裏とってみる価値ありそう。
まぁたぶんソースは日経新聞なんだろうけど…
そもそも進学振り分けという制度についても面倒で説明してないので、「医学部の2年間の勉強で落ちこぼれて強制的に文学部に流された(?)」みたいに誤解されている可能性がある…
Eテレの100分de日本人論ヤバそう。
高校生のときくらいにEテレの良さとかを理解できて利用できるだけの頭と環境があれば…
理解してくれる人いないと思うけど高校生のときは本当に頭わるかった。
「昔はよかった」という懐古的な言い方は批判されがち。だけれども、何かが衰退する時期の場合は、それが正しい認識であることもある。でも、昔がよかったというのが正しいとしても昔にそのまま戻れるなんていうことは普通はない。ということなんだな…。
「明らかにおかしいことを言ってるんだけど、おかしすぎて話にならない人」と話をするのって逆に難しいと思うのだけど、そういう人を諭すのってどういう風にやるのが一番良いんだろうね。
まじめにやろうとすると「分かっている人同士なら通じる暗黙の前提」を全て言語化しなきゃいけないから難しいし、話にならないっていってしまったらそこで終わりだし。
millionsageさんが遂に鍵アカの鍵を開ける技術を発見…?
例えていうならば、子供のときに読んだ絵本に目を向けなくなるような感じで、ある時期には面白いと感じられたものが、あとになって面白くなくなったり、せいぜい懐かしさくらいしか感じなくなったり、ある時期の自分には大切だったものとして過去に位置付けられたり、という事がこれからもあるんだろう
そういう感性の変化がここ1年くらい一気に押し寄せて来ているような気がする…
逆に言うと、どう捉えてもネガティブでしかなくて教訓が一つも引き出せないような経験も、あとで遡って振り返ってみたときに、振り返るその時点において自分の人生を総体として肯定できていれば、過去のある時期の自分には必要だった人生の糧として肯定できるという面があるような気がする。
地下鉄サリン事件と阪神大震災のときにテレビで大騒ぎしていた記憶はかすかに残ってるな。
「はやく起きた朝は…」って実質1994年スタートだから20年目に入るのね〜…
20年間3人で同じ番組続けるのって感慨深いだろうなぁ
人生で楽しいことは本を読むことくらい
映画もまぁ面白いやつは面白いですね。
いやまぁ、演劇見たり、音楽聴いたりも好きだし、なぜツイッターにいるかといえば寂しさを紛らわすためって面もあるし、色々あるけども、本を読むのは楽しいよね。
まぁ新書といっても岩波新書からソフトバンク新書まであるし…
自殺した風変わりな哲学科の友人になってはいけない
何かになるということは、他のたくさんの何かになることを諦めた上に成り立つんだから、人生はどんなに成功したとしても無限に多くの事を諦め続けなきゃいけない過程なんだよな、みたいなことを思う。どんなに成功したとしても。
wikipediaの充実した項目をかいてるひとたちは世間的に体裁の整う生活をしてるんだろうか…
ひたすら暇を持て余してwikipedia編集してたりするのかな…
本当にブラインドタッチが出来ない世代が現れてくるのか…
体調が悪いとかじゃないんだけど、全身に謎の居心地の悪さというかむず痒さがあってそわそわして落ち着かない…
ふぐ食べたい…万が一にでも明日地震が来て死んじゃったりしたら生涯ふぐを食べないまま終わってしまう…
東大男子と東大女子は永遠に解り合えないのである
自意識の最終形態みたいなのに入ってしまったような気がする…
これを何とか身の丈にしないとずっと不幸なままかもしれない…
現実世界では何も問題は起きてないのにひたすら自分の頭が作り上げた幻と闘って精神を病んでいく感じね…
夜だけどちょっと散歩してこよう。
自意識に殺されてしまう。。。
昨日から自意識に苦しめられている…。
根源的には、辿れる限りでは中学生くらいのときから散発的に苦しめられているやつかもしれない
ただただ自分だけが今ここにいる自分を許さずにいて苦しめられている…
ほとんど同じ型のテレビがメーカー違うだけで36万と18万か〜
インターネットって世界が歪んで見えちゃう(しかも自分の傾向に合わせて歪んじゃう)からこじらせやすいよねぇ…
自分の周囲の現実世界に対応物を持たない不安とたたかうことになってしまう。
「自分の欲望がわからなくなる」というのは他人事ではない。
気持ちだけ焦っていて何も手がつかなくて、凄くよくない感じになっている…
落ち着ける場所が欲しいんだけど、自宅だと色々目に入って気が散ってしまうし、でも他に落ち着ける広い場所も思いつかなくて堂々めぐりになるんだよな…
ソファか畳で温かくて明るくて時間気にせず気を散らさずくつろげる場所がほしい…
欲望が整理されてないとモノも整理できない訳だよねぇ。
結局欲望が整理されてないとここで堂々巡りになるんだ。。。
一時期、安くてそれっぽい文庫本とか新書をブックオフで適当に買い込んでいたんだけど、それが完全に裏目に出ているというか、本当に読みたいかどうかも分からないものを買って、それを読めないためにフラストレーションだけが溜まっているというもの凄く無駄なことをしている気がする。
コンテンツ欲とか知識欲みたいなあれが不定型な感じなので一番厄介。
畳マットレスは検討すべきかもしれないです。
ここ2~3年で全く着なかったやつとか持ってても仕方ないよね。。
淡路町のルノアールが居心地良すぎて眠い。。。
上原あずみって浜崎あゆみにキャラかぶせる感じで売ってたのかな。
もしかして僕は普通の人がはまる組み合わせではない謎方面のコンテンツに興味を持っちゃうのかもしれない。
実際に天才哲学美少女JKなどという者がいたら自分はこの高校生にすら何一つ敵わないのかとひたすら劣等感に苛まれて死にたくなる気がする。
天才哲学美少女JKとはどれくらいの天才を想定しているかというと、高一で英語ドイツ語フランス語ギリシャ語ラテン語を習得し、大学学部生レベルの数学・物理学・化学・生命科学・情報科学などを学び終えて、岩波文庫を読破しカントを読破しピアノを弾きこなし世界各地を歩き回り法律・医学に通暁し…
もうどうせ卒論で終わりなんだからガチガチに自己防衛的な感じじゃなくて自由奔放に突っ走ってしまおう。
広い世界が見え過ぎることは不幸なのだなぁと某アカをいつも見てて思う。
わざわざ自分の人生の貴重な時間を使って、自分の人生にほとんど何の関係もない人々の病気を治すために勉強するというのは、いくらお金を積まれても耐え難いものがある…
あぁ…ただ虚無感だけで一日が過ぎる…
虚無感も焦燥感も過剰なシミュレーションが引き起こしている部分が少なくないとは思うのだけど、一体どうすれば抜け出せる…
バッティングセンターみたいなのに行けばいいのだろうか。
叫んだり走ったりしなすぎるとやっぱり動物としておかしくなってしまって当然なのではないかとも思う…。
虚無感・焦燥感があったのが、この時間帯になってスカッとしたい気分になってるのがいかにもあれな感じがしてあれだなぁ…。
愛に生きるべきとかじゃなくて、すべてに意味はないけどそれでもちゃんと生きるっていうのをやりたい…
こうやって、外在的に理解する割に外在的なアプローチ(ひたすら生活改善の工夫をし続ける)をしないクセも多分とても良くない…
その日の起床・就寝時刻とやったことと気分を淡々と日記に記録していく、みたいにしてみようか…。
わ〜〜っとみんなが騒いで集まってるところに行ってわ〜〜っと騒いだら元気出そうだから野球は良いかもね。
ボンアートに一人でいたらピアニストのおばさんが営業で話しかけてきて「東大生?」「はい…」「すご〜い!」となり何かもうこんな気分の時にそういうこと言われるとむしろ屈辱にしか感じない…
「選考は何?」「ぶ…文学部です…」「え〜じゃあ小説とか書くんですか?」
ピアノやってましたって言われると、憧れ以上に(きっと世間体とか体面とか気にする親に育てられて色々大変なんでしょう…)ってまず先に思うようになってしまったくらいにはあれな感じがある。
僕は卒論をネット公開しません。
たとえば買い物するときに、「ここの物をそのまま持っていったら泥棒になって大騒ぎになって、財布の中に入ってる紙を出したら平和的に交換してくれて」っていう事態が身体で理解できないくらいには現実感覚がなくなっている…。
「たくさんあるんだからちょっとくらい持ってっていいじゃん?」とか「こんな紙切れに何の意味があるの?」とかそういう感覚になってしまうくらいに意味が剥離している。。。
ここまで現実感覚が褪せてしまったの人生で初めてなんだけどちゃんとこれから生きてけるかなぁ。。。
一生何をやっていても原理的に考えて救われないのではないか、っていう考えに取り憑かれるところまでいったのは初めてだから困る…
塾講師・家庭教師をポツポツはまぁ最後の手段でしょうね…。
そんなの贅沢な悩みだって言われても、それは分かるのだけれども、でも現に悩んでいるのだからどうしようもないじゃんとしか言えない。。
Amazonの欲しいものリストは実質的に「来世に読む本リスト」になっちゃってるような感じがする。
人生は有限でその間に知れることも有限だということを考えると焦燥感で頭がいっぱいになって、何も手が付かなくなってしまう…
焦ると、頭が頭にありえないスピードを要求し始めて、そのスピードは出せないので頭がオロオロし始めて何も出来なくなってしまう…
何か活字を読んでも何故か無意味に感じてしまって、目が活字の上を滑っていきあまり頭に入ってこない…。テレビなどでも然り。
そして、動悸がしてくる…
何か活字を読んでも何故か無意味に感じてしまって、目が活字の上を滑っていきあまり頭に入ってこない…。テレビなどでも然り。
そうやって一度焦燥感に絡め取られるととにかく身動きが取れなくなる。。。
「まだ読みたい本がたくさんある」というのはかなり大切な具体的な希望にはなっていて、それは昔とは違うんだよな。
ここ2〜3日、虚無感といらいらと交互に来てないか…?
RT ほんとうに強靭な精神力があれば、お昼に自宅など帰らず、職場を自宅だと夢想してリラックスするという方法もありますね。往復と着替えの時間も節約できるし、緊急の業務にも対応できるし、リラックスしつつ同時に負担のかからない仕事もできれば効率的だと思う。
外国語できるできないの話はみんな基準が違いそう。
地元のコミュニティーを啓蒙しようとか思っちゃう人がいるのか…。
「妙な追い詰められ方をする人」なんだよなぁ。
パニくりやすい性格が治ればQOLも生産性もかなり上がる…ただそれさえできれば…。
この性格にどれだけ苦しめられてきたか。
小学校のときみたいに社会階層とかそんなに意識せずに無邪気にみんな一緒に遊べたらいいのにねぇ。
放送大学やら慶應の通信教育課程やら、その気になれば、忙殺されるような仕事をしなければ、勉強する機会は作れる。
上を見たり下を見たり、そういう競争の土俵に乗っても気が滅入ることばっかり増えるだけ。。。
結局僕は何が好きで何をしたいのだろう、という話に戻ってくる。。。
色んな人が色んな生活をしているのが垣間見えてしまうと、一体じぶん自身が何をしたいのか分からなくなって、すべて等しくやりたいような、けれどもどれもやる意味がないような、結局どんな生き方を選んでも、何を学び、どんな仕事をして、どう活動していたとしても、別の可能性が見えてしまって、
自分が今まさにしている生き方とは別の生き方があるんじゃないか、っていう想像力が際限なく広がっちゃっていって、不満を抱え続けてしまうような。
目の前には広大な世界が広がっていて、自分はそのうちの1%も知らないままに一生を終えるであろうことは目に見えていて、だから、色んな制約を考慮しながら自分の歩み方を自分で決めていかなければならなくて。
その事実が受け入れ難くなってしまっている。色んな人が色んな場所で色んなことをやっている、そういう想像力がどんどん広がっていくと、さまざまなものを相対化して見るようになってしまって、どれにも真実はないのではないか、みたいな気分になってしまう。
でもここまで選んで来た道は決して間違っていないとも同時に思えている。色んな可能性を捨ててきたはずなのだけど。だから、何かしら、自分がやりたいこと、やりたくないことの基準は漠然と立てられているはずなんだけども。
大海を知ってしまった井の中の蛙が、それでも井の中に留まることはできるのだろうか。
もっと狭い価値観と少ない情報の中で生きていたかったよなぁ、っていう気もするよね。。。
地方出身の人がよく言う、「東大に進んで上京してくるより地方医学部でぬくぬくと勉強していた方がよかったかもしれない」みたいなあれとか
まさに「贅沢な悩み」なんですよねぇ。
基本的に自分のために生きていこうと思っているけれども、それでも社会の中に何らかの形で収まろうと思えば何かしら他人のために仕事をせざるをえない。みんながみんな自覚的に「意識高く」ならなくたっていいだろう。
ここ最近改めて自覚したこととして、僕はどう考えても特殊な環境で育ってきたし、相当変な感性を持っているように思うから、自分にどういう生き方が合っているかは、あまり周りには判断できないことのように思う。というか、自分自身にすら分からないけれど。でも自分の責任で考えて選ぶしかないね…。
あらゆる人生はひとつの実験的な営みであるという感じもするし、自分の人生はその側面が平均以上に強いのではないかな、とも思う。
子供とかいたら、不登校にならないかとかいじめられないかとかちゃんと進学できるかとか常に取り越し苦労で無駄に心配しちゃいそうだし、そういう面でも多分独身に向いている。。
死ぬまで、毎日毎日を楽しく活き活きと生きなきゃね。
何ていうか、生きている以上、楽しく生きることは半ば義務だと思う。あんな風な生き方はしたくないなって思われてはダメだ。少なくとも、あんな生き方もありなのねって、誰かしらには身をもって伝えられるような、そういう生き方をしたい
自分が何のためにいま何をしているか、という目的意識を強く持てばモチベーション高まるはず…。
この際ベッド完全処分して布団に切り替えちゃおうかなぁ。。。
最近ずっと理由もなくイライラしてるなぁ。。。
なんかこうめちゃくちゃにモノを破壊して回るみたいなことがしたいんだけどそれはさすがに無理だからな~
ストレス発散のレパートリーは増やしていかないと多分まずいぞ。。
バットで何か物を殴り続けるとか、そういうことをしたい欲求。。
その辺の日常生活の常識的な感覚にほんと自信がない…
大器晩成という気分でやってこう。
この辺りの自分の能力とか感性のアンバランスさは多くの人には理解してもらえないのかもしれない…。
「自分自身で物事を感じて考える」っていうこと(大それた意味ではなく、世間の人が日常生活で普通にやってるような意味で)が出来るようになるのにとても時間がかかったから仕方がないのだけど。
戸田山和久『論文の教室』とかを4年生になりかけの時期に読んだのは大分遅かったよなぁ。
ベッドは完全に処分して敷布団に切り替えちゃおう
久々にヒトカラに行ってかなりすっきりした。その代わり、のどはいがいがするけども…
道徳と革命っていう二語は、通常時はお互い正反対に位置していると思うのだけれど、それが結び合わさっていることに新鮮さと良い意味での緊張感が生じているんだろうと。
『斜陽』で「道徳革命」ということが語られるとき、道徳ということばのニュアンスが「革命」の側に引き寄せられていて、新鮮な精彩を帯びていることがきっと大事。
でも、10万払えば絶対にどんな状況でも起きられるとなると…
JRの乗務員用の目覚ましについて2件の言及が
粗大ゴミのマットレスを運ぶミッションをやった。
その点、社会人になった方がましなんじゃないかとすら思えてくるんだよなぁ…
床に布団の方が快適なくらいには今までのベッドのマットレスだめだな。。。
本当にサンドバッグでも買おうかな。。。適当に殴ってればそれなりに運動にもなるだろうし。。。
本当にモーニングコールのサービス申し込むかな。。。
このまま社会人になると、だらだら残業するタイプのおっさんになっていきそう。。
なんかやっぱり生活的・心理的な問題なんだよな。タスクを重く考えすぎて気が重くなって、先延ばしにして嫌な気分の無駄な時間が過ぎていく。。このクセが直れば晴れやかな気分の時間が増えて生産性も高まるはず。ていうか逆に直らないとまともな社会人になれない。。。
やりはじめたら大したことないはずのことでも何となくやるのが嫌でぼんやりとした嫌な時間を過ごしてしまう癖(誰でも多かれ少なかれあるだろうけど僕の場合ひとつのことで数日単位の半端ない時間がつぶれる)が10年以上直っていないのは生活の質を大きく下げている。。。
25歳で年収1500万すげえ。
明日は漢文学の試験。。受けるだけ受けます。。。
こういう事実をちゃんと認識するようにするとうだうだな先延ばしがいかに無駄か身体に刷り込まれるようになって先延ばしグセが減るらしい。
やたら面倒くさがって3日間うだうだ悩んで時間を空費していたレポートは4時間で終わった。
世間体との戦い、っていうことを考えたときに、鴻上尚史の『空気と世間』(講談社現代新書)とか『孤独と不安のレッスン』(だいわ文庫)とか。
「人生を台無しにしない方法」ということを。
いわゆる「世間体」を気にしやすい体質を母―祖母のラインから僕は引き継いでしまっているんだろうなぁ。
祖母がよく「戦前だから高等女学校までしか行けなかったけど、その女学校は旧帝大と合併されたから、自分は大卒と一緒なんだ」みたいなことを言ってて、そんなこと誰も気にしてないのにと僕は聞いてて思うのだけど、まぁ誰も気にしなくても本人が一番気にしてしまうのがコンプレックスというもの。。
そういえば、母と母方の祖母はやたらと学歴を気にする性格で、僕もその影響は少なからずさまざまな形で受けているのだろうなぁと思う。。。
高校生の頃って、学問ってもっと整然と区画整理されているものなのかなと何となく思っていたけども、普通の人はどんなイメージを持っているのだろう。
3日間くらいうだうだしてついに重い腰を上げて書き始めた4000字のレポートは1時間で1500字くらいは書きました。。
モーニングコールの三日間無料体験を申し込みました。。
日高屋は一時期までよく行ってたんだけど、「日高屋はまずい」っていう人がいて、そのときになぜか心底納得してしまってそれ以来行ってないんだよな。
「感情は体温や血圧のように存在する」の「ように」とはどういう意味で「存在する」とはどういう意味か
まぁ法華経くらいは読むべきか。
ん、たしかに日蓮の著作自体ではなく法華経まで読むべきということも言えるけども。。
今思えば中高生の頃、雨の日にまったくやる気が削がれなかったのは単に感情がうまく働いていなかったせいなのではないかという気がする。
やらなきゃいけないことは卒論とか公務員試験の勉強とか5限の試験の勉強なんだけど、今すぐやる切迫性がどれにもなくて、でもやんなきゃいけないことがあるわけだから別の何かをしたい気にもならなくて、という感じで何もする気にならず、布団も片付けちゃったから寝ることもできず、
可能ならば無職が一番すごいというのはここ3年くらいは思っている気がする。
もう最近はアイドルは所詮アイドルだなぁという気分になってしまう…
「色カテゴリーが文化的か生得的か、についてはいまだに認知心理学の重要な問題だけど、黒と白(明度)に関しては逆の応答をする神経細胞があるので逆の色としていいと考えられます」というリプが
日本思想の先生みんな超越っていうけど誰が言い出したんだろう
なんか授業の方がざっくりと話してくれるから頭に入って来やすいというメリットを感じていた
紙で読んでる時と人の話を聞くときとでは頭の働く部分が違っていて、その辺の頭の働せ方の習慣によって要不要が分かれるのではないかという気もする。
でも授業が無意味ってなると学会とかも全部なくなって全部Web上でやり取りしましょうってなっちゃいそう。
そわそわ感のやり場に困る〜
香りのあるシャンプーの試供品(たぶん女性用)を手に入れたんだけどどうしよう。これ使うと髪がいい香りになっちゃうんだろうか…
嫌いな人を蹴り回す空想をするとよい。
一年生の冬学期は毎週のように駒場の演劇を観ていたくど、当時は楽しかったものの今観たらそんなに楽しくないものも多いのかなぁ…
なんていうか遥か昔は他劇団に対する憧れが強かったから色々あれだったんだよな。
いまとなってはあらゆる物事に対する憧れが消えてしまったから…
どんな場所にいたって自分があれじゃないとあれじゃない…。
色々な要因はあったけどモーニングコール無料お試しの3日間は案外そのまま起きられたので一つのセーフティネットにしておくべきかもしれない…
次元の違う話だけども、自分がほんわかと生きている一方で国内外含め世界ではさまざまな理由で多くの人々が日々死んでいて、そんな中で2人の生死の行方に日本中の注目が集まっているのってなんとなく腑に落ちないんだよな…
人は毎日無数に死んでいて、もちろんそれをいちいち真剣に悲しんでいたら生活なんて出来ないから普段はそんなこと考えないけれど、特別な事件に巻き込まれた人については赤の他人であってもみんなが心配するっていう…なんとなくの居心地の悪さというか…
2〜3年前は全てが楽しかったのに〜
文転して大変だったこと、逆に理系出身で有利だったことは? — なんかもう文系とか理系とかそういう区別やめよう。やめ、やめ。 http://ask.fm/a/bnjo168m
自分が何もしなくても世の中は淡々と回り続けるという現実を直視し続けるのは結構あれなのかもしれない…
RT鍵 秒速5cm病の治癒というのはようするに「人生に意味を与えるただ一つの中心なんてないんだ」+「視野を広げたり狭めたりすれば楽しいことはたくさん転がっているんだ」という気づきを得ることなので一般的な治癒方法は難しいが、個人的にはゴジラ映画とかを見て視野を広げるのがいいと思う
膨大な時間と大きなやるべき事が一つあると、それをやるのも億劫だし、かと言って不安だから何かを楽しめる気分も消滅してしまうし、っていう…
要するに自己管理能力が上がれば健やかな時間を過ごせる
こういう状態になると、本当に何もやってなくても心は休まらないから良くないんだよね…(「本当に何もやってなくても心は休まらない」という感覚、わかる人にはわかるはず)
1日に◯◯時間はタスクをやって◯◯時間は遊べるってメリハリつければ解決するだけの話なんだよな。。。
結局ぜんぶ頭の中で起こっている出来事だから…。
「案ずるより産むが易し」っていうのをもっと大事にしよう
色々と放置している焦燥感で胸が苦しくなり何か考える気力がなくなり色々と放置している焦燥感で胸が苦しくなり何かを考える気力がなくなり色々と放置している焦燥感で胸が苦しくなり何かを考える気力がなくなり色々と放置している焦燥感で…
漠然とした焦燥感に駆られやすい性格なのにそういう基本的なことを今までの人生でやってこなかったから良くない…
todoリストを細かめに作って全体像を把握
todoを書いて一つ一つ片付けていかなきゃって言いながらおろおろして場当たり的に過ごすというのを二ヶ月くらいやっている気がする。。。
何も手を付けてない段階から尻込みしてしまって時間を無駄にするっていう昔からのこのクセは本当に良くない…。
特にやりたいこともやるべきこともなく穏やかに過ごせるのは良いこと。のような。
漠然とした焦燥感だけある状態は一番よくない。
高校生のときは古文漢文は結局よく分かんなかった
なんていうか今ここに見えている世界はどう頑張ってもいまここにいる自分を通してしか覗き込むことは出来ないんだって納得したときに他の人に対する羨ましさみたいなのは大分なくなったように思うのだけど、
それでもある種の突き抜けた頭の良さを持ってる人(職業や生き方は何であれ)にはこの世界は一体どう見えているのだろう、ということが時どきとても気になってしまう。
120㎝の小学生と170cmの大人に見えている世界が異なることは物理的にはっきりと分かりやすい事柄だけれども、たぶんそれぞれの人が持っている認知のあり方(≒頭の良し悪しや考え方の傾向)の違いみたいなのでも世界の見え方や感じ方は異なってくるのだろうし。
視力5.0ある人とかに「見えている」世界はまさに違うんだろうなぁって思うし、たとえば陸上の短距離走でオリンピックに出るような人にもきっと世界は異なったあらわれかたで見えるのだろうなぁ、って。
もちろん自分自身だって、勉強したり身体鍛えたりすれば世界のあらわれ方は徐々に変わっていくだろう(というか現に変わっていっている)し、あるいは老いてくればもやがかかったような感じの分かり辛い世界にだんだん周囲が見えてくるのだろうし。
ちなみに、たぶん東大模試で1位を取るような類の能力というのは、当然ながら並外れて突き抜けた頭の良さは必要だと思うのだけど、最終的にとても煩瑣なテクニカルな技能の習熟も要求されるだろうし、別に東大模試で1位でもあまり特にはならないし、ある種の脅迫観念も並外れに必要なのではと推測する
なんか犬を可愛がる夢を見て起きたので今めっちゃ犬を可愛がりたい。。。
SPEEDは当時としては凄かったんだろうけど今みると何も良い所がない
「僕は中学受験で成功したんです。ラサール、麻布、栄光、筑駒、全部受かって、筑駒に行きました。それで世の中を舐めてたみたいなところはあります。自分は東大行って、一流企業に就職するんだろうな、って。でも勉強が好きじゃなくなって…
「専修大学文学部心理学科に進んだんですが、大学があまり楽しくなかったんです。人生の目標を失ってて……よくある思春期の悩みですが、自分て何なんだろうとか考えて、やけくそになってた。踏み外しちゃっていいかなって思って、雑誌に出てたAV男優募集の番号に電話かけたんです。
もうちょっとネガティブな感じで「ボロを出さないようにしなきゃ…」っていつも思ってたらいつの間にか出世しちゃうみたいなことはもしかしたらあり得るかもしれないので避けたい。
ツイッターとかブログとか発達してない時代だったらものを書いて認められたい欲求みたいなのが溜まってたかもしれないけども、こんな時代だと思うとそういう欲求も湧かないし…
売れなくても後世に残る本とかなら本として出す固有の意味がありそうだけど、そこまで目指して頑張りたくもないし。。。
でも自称高収入の人が年収600万だとあれな感じだ…
まるで桃鉄でもやっているかのように年収の話をできるのは学生のうち!
日本科学未来館のプラネタリウムは良いよね
そう言えば今日猫カフェの猫に右手をざらざらした下でめっちゃなめ回されて、なんか感触が気持ち良かった
そう言えば(だいぶ話飛ぶけど)山脇直司先生も「哲学学」批判をしているのか。
カントと言えば、中学生か高校生かのときに『純粋理性批判』と『実践理性批判』というタイトルを初めて見たときは、「純粋~」の方が基礎編で「実践~」の方が応用編みたいな内容なのかなぁと勝手に思っていた。
布団がちょうどいい温度に
もう自分には夢の無い絵しか描けないと言うなら~塗り潰してよ キャンバスを何度でも~
いちおう日本全国の勉強できる人がある程度集まっている大学だから、近所にある普通の大学だと勘違いすると無限に自信を失っていく
今の洗濯機も出た当初は叩かれたのかもしれない。「人が一枚一枚ていねいに手洗いする仕上がりが、一気にあんな乱暴に回転させるのでは失われてしまう」みたいな
家族の大切さだとか努力の大切さだとか愛の大切さだとかひとりになることの大切さだとか、そういうのはほとんど全てある一定の範囲においてある一定の効果は持っていて、だからこそそういう価値観を信じ果てにはその価値観が有効でない人にまで押し付けてくるほどに心底信じ切る人もいるのだろう。
「方便」、すなわち、真理に近づくための一つの便宜的な筋道。決して相対主義ではなくて。
すべての人は最終的には生きて死ぬことに変わりはなくて、最期には死ぬという意味では人間は絶対的に平等じゃないかなと思う。というか、まったく揺るぎなく平等でありうるのはそこ以外にないような気がする。この直観はこの5~6年くらい続いている。
『ヘルタースケルター』観た。こういう映画は好きだな。
自分の好きな演劇とか映画の傾向がやっと分かった気がする
facebookの結婚式ラッシュを乗り切るメンタルを数年後に備えて鍛えておくべきか。
僕も案外5年後くらいには結婚して離婚までしてるかも
小谷野敦が原作の某映画を観て爆笑している
映画で脱ぐのはかっこいいみたいな価値観あるよね?
広尾のスタバも6年前と比べてすっかり模様替えされてしまったし人だらけだし、もうおしまいだ…
ていうか喫茶店で隣との間隔狭いと隣に聞かれてないか気になって話せなくない?
やっぱり明らかに無駄な心配をしている部分が大きすぎるんだなぁ
なんでこんな無駄な心配をするようになったかというとやつらのせいだ。
こういう考え方の癖も直すべきなのだなぁ。
四劇の巨大な組織・世間がないと駒場小空間のいまのような学生による管理体制は維持できないだろうし、維持できなくなったら小空間も例えばコミプラのような窮屈な規則の下での使用しか出来なくなっていくかもしれないのよね…
たぶん四劇の特にえらい(?)人はその緊張感を持っているはずで、大変だなぁと思うし、尊敬されるべき
二十歳で大学を中退し、(プロを目指す)劇団の主宰となり、二十代も半ばを過ぎない頃には、公演を観に来た団員の保護者に「うちの息子をどうかお願いします」というようなことを言われるような立場になっていた鴻上尚史
「世の中には人の数だけ物語が、物事への解釈がある。大人になるとは、個人的事情を押し殺して、そのたくさんの物語の中から、さしあたりもっともらしい「社会」の物語を語るようになることで、それは本当の物語を見つけ出すこととは異なることだと思った」
体重がやばいことになっている…
理科は中学生で原子の考え方を知った時に世界の見え方がガラッと変わって大分整理がついたのだけど、その後世の中はそう単純じゃないことがだんだんと分かっていき、自然世界はどうなっているのかについて結局モンタージュ的な感じでおぼろげにしか想像(理解)できていない
原子のことも、受精・誕生の仕組みも解明されてなかった時代において、「あるものはあり、ないものはない」みたいな雲をつかむような存在論を展開したくなった人々の歯がゆさみたいなのは少しだけ想像できる
なぜ人文系の人は古典を読まなきゃならないのに物理学の人はニュートンのプリンピキアを読まないですむのかという問題については、人文系はとりあえず古典のテクストを一次文献として研究対象にしなきゃ共通の基盤が作れなくなるのに対し、最終的に物理学は自然(実験事実)を根拠にしているので、
古典を共通の地盤にしなくても済むからなのかな、ということで一応自分的にはさしあたり納得できた
チャート式とかの問題解いて答えあってれば嬉しかった時代にはもう戻れない…試験が正解を設定してくれる安心感はなく、専門家ならば当然自分よりは何百倍も深く考えているだろうけども、最終的にどこかに正しいと保障されている答えがあるわけではなく
終戦の詔勅で感じた「不思議な空白感」
天皇の人間宣言の衝撃が当時どれくらいヤバかったのか分からない
もし三島由紀夫が生きていたら90歳。
まぁでも一貫性を強く求めるようなメンタリティの人が、日本の敗戦以前と以後の精神的断絶を未消化なままで飛躍的な経済成長で下部構造先行していくことに相当な気持ち悪さを感じるというのはちょっとわかる
浅野いにおの『ソラニン』みたいに、OL生活の退屈な日常に飽きて会社やめて彼氏とバンド活動とかやり始めよう
バンドでデモテープを送りまくってたら、ある会社に既にデビュー予定の歌手のバックで演奏してくれって言われて打算と理想の前で一瞬迷うも商業主義に抵抗して潔く断ったりしよう
イスラム国っていうのは本当に世界史が動いてるって感じがするよねぇ。。
朝生で淡々となるほどって感じの議論がされている
なんかとても無心な気分だ
虚無感というわけでもなく、無心。
NHKの討論番組みたいな整然としたものをやるというより、喧嘩混じりのごった煮の中から何が生まれるか実験してる番組という感じが
でも犬や猫に人間のような「性格」を見出だしちゃうと確かに様々な行動が理解しやすくなるけれど、それが誤りなのだとすれば、もっと低次元な認知・行動の個体差なんだろうか。
なんかもっと徹底的に俗っぽい有能さがほしかったものだ…

2014年2月
「イスラム人」ってつまり、「イスラム国っていうんだから国だろう/国なんだから国名+人でカテゴリーを作れるだろう」という発想なのか。国民国家とかそういう話はおいておくとして、イスラム教すら知らないということだよね…。
知らないことを馬鹿にしてるとかじゃなくて、「イスラム人」って言われても逆に何をどう理解してるのか1分くらいわからなかったから、何というか勉強することで分からなくなってしまう世界もあるんだってことを忘れちゃいけないなぁ、みたいな
30度の暖房(あまり効いてない)をつけた部屋でコートを着て手袋をしてます
ツイッターで色んな情報や価値観がごちゃごちゃ流れてくる環境に身体を浸していると、決定的に打ちのめされるようなものはなかったとしても、一つ一つを積み重ねていくだけでじわじわと虚無に追い込まれていくという面はある…
かと言って、「今ここで起こっていることを大切にする」という態度に切り替えるのも違うような気がする。
大学入ったときにシステム手帳をプレゼントされてシステム手帳を使ってるんだけど、今まで全く思い至らなかったんだけどこのせいで逆に生産性が低くなってる気がする…。手帳として自由度が高すぎて、しかもそんな高度な手帳が必要な生活なんて送ってないのにこれに固執してるせいで上手く使えてない…
あと生活に関して何か考えるときに整理するためにノートをもっと使うべきだ。
個人経営のとんかつ屋に入ってビールと定食を頼んだら、サービスでコーヒーが来た…
今テーブルにはビールとお茶とコーヒーが並んでいる…
アルコールとカフェインを一緒に同時に摂取したらどうなるかな。かと言ってサービスだと残しづらい。でも残したら何らかのメッセージを受け取ってくれるだろうか。
ばかみたいな話なんだけど、「あらかじめ時間を見積もって行動して、行動にかかる時間の長さの感覚を修正していく」っていうのを、「ハンガーにかかっている洗濯物を片付ける」でやってみたら、10分と見積もったのが実際には5分で終わって、多分こういう見積もりの誤りが積もりに積もって
実際よりもタスクを過大評価して面倒くささの感覚を生じさせる現象が生じているのだろうな、と思った
ひいてはそれが漠然とした焦燥感による自縄自縛へ…
もはや冷蔵庫も電子レンジも要らない気がしてきた…
むしろ、冷蔵庫や電子レンジを活用した生活にすべきなのだろうか。
近いうちには読めそうもない本も一旦全部処分しちゃおうかな。。。
なんかそれくらいの思い切ったことをしないとダメな気がする…。
とにかく不安感焦燥感が暴走して身動きが取れなくなると悪循環だから…
なんで数学は実験みたいなことせず基本的に概念だけで考えてるのに哲学みたいな有象無象なごった煮の感じの世界にならないんだろう。
RT鍵数学で何か新しい用語や概念を導入する時,それまでの用語や概念をできるだけ含むように定義(つまり一般化)する習慣があるので,過去の数学の理論が否定されたり棄却されるという事は殆どない(ゼロとは言えないと私は考えるが)。哲学だとむしろ過去の哲学を否定したりぶっ壊すイメージがある
哲学ももっと接木するような感じで発展?させていく習慣があったら整理されるのだろうか。というか数学も今ある数学のあり方が唯一なわけではないんだろうな…
数学の方が、(19世紀以降?くらいの最近は別としても)現実にある確かなものを扱っているかのような気分になっちゃいがちなことが多いのはなぜなんだろうか。
鍵:数学の発展の仕方を「全く違う他でもあり得たが,たまたまこういう体系や理論になった」と見れる人はウィトゲンシュタインと親和性が高そう。おそらく多くの数学屋はこのような見方ではなく「道は違っても行く先は同じ方向(しかも確実に前に進む)」という発展の仕方をしていくと考えている(と思
春の海(宮城道雄)
ニトリの敷き布団はやく来い〜
新しい敷き布団が届いた!
もっと筋トレみたいな気分で淡々と勉強すべきなんだよな…
言語哲学大全は現世で読みたい気がする
普通に小さな世界で少ない情報と狭い価値観に囲まれて生きたい…
自分の立ち位置を確認して、やるべき事を淡々とやっていけばいいだけなはずなんだ…
最近夢を見ることが異様に多くて、でもふつうのときは基本的には見ないから、多分眠りが浅くなってるんだけど、ニトリで注文した敷き布団が弾力あって寝やすそうだし快適に眠れると期待したい。
10年前にイラク日本人青年殺害事件で殺された人が24歳だったのか。
その歳に自分もなっちゃったんだなぁ
管理人さんに笑顔で「もう卒業するの?」と聞かれたでござる
確かに、2011年の春から住んでるから、そのときに大学1年生でストレートに普通の学部を上がっていると想定すると今年で卒業するということになる。それくらいの期間いまの家に住んでいるんだなぁ。
寝具を変えたらすっきりおきられたのでモーニングコールは解約しよう
回転式シェーバーなんてのがあるのか
午後に秋葉原のヨドバシに行こう
やっぱり人間っていうのは内在化させた規範に突き動かされたり時には苦しめられたりするんだよなぁ。
午前に思いつきでラジオ体操第一第二を3セットやったら結構筋肉疲れてるぞ。。。
変な話かもしれないけど、色んな考えが頭を駆け巡ってどっからどういう風に整理して言えばいいか分かんなくなっちゃうっていうのは普通にある事だよね?
ひとつのことを言おうとするときに「あっ、でも、」って関連する事柄とか反論されそうなこととか例外とか留保するべき条件とか色々思いついちゃってどこから言えば分かってもらえるか迷ってあたふたしたり、みたいなことは、人によってなる度合いや頻度が違うもんなんだろうか。
たとえばszkizm先生なんかそれをそのまま口に出して言っちゃうノリで講義やってるけど、やっぱりあれでも頭に駆け巡っている色々を省略した上でのあれで、本人の頭の中ではもっと複雑な話題の錯綜と波及が起こっているのだろうか。
学生の期間が1年伸びると生涯所得が最後の1年分減るって思う人はそんなに自分が安定した人生送れる自信に満ちているんだろうか…?
猫が15万頭殺処分されていると聞くとかわいそうだと思うけど、一方で牛肉や豚肉は平然と食べるのがふつうなわけで。
母はある種のメンヘラと言える状態だったんじゃないかという気がする。
母は離婚歴があり、前夫とは流産してから上手くいかなくなって、それから不安定になったそうよ
詳しくは分からないけども、僕が過保護に育てられたこととそれとは何らかの関係はあるんだろう。
自分自身はそのことは「ふーん」という感じなのだけど、間接的に影響は受けているのかもしれない。今度こそは、と思われて生まれたわけだから……と今思った。
それをはっきりと聞いたのは父方からで、そう考えるとやはり母方の親族内のガバナンスみたいなのはもうガタガタなんだな…
母方の4人きょうだいのうち、普通に結婚してうまくいってるのは1人で、やはりそこには何らかの病理を想定してもいいような気もする…
ただ、いま思い返してみると、母がバツイチで流産してた話は母本人から小学生くらいの時に聞いていた記憶がうっすらとあるのだけど、なぜ小学生の時点でそんなこと伝えたのか分からん…
なんというか母方は色々と特殊な事情があるのではないかという気がする。別にそこが分かったことで何かが変わるわけじゃないのだけど、何か根深さを感じる…。
東京駅で亡くしてるっていうのは何なんだろうね…
「流産してからおかしくなり」っていうところに何かある感じがする(父方の祖母から又聞きで聞いたので理解しやすい物語に変わってるように思うのね)
布団ごと入浴すればいいのでは
実際ツイ消しが言わなかったことになるというツイッター独自の感覚は何なのだろう?
現実だと言ったことは瞬時に消えてくのに言ったことは言ったことになってしまう。
消しても言わなかったことになるわけじゃなくて消したことになるだけなのかな。
よくあるライフハックとして、whyを考えずにhowを考えましょう
お線香っていうリプに対してイミフすぎワロタって返せるのは確かに色々と空気読めなくて苦労してるんだろうな感がある…
自己管理能力が上がれば絶対あれなんだから…
でも東京に住んでいる以外の未来が想像できない…
あぁ…なんか世界を勝手に一人で抱え込んでしまっていらいらする感じ…
シャンプーの試供品を使い、「ほろ苦いあんずと上品な桜の香り」の髪の毛の男子になった…。
ていうか進振りやり直した2年生の頃には大学にはもはや何も期待していなくて、なんとなく幅広く学べてそんなにきつくなさそうな文学部倫理学科に進学したのだった。最初は学部で卒業して法科大学院に行こうかと思っていた。
ところが文学部の授業をいろいろ受けてみると結構楽しくて、とりあえず修士くらいは行ってみようという感じになって、それはまぁやめたのだけど、今の見通しとしてはワークライフバランスを大切にしながら読書などを趣味にして生きていきたいなぁという感じ。
自分で何か業績を残したいという欲は薄くて、この性格はもう多分変わらないんだろうなって感じが今しているから、たぶんどこかで多かれ少なかれ撤退していただろうなぁとは思う。
色々とまぁ精神的・生活的な悩みはあるのだけれど、読みたい本があって勉強したいことがある、というのは確かな人生の羅針盤の一つにはなる。一生かかっても学べることがわずかだろうというのは打ちのめされる事実でもあるのだけど、逆に考えれば楽しいことは無限にあるわけだから悲観すべきでもない
でも知識労働的な職業についてワークライフバランスを維持していくっていうのは相当なバランス感覚が必要とされるというか、たぶん自分の人生や欲望とかなり真剣に丁寧に向き合っていかないと中々実現しづらいよね…がむしゃらに何かに取り組むというのとは違うから
やっぱり自国の国民の命というのは他国の国民の命より重いんだよね…。今の国際社会はそういう原理で成り立っているのだから
こういう乾いた勉強をして見えてくることもきっとまぁあるにはあるでしょう。
今日は「みずみずしく可憐に咲く山桜の香り」の髪に…
でもまぁ自分でそれなりに考えて選んだ道だしそんなこと思わなくてもいいだろう。
卒論は何のためにやるかといえば、基本的には知的能力の訓練と割り切ってやるしかない。がりがりやるしかない。
冷蔵庫・電子レンジも処分することにした
何か知識量バトルでボコられた感が…w
millionsageさんの知識量の謎
そういえば、冷蔵庫と電子レンジを引き取ってもらおうと思って、ググって某業者に電話かけたら、すぐに来てくれて3000円払って書類の控えなども何もなしにそのまま去っていったのだけどあれ大丈夫なのだろうか
フィリップスの回転式電動髭剃りに買えてから、剃り負けやら伸び過ぎの不精髭はなくなったのだけど、あんまり深く剃れないので毎日剃らないとつらい感じ
「従来演繹論の核心と思われていた主流の解釈を覆し、広汎な先行研究を見渡した上に新たな地平を切り開き、教官をも唸らせたカント論。」みたいな感じどうだろう。
「まぁ一人で読めるというのは正論なんだけど…、」に続くような感じのニュアンスで、読書会=お稽古事
確かに、読書(会)=お稽古事というニュアンスで言えることとして、「ひとは自然に文章の読み書きができるようになるわけではなく、本を読むことは一つの技術であって、一人一人巧拙があって、続けていないとセンスが鈍る」ということはあるかも。
大学受験の時の現代文の先生が、現代文なのにたまに品詞分解までして「てにをは」ひとつひとつにまで気を付けて解説したりする凄く完璧主義の先生で、たしかに解説をされると自分が普通に分かったと思っていたところでもいかに誤読していたかが分かり、文章を読むのって本当に難しいのだと思った
人を殺してみたいと思ったことはないけども、ふとした瞬間に(ここで自分が◯◯すれば相手は死ぬんだ)と想像して(たとえば鉄道のホームで並んでるときとか)、世の中は信頼で成り立っているんだなと思う。
散髪してもらってるときに、美容師さん(理容師さん)が突然狂い始めて顔刺してきたりしたら全然抵抗出来ずに少なことも大怪我するんだろうなと思ってこわくなったりとか
ていうか、純粋に物理的な意味では人を殺すことってとても簡単だし、殺されうる局面って普通に日常にたくさんあるわけで(道端にいれば車に轢かれうるし、美容室・理容室では簡単に殺されうるし、駅のホームでも突き落とされうるし)、そういうのがそんなに起こらないように網が張り巡らされてるの凄い
本はインクの塗られてる紙の塊で、人間は哺乳類の一種で、紙幣は紙切れで、自分はいまこの身体を通して世界と交渉していて、この眼を通して世界を視ていて、指を動かそうと思うと確かに指は思い通り動いて、ってくらいの場面まで意味が解体してしまっていって、どうしようもなくなる感覚
というかテアイテトスさんはスペック高すぎて悩みの次元も高すぎてびびるぞ…
とにかく生活の自由度が高すぎるとつらいな…
なんか眠りが浅くて変な夢を見るなぁ
sekai no owariはあれは本人達としてはかっこいいと思ってやってるのか笑いをこらえながらやってるのか
な〜にがPDCAサイクルじゃ
隣の女性はSPI?の問題集を解いている
SPIが終わった隣の女性はメイクの練習をしている。
とにかく自己管理能力を上げる一年にしなければ。
主権国家体制が終わっていくのと領土問題がなんらかの形でなくなるのとどっちが先だろう…
でも国境の線引きって周縁部では恣意的にならざるをえないし、時代によってそこに経済的・軍事的な重要度が出てきたら絶対争いになると思うのだけど…
交渉中の状態を継続させておく以上に決定的な解決ってできないんじゃないだろうか。国際情勢に何か大きな変化が起こって、その弾みに運良く何らかの取引ができて解決する、みたいなことはありそうだけども
さすがに多分Jポップ論はどんなにクリティカルなものを書いても卒業認められない…
倫理学科の卒論は、古典として評価が定まっている(or可能性を見出せる)テクストの研究ということになっているので
でも「古典」といっても小林秀雄くらいまでは過去に例があるので、どこまで新しいのが認められるかは分からないですね
健康とか寿命とか体型とか何も考えずに炭水化物をガツガツ食べたい〜〜
家家家でラーメンとご飯2杯食べると1300kcal…
mesmたん~
サイゼリヤの1500mlボトル1080円(税込み)のワイン
ただ自分が生きてるというだけで無数の人を暗に傷付けているのだな、という感覚はもうずっと消えない気がする
正直、あまりに悲しい話からは目を背けたくなってしまう。
やっぱり中高の国語の先生は重松清とか村上春樹とかそういうのを読まなきゃいけない仕事なのだろうなぁ
その人は科学哲学者の伊勢田先生であるよ
政治・社会のことを凄く抽象的・理論的に突き詰めて考えられる人っていうのはどういうモチベーションでやってるんだろう。
「自分の欲望を確認したければ親を研究する」ってよく言われているような気がするんだけどそんな生活の知恵が書かれているのか
何回か言ってるかもしれないけれど、自分で思っていた以上に僕は相当極端な性格で、だから自分に適しているライフスタイルのようなものは自分自身で試行錯誤して作っていくしかないんだろうなということをここ2〜3ヶ月くらい(かな?)感じている。
大学に入ってからここ4〜5年でそういうことが一気に顕在化してきて、自分でも分かるに至ったという感じがある。
他人に羨ましさを感じなくなったというのは良いことなのだろうか。
なぜ羨ましくないかというと、僕が(以前は)憧れ、羨望・嫉妬していたような人々というのは、たぶんみんなそれぞれ何らかの点で感受性が鋭く、そういう人はどんな場所にいても、他人から見たらどうでもいいような何かに悩まざるを得ないのだろう、その意味で不幸でいざるをえないのだろうと思ったので
この変な感覚はなんだ…?
ん〜睡眠が浅いのだろうか
「私も結構な嘘つきだけどさ、この人も大概だよ。『神の前には皆平等』とか『信ずる者は救われる』とか『求めよさらば与えられん』とか、嘘ばっか…嘘ばっか付いてんじゃないわよ!頼んだ?私が生まれたいっていつ頼んだのよ!生かしてくれって頼んだ?何であの時終わりにしてくれなかったのよ!」
一時期まで鼻はつまってるものだと思っていきていたから、寝るときに鼻呼吸ができるというだけでもとても快適
認知の歪み。
何に興味があるかというと、ここ数年は、他の人が何をどう感じてどう考えてるか本当に分からないから、それについてずっと気にし続けてるっていうのはあるかもしれない。
む〜僕には何が足りないのかな〜何をどうすれば生活が規律できるのか…
存在論的というよりは認識論的な色彩が強い問題なのだろうか。
1.6〜7歳くらいの頃まで病弱で病院に定期的に通っていたのだけど、通い慣れてるせいで注射に慣れていて、「子供なのに注射で泣かない子」として褒められていました。
2.青色の色弱(男性の20人に1人の頻度でいる)です。
3.小学1・2年生の頃、学校に行くのが嫌でよく仮病で休む時期があった。
4.東大病院で生まれたらしい。
5.食べ物の好き嫌いはほとんどなかったが、うなぎだけ高校生の時まで嫌いだった。
6.10月24日生まれなのだけど、国連が活動開始した日と一緒です
7.幼稚園生の頃万引きして店に怒られたことがあります。
8.泳げない。
9.鍵アカを再開しました。
10.これかなりどうでもいい情報だと思うのですが、昔やってたテレビ番組の「たけしの万物創世記」のテーマ曲が凄い好き。分かる人には分かってもらえるはず。
11.10代の終わり頃の一時期、深夜にやってるラジオ番組「伊集院光の深夜の馬鹿力」を毎週聞いてて、とても好きでした。
みんなよくこんなつまらない世の中で生きてられるなぁという気分だ…
なんかやっぱり倫理学で研究者目指す人が何を思い描いてるのか分からない…定職つける保障がなくて、つけたとしても相当いい大学でもない限り指導する学生は基本的に倫理学とか興味ない人たちじゃないですか…若い頃に苦労して多大なリスク取ってまでそんな職業を目指す動機は何…?
本当に能力や性格は人それぞれだから、能力が高くても居場所を間違えたら不仕合せになるし、自分の収まるべき場所をきちんと見つけられる・作れるかって凄く大事なんだろうなぁ…。
というか企業の経営者って自分の動き方ひとつで何十人何百人何千人の社員の未来が良くなったりだめになったりするわけだから、まともな精神を持ってたら怖ろしくて務まらないし、どこかしら精神的におかしいものなのかも知れない…
だからこそやっぱり、慣習や常識などに頼るではなく法律的に労働基準法その他の遵法を促すというのも大事になるんじゃないだろうか。
中学受験の時すごく心配性で塾にあおられて1月校(試し受験)3校と2月に滑り止めも含めて4校受けてたし、大学受験も落ちてないのにやり直したし進学振り分け前に1留したしまた卒業前に二留目してるし、その辺はある意味一貫しているのかもしれない…
正直言って二回目の留年はかなり冷静さを欠いてたしもっと他に身の振り方もあったし要らなかったんじゃないかとも思えてきた…今更だしまぁ今は今やれるようにやるしかないのだけど。
未来に対する大きすぎる不安感に助けられるときもあるけど振り回されてるときもかなりある。
urteil(判断)がur(原)-teil(部分)なのはなるほどと思った
本は食べ物の比喩よりはダンベルの比喩で捉えるべきものだろうか。
自分の知識・理解力・発想合ったものを選ばないと無駄が多いとか、それに合わせて頭を動かすことに意味がある、という点でダンベルに近いイメージで捉えるべきなのかも。
食べ物に近いようなイメージで考えると、とにかく良いものをたくさん食べなきゃとなってメンタルによくない。
ただダンベル的読書っていう言い方もそれはそれでストイック過ぎるか。本を材料として精神を遊ばせる、とでも言えばいいのだろうか。
ダンベル的本/遊び道具的本、みたいな。
息を一気に吐くことで腹筋を鍛える方法は座ってたり立ってたりでもできるし肺活量も鍛えられそうだし良さげ。
夜にラーメンを食べたくなる時の心理を分析してみたのだけど、①消費の快楽を求めている②単純に身体が栄養を求めている可能性があり、そこで高カロリー低栄養なものを食べてしまっている③(①との関連で)食べることが生産性のイメージと結び付いていて、生産性のある行為と暗に錯覚している、などか
おそらくいま僕は普通の人が経験し得ないレベルで何の束縛もない自由な生活を送っていて、それは僕の性格的にあまりメンタルによくないのだろうと思う
心配性+取り留めのない自由+自己管理能力不足は精神衛生に悪い
ところで、最近映画とか見ようと思っても、「これフィクションなのに何が面白いんだ…」と思ってしまう…
この疑問の気持ちはあんまり伝わんない気がする。なぜ自分でもそんなことを感じちゃってるのか分からない。さいきん物事の認識の仕方がだいぶ混乱してる気がする。
うまく言えないんだけど、猫が猫じゃらしで遊んでるのを眺めるような気分で、人間(自分含む)が光を出す板を懸命に見てる光景を冷めた目で眺めてしまう、とでも言えばいいのだろうか…?
フィクションじゃなきゃ面白いのかというとそういうわけじゃなくて、ノンフィクションなら良いとか現実で何かが起こるなら良いという話ではなく、そもそもなぜフィクションなんてものがあるのか分からない、といってもずれるんだけど、あえて伝えるとすればそんな感覚…
某本で、古代の都市国家で60進法が発達した理由が凄く納得のいくように説明されてて感動している。
10進法は指との対応で数えるのに便利で発達した一方、別系統でものをわけるのに便利な1カタマリが12(2でも3でも4でも割れる)と言うことで12進法が発達した地域もあり、原始的な2進法、3進法、5進法などの地域もあったのだけど、それらをまとめて度量衡を統一するとき最小公倍数の
60進法が便利だったんじゃないか、みたいな
というか哲学に入門する前に哲学なしで解決できる人生の悩みを現実的に解決しておけば大体の人は入門せずに済むのではないか。
なんかタンパク質的なものだサッと食べられる場所がどっかあればいいんだけどな〜
現実に起こっていることとしてはみんな別々のデバイスで別々のTLを見ていて、自分自身もその一人として自分でフォローして作ったTLを眺めながらそれとは別にフォロワーに向けてつぶやいているというだけなのだけど、なぜかTLに一つの世間を見出してしまい、そこに向かってつぶやいてる感じになる
パーッとできる何か…
ドラゲナイドラゲナイ
あぁ…もう人生に根本的に新しい何かが起こる気がしない…
この2〜3年間はかなり楽しかったように思うのだけど、ここからどうなるのだろう
せっかく銀座に来たのでハッピーサイエンスカフェに寄っています
かなり雰囲気のいいブックカフェで、幸福の科学関連の本が結構目につくのがネックだけど、その抵抗感でみんなが入らない分この時間帯でも空いてると思われるので、総合的に考えてかなり良い。
「一人一人に合ったオススメ書籍をご紹介します。ご希望の方はスタッフへご相談下さい。」とのこと。
振り返ってみると僕は基本的に厳しいこと言ってくる人は嫌いなんだな…
桝田啓三郎は「卓越した語学力の持ち主であり、キルケゴール、ウィリアム・ジェームズ、フォイエルバッハ、フィヒテ、ベルクソン、デカルトを翻訳」(Wikipeda)したのか…。
「特にキルケゴールについては、独学でデンマーク語を学んで原典から翻訳し、それまでドイツ語訳を使用することの多かった日本の研究状況を一変させた。」
銀八丼でドラゲナイが流れてる…!
僕は本というものに何を求めているんだ…?
もう全部要らないんじゃね?という気すらして来る。
Wikipediaで調べると「中山 元(なかやま げん、1949年 - )は、日本の哲学者、翻訳家。東京都生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。インターネットの哲学サイト「ポリロゴス」を主宰。多くの哲学書を翻訳している。」ってなってて一体どんな人なのか凄く謎な感じがする。
RT鍵: 龍さん、就職して1年以内で辞めそう。
実家の二人のクレーマー力は凄かったなぁ。
お金を払えばなんでも要求できると思っている感じだった。
お金、友達、恋人、でだいたいは解決するものでしょう。
面白さを目新しさに求めようとするといずれネタ切れしてしまいよくない。
風邪=せき、というイメージがなぜか強くて喉の痛さとか鼻づまりとかあっても風邪とすぐに認識できない…
ずっと慢性的に鼻詰まっててここ3年くらい薬を常用して鼻が通るようになったのはとても快適
というか鼻は詰まってるものだと思ってたからこんなに世界が違うのかと驚いた
寝るときに鼻呼吸するのって本当に気持ちいいよね
鼻に副交感神経が通っててそれが刺激されるかららしい
ずっと鼻炎で鼻が通ってなかったので、寝る時の鼻呼吸は本当に素晴らしく気持ちいいと感じてしまう。
アレルギーの検査したらハウスダストのアレルギーの他に軽度の花粉症もはっかくしちゃったんだよな…
こんな時間に寿司の板前さんがにこにこ働いている時代とか後にも先にも今が最後なんじゃないだろうか…
廣松渉『科学の危機と認識論』が面白い
世の中には、いくら忙しくしても変わらず活動的な人がいるものだけど、思うにそれは、いくら食べても太らない人と同じようなもので、もともとの体質で決まっていて、一般人がそれを真似したり羨んだりすると不幸にしかならないのではないだろうか。

2015年3月
3月に就活解禁なの?
今日は風邪だし「僕の生きる道」か「白夜行」を借りてきて家にこもって観る!
あぁでも「やまとなでしこ」もいいかも
唐沢寿明が演じた方の「白い巨塔」
女王の教室!懐かしい。
東京ラブストーリーとか
男女7人夏物語
風邪だし思い切って白い巨塔8巻セットを借りてみた
白い巨塔が放映されてた頃って医者叩きがすごい流行ってた気がするけどなぜだろう
外科手術って瞬発的な判断能力と技術的な上手さとチームワークも必要そうだし大変そう。
現代日本人としての自分からみて、物質科学が発達してなかった古代・中世における哲学で「存在する」という事柄がどういう風に捉えられてたのかが根本的にまったくイメージがつかないんだよねぇ。
現実の物質世界のミクロな構造を明らかにするような物理・化学が全然発達してなかった時代の頭いい人々が「存在する」って言葉を使うときどんな感覚をもよおしていたんだろうと。
原理的な次元に立てば変わらないとしても、原子・分子のスケールで宇宙の始まりから生命の誕生まで事実レベルでは説明できちゃう時代の感覚とは全くかけ離れているであろうことはおそらく確かなわけで。
教授選、医療裁判、財前の死、の三本立てくらいか
風邪治ってきたけど押し出し切れてないな〜…
医療ミスのようなものは完全になくしようはないし仕方がない面はあるとしても、組織的に隠蔽するような事件がたとえ全体から見ればごく一部であるにしても起こるのはなぜなんだろうか。
初期衝動で論文書くとしたら何をどう書くだろう…
枠組みを意識してしゃべるってどんなんだろう?
もっと自分の頭の働かせ方をコントロールしたい感じがする
無駄なことを無意識にいろいろ考えすぎてるせいで疲れやすいんじゃないか
コンビニとtsutayaとインターネットがある場所で生活したい
じっさい旅行らしい旅行というものをここ4年くらいしたことがない
もっと色々と何に関心があって何に関心がないのか丁寧に考えねばなぁ。
すごくニヒルな気分になってきたせいで本読んでも「なんでこんな馬鹿馬鹿しいこと論じてるんだ」って思えてしまう
薬局の薬剤師さんって物凄くつまんない仕事のような気がするんだけどそうでもないのかな?
まとめられる用事はまとめてこなすと良いのか…!
5年前と比べてもwebで得られる知識って質的に結構上がっているような気がするんだけど、この感覚は妥当だろうか?
ずっと気になってた映画『ソラニン』(浅野いにお原作)を観る
「古舘伊知郎は周りの空気に合わせて適当なことを言う人で、テレ朝でやってるから左翼っぽいこと言ってるけど特に政治的立場はない」というのが今までで一番納得した見解
久米宏のほうが面白かった。
睡眠時間を減らして何かをやりたいという人の気持ちが本当に想像できないのだな
もっと時間的・社会的に制約を受けた方がむしろ何かをしたい気持ちが湧いてくるのかもしれない。あまりに無定形すぎる。
眼は片方あたり6個の筋肉がついていてそれらの伸縮で向きを調節していて、寝ながらスマホを見るのは重力の方向的に余計な筋肉を使うことになってよくないらしい。
眼が悪くなるっていうのは眼を動かすのに使っている筋肉の動きが悪くなることも含まれているそうで。
秋葉原はヨドバシが大きすぎて他の家電量販店の存在意義がもうあんまり分かんない…
北九州炭坑節
適正量の仕事をちゃちゃっとこなしつつ忙しいフリしてたくさんの仕事は回ってこないような社会人になることは出来ないだろうかなぁ
シリーズ・哲学のエッセンスの表紙って眺めてると不安定な気分になるデザインだ…
今更なんだけど、駿台の『新・理系の化学』という参考書を読んでいて、今まで(大学教養課程まで含めて)習ってきたことはこういう風に繋がってたのかと目からうろこが落ちまくっている
ワットの蒸気機関の発明から気体の研究が盛り上がって原子論の確立へと至る流れとか、それが電気の研究や量子論などとも絡みながら原子の内部構造への解明まで辿り着く概観や、金属原子を二原子分子を作る場面を仮定して、そこがらなぜそれが金属結合を作るに至るかを説明するなど、鮮やか。
普通のことしか書いてないけど、普通のことを普通にできるようにならなければ…
死ぬまでに自分は何をできるか、何をしたいか、っていう形の意識が出始めたのは3年くらい前だろうか
それよりガラス瓶とかをどっかに投げつけて割ったりできるとすっきりしそうなんだけど…
このなんとも言えない衝動と眠さが同時にあるのはなんなんだ…
ハムスターみたいに回しぐるまの上を走ってみたりしたいような気分
銀行の窓口ってふつう何時からやってる?
カント哲学を振り回すDQNなおじさんがいたのか…
果物とかたんぱく質系を単体で出してくれる喫茶店とかファーストフード的なのが欲しい。高くても需要あると思うのだけど…。
もっと音楽を分析的に聴けるようになりたいねぇ
細部の襞を分析的に受け取れるような感受性を培わないと何やってても最終的に飽きるのだろうか
さっきまでは、突然走り出したくなるようなテンションの高さを持て余してたんだけど、今度は呆然とした気分に。。
いずれにせよ数学はどこかのタイミングで勉強したいものだなぁ
これからの人生どうやって暮らしていけばいいものやら…
いまは幸か不幸か宙吊り状態なんだなぁ
これまさか風邪じゃなくて花粉症だったりしないよね…?
完全に社会科見学だ〜
絶対揺るがせるべきじゃない目標は卒業くらいなんだよなぁ。
映画の名作を観るにも映画的教養が必要。
確かに人類が月面着陸達成前に作られた作品だと思ってBGM代わりに作業しながら観るとすごいような気がしてくる。
ツイッター的な価値観というか自分で作ったツイッターのTL的な価値観の規範に馴染んじゃってるせいで飲み会の与太話みたいなおしゃべりの一言一言にもやっとしちゃって話のテンポについてけない…
「嫁さんは三世代同居を経験してる九州か東北出身の人がいいよ」みたいなことを言われるともやもやっと10個くらいの疑問が浮かんじゃうので何もリアクションできず愛想笑い返ししかできない
『風の歌を聴け』みたいに地元の行きつけのバーで友人と語らったり帰りに飲酒運転で自動車を公園に突っ込ませてそのまま逃げて帰ったり泥酔してる女子を介抱して淡い恋をしたりその合間に元カノのことをほんのり思い出したりする大学生生活
でも宗教勧誘は一回くらいだったかなぁ
ふと疑問に思ったのだけど最近の大学1、2年生ってどういう概念に振り回されてるんだろう
存在するって何?
「専門は歴史学です」「へぇ、記憶力いいんですねぇ」
自分の経験的には教科書的なものは(文部科学省の検定教科書みたいなのも含めて)もらった時の数年後にさらっと読み返すと一文に含まれてるニュアンスみたいなのも読み込めて納得することが多かった。
お医者さんが書いてる岩波新書にも間違い(細かい説明を省いたためのミスリード?)が載ってるっていうのはやはり驚くなぁ
個人的には大学入学以前/以後の断絶が大きく感じられてあまり時間の流れというのを感じて来なかったのだけど、さすがに4年前から振り返ってみると自分も自分を取り巻く状況も随分と変わってしまったなぁと思う
あらゆる人がその人ひとり分の存在の重みを背負って生きていかなければならないというのは大変なことだ…
『砂糖の世界史』を読んでます
金融なんて言ってしまえば全てデータ上で起こってる話なのになんでこんなに複雑なのか
東大語りをする人、自分の巡り合ったコミュニティ界隈の経験で東大を一般化して語るのはなぜ
漢文の訓読法って、言語学やら文法理論が未発達だった近代以前に古典中国語を何とか日本語(現代日本人からみれば古文)に擬して読むために考案させて練り上げられてきた技法であって、その流派にいくつかのものがあったうちの一つが明治時代の国語教育を整備する際に採用されたのだけど、
その読み下し方は英文法やらを知っている現代日本人からすればかなり強引・不正確であるところもあったり、読み下したもの(=古文)をさらに日本語に訳す二重の過程を経ることになるので、現代の学習者の立場から見て必ずしも、合理的な学び方とも言えない、ということか。
でも漢文読み下し調の和文(近代以前・以後を問わず)というのもあるからその辺の立場のとり方は大変だよねぇ。漢文を輸入する過程で日本語にも影響があったからこそ「国語科」で漢文を教えるカリキュラムになってるわけで。
何となくゴーゴーカレーの雰囲気ってブラック企業っぽくない?
演劇は観る側として知識をつけていきたいなぁと思う
ドラマ白夜行放送当時、主演の山田孝之と綾瀬はるかはそれぞれ23歳と21歳で、僕はもうその歳を過ぎてしまっている。
鼻呼吸って気持ちよくない?
テレビドラマ文法みたいなのをどう考えるか
こういうシーンは現実にはありえないけどドラマの表現効果上許してください、という一連のドラマ的パターンみたいな
大野晋『日本語の起源』は岩波新書なのにトンデモ本(日本語の由来については定説がないというのが通説なのだけどタミル語との関連を主張しているので)という珍しいパターンらしいのだけど、
平均的・日常的な世界の見え方ってどんな感じなんだろうなぁ…。
白夜行は生きる意味ということについて感じ入らざるを得ない
人間は自分の行動というものを通常は目的-手段の連関で考えていて、何らかの目的があってその手段として行動する、その目的もさらに高次の目的となる、という風に見なすことが多いのだけど、生きるということにはそれより高次の目的は設定しにくい、だから、生きる意味というのはある意味考えても無駄
例えばの話、大日本帝国のために、みたいなフィクションを信じて死んでいった日本人を(そのフィクションを心底信じていたのだとすれば)戦後から事後的に振り返って不幸だったと一概に断定することも出来ないように思う。
形而上学的な問題ではなく現実的に言ってこの世界の見え方感じ方は人によって驚くほど異なっていて、なのに同じ世界を共有しているかのように普段過ごしていて、世界の現れ方の異なり自体は誰一人として誰とも共有できなくて、その意味で各々の人間は絶対的に孤独で、
イギリス人は、イギリスを除いたヨーロッパ地域=海をはさんだ対岸を対象化して「ヨーロッパ」と呼ぶことがあるそう。「今度の休みにはヨーロッパに行って来るんだ」といったように。とても奇妙に感じられるのだけど、日本人が「アジア」というときも外国人からみれば同様に奇妙に響くのだなと思った。
のびのびしてるときのほうが頭回転するのはまぁそれはそれで良いのだけど、プレッシャーかかっても落ち着いて対処できるようにならないと競争社会?にうまく立ち向かっていけない
tencubeさんはたしかに普通の人ではないという印象はあるし、そう言われてもあまり驚かないのですが、「自分が統合されている感覚が希薄」ってどういう感覚なのかは気になります。一般的な人は自分が統合されているかいないかを自覚的に考えること自体あまりないはずなので。
「60兆個の個々の細胞の動きのもとに脳神経系統を中心にさまざまな代謝・知覚・運動etcが起こっているこの生体において自分の人格が一つの人格として統合されていることはまったく自然な現実とは言いがたく、常に脅かされうる」という事柄自体は理屈としては理解できる。
ひとつの人格として統合されることが必然的に要請されるのか、合理的だからそうしているのか、その辺は色々と考えることができるような気もする。
実際にあったこととして一つの体に二つの頭が付いている奇形児が二つの人格を持つことはまだ受け入れやすい(この場合も神経系統がどうつながっているのかとか考えると難しいけど)と思うのだけど、ひとつの通常の形の身体に一つの人格が宿ることは、それが一番シンプルでそれゆえ合理的だからなのかな
でもそれ以上に理念的な必然性とかを見出さないと統合失調症とか多重人格とかを異常とする根拠が生活上の合理性以外になくなってしまうのでは
RT鍵:こころの適応的意義はいろいろ言われている、発達もわかってきた、系統発生もやられている、となったときにニューロンの発火からどうやってこころにジャンプするか、という話が未解決のまま
素粒子とかひもとか宇宙の始まりとかまで分かりかけているのに、心脳問題はまだ決定的な解決はないまま
原理的にいってこの世界に存在する存在者には解けない問題なのか、それとも脳が極限まで発達しちゃったりしたらむしろ逆に直観的に分かっちゃうような簡単な問題になったりするのか。
最初は統合失調症の話を考えてたはずなんだけど
知る人ぞ知る大学入試対策用の参考書、『思考訓練の場としての英文解釈』の第3巻・完結編が2巻から40年越しに去年出版されてたらしい。
デネットはともかくSF小説作家の名前を出してきてあれも読んでないこれも読んでないといってくるのはさすがに言い掛かりでは…
というか一回自分で考えておいて疑問を作っておかないと、いきなり読んでも問題意識が入ってこないし、まぁ色々と考え散らかす時間は大事なのでは、っていう
白夜行の桐原亮司が死亡したのは25歳の設定
心とは、死とは、存在とは
叫びながらガラス瓶を投げて割りたい〜
生産手段というか中央銀行を所有して紙幣を好きに自分のために印刷できる身分になりたい
説明会に行くから読書会キャンセルしたはずなのに結局今まで本郷三丁目近くのドトールにいるっていう。。
なんかこれゲームか楽器か何かでもないとこれから1年くらいやってられなさそうだし秋葉原にでも行ってみる
ヨドバシに来ても資本主義って叫びたくなるね
電子キーボードって4000円で買えるのね
音楽やってみるならDTM面白そうね
DTMをやりたいことリストに入れておく
BQ38本当に面白かったです。
個人的には、5年前のものより今回のものの方が脚本の表現したい世界観をくっきりと描き出していたように思う。だからこそきちんとシリアスな雰囲気に仕上がっていたと感じたから好き嫌いは分かれるかも知れないけれど、僕はそういうシリアスな雰囲気の作品の方が好きです。
BQ38をビーキューサンハチって読むと1Q84を連想してディストピア的なあれのイメージでオーウェルの作品『1984年』まで飛ぶんだけどこの連想の糸は誰も共有してくれなさそうだしツイッターでつぶやいとこw
私見では、人生の意味が幸福にあるというのはここ数百年広まりつつある幻想でしかないと思う。だから、「あなたはBQ38で、幸せにはなれない」と言われたとしても、「だから何なんだ」と言い返して堂々と生きていけばいいと思うのだ、と解釈したのでとてもエネルギーをもらいました。
合理的な社会科学の発達によって人生の予測可能性が高まることによって宗教が凋落していき云々、ってウェーバーが言ってたのだっけ?
明日実家行ってみるかな~
人類史上もう二度とないくらい豊かな時代の豊かな地域に生まれたと思うのだけど、江戸時代の人とかもそう思っていたかもしれないしもっとすごい時代があとで来るのかもしれない
色々見に来てくれた人達の中でも2011年の『さよならノーチラス号』が結構評判いいし、演劇の団体内的な美意識と友達として誘われて来たくらいの一般的なお客さんの見方はずれるのだなぁと思う
今読んでる本が近代とニ値論理と二大政党制を並べて論じててあまりの雑さにワロタ
「とくに、過剰な熱力学に憑かれた工業社会のメタボリズムをいかに冷却するかが大きな課題となるだろう。」って後書きだから筆が滑ってる感がある
あと、良い演劇を観て「自分もまたやりたい」という気持ちはほとんど湧かなくなって、むしろ「今度ももっと良い劇を観せてくれ!」って気分になることが多くなったので、その辺は周りの人とは違う感性になってきたんだなぁと思う
某喫茶店に来たのだけど、時代に取り残されてる感じの場所だ…タイムスリップした気分…
経営成り立ってるとはとても思えないのだけど…
なんか経営とか以外の情緒的な理由(ずっと続けてきたからetc)みたいなのがあるのかなぁ。場所が賃貸だったら絶対に赤字だと思うんだけどその辺どうなってるんだろう。
ツイッターを開くちょこっとした暇の積み重ねは何かを生み出しているといえば生み出しているようにも思えるし、頭がざわつく原因のひとつになっているようにも思えるし、たとえば仮にツイッターをやめてもそのスキマ時間は別の何らかの形で漠然と消費されていくだけな気がする
確かに、根津、千駄木にもっと目を向けてみるべきかな。
教養と社交性と人望ほしすぎる
おとなは何でも知っていると思っていたはるか昔に戻りたいなぁ
人文学は「《文系》の頭の良い人達の趣味」以上にはならないのかなぁ…
地理も全然わかんない。
うまく言えないのだけど、長く取ればこの6年間、特にその中でもこの2年間ぐらいで一気に感性が解放されたみたいなのがあって、普通の人が中高生くらいから徐々に積み重ねていくような人格形成を、一気にやり直したみたいなのがあり、その間の感性の広がり方のスピードは凄かったので楽しかったのだけ
ど、最近になってだいぶ落ち着いてきて、スピードが緩んできたのだけど、いままでのスピードの楽しさに慣れていたので退屈になっていらだっている、みたいな感じがここ2〜3ヶ月くらいある。
『涼宮ハルヒの憂鬱』のテーマは今になって何週か周って身に染みてしまう
「あんたさ、自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在か自覚したことある?それまで私は自分がどこか特別な人間のように思ってた。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。
日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ、そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故?」
「世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ、そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故?」の部分はあんまり同意できない。そのほかの部分をここから切り離すと同意できる。
ハルヒ自身は面白いことを見つけようと思って色々試してみるもなんかフラストレーションがたまっている、その周辺でキョンなどに対して色んなことが起こっている、みたいな話だと思います
てあてあの欲に見合う技能と蓄積ってなんか大哲学書が出来ちゃいそうな気がするんだけども
医者と弁護士の知り合いはいた方がいいとかよく言われることがあるけど、専門家が知り合いにいるとなんか違うのか?ピンと来ないのだけど
昨日の怒り新党の新三大は絵画史における乳房だった(いま録画してるやつみてる)
なんというか、どこかの時点で「人並み」の人生ルートと同期したいという気持ちはやっぱりあって、今ならそれは出来るし目指してはいるのだけども、もはやここまで来たらそんなこと関係ないんじゃないの、という気持ちもある。
中南米には、「働いて苦労をする」という観念を持たずに暮らしている原住民がいるのか…
何というかつまり、黒人奴隷とかがやってきた要因の一つとして、現地の原住民には「働く」という観念がない人々も多く利用しづらかったからということもあるとか、そんな話だと思う
ジャングルだから食べ物はそこら辺にあるし、熱帯で暖かいから衣服も住居もほんとに簡素だったりするとか
我二十四ニシテ地理ヲ学ブ
参考文献一覧書くみたいに、音楽も参考曲とか着想元とかの注をつけてくれるとジャンル全体の見通しが良くなる気がするのだけどな…
そういうの分からないし調べる気力もないからJポップの世界だけに浸かって楽しんでしまう〜
何というか、これ以上世界には何もないのか……
あと退屈なときは物質的に圧倒的なものに触れるべきな気がする
物質的に圧倒的なものというのは、舞台芸術とか、大きな公園の自然とか
料理したり運動したりお洒落したり、そういう自分から何かを創造する営みに楽しみを見出すべきかもしれぬ。
やっぱりどうしても某さんのあれがショッキングすぎてあれだったというのがここ最近の通奏低音になっているような気がする
話を戻すと、たぶん食べ物をコンテンツとして捉えてるような感覚のせいで色々変な疑問か沸き起こってるのかなと思う
流石にささくれ多すぎるし皮膚科行こう。 。
ここ数年の自分の変化は激しくて楽しかったのだけど、そのスピードの楽しさに慣れちゃってるせいでスピードが緩んでる今に慣れていなく、いわば、もうRPGを全クリしちゃって、あとはひたすらやり込んでいるとたまに新しい発見があるだけ、みたいな気分を人生に対して感じちゃっているような気がする
やっぱり身体性を軽視しがちなのでもっとそこのところ敏感になりたい
実家に久々に帰るか帰らないかでもやもやしている
帰らない限りこのもやもやは続くだろうし、それを考えると帰るべきなんだろう…
ファミレスに入ったら読売新聞を無料で配ってたから久々に新聞読んだら、死者数十人の事件3件の記事がここまでに出てきた
太ったことを最近じわじわと自覚しつつあり、知っている人と会うことに消極的になっている(ただでさえそういう機会が少なくなる環境にあるにもかかわらず)
「◯◯学」というそれぞれの領域は何を根拠に輪郭付けられるのかということが昔から全然しっくりこなくてもやもやする。当然ながら共通の基準とかはないだろうけど、かといって全く恣意的だと言い切るのも変だし
TwitterってTLの構成も密度も速度も全然違うのになんとなく同じ空間を共有してる気分になっちゃってるから怖いけど、よく考えたらそれは現実でだって同じなんだよな
ずっと気になってたささくれが塗り薬ですごい勢いで治ってて科学技術の文明の圧倒的勝利を感じる
なんていうかヘーゲルの研究をしている先生が一方では概説書という体裁とはいえ「~という主張はレトリックであって論理的誤りを犯してるだけ」ってわりとシンプルに書いたりするのってどうやって自分の中で両立させているのだろう
ある本を読んでいたら、時計の刻む時間より音楽の刻む時間の方が遥かに根源的だろうと主張されていて、この場合の音楽とはどこからどこまでのものを指すのかは難しいけれど、それを留保すればとても同意できる
音楽を聴いていて、いま確かに時間が流れているんだという感覚がひしひしと感じられる時があるし、時計にしても、針の音があると刻々と時間が刻まれている感じがするし、静かな部屋にいるときのふとした瞬間のちょっとした物音は、「あ、いま世界はたしかにあったんだ」という気分になる。
某予備校の某先生の書いた本(一般向け)を読んでたら、「最近うちの予備校が勢いづいてたり某先生がテレビに出っぱなしなせいで模試の作問やら教材作成の仕事が自分に回ってきて本の執筆が遅れてしまった」というような愚痴が書かれててワロタ
寿司食べながら日本酒飲みたすぎる。
これから一生いきていかなきゃならないのか…
スピッツってなんか理念的彼女に肉薄しようとしてる感じしない?
何の食品は~~が含まれているからどうのこうのとか言われても、代謝経路までさかのぼって根拠を説明してくれないと納得できぬ
『存在論的、郵便的』をやっとまともに読んでるんだけど、これはすごい著作なのか?

2015年4月
「東大卒のフリーター」ってどんな人だろと昔は思ってたけど、別にまぁ普通なんだなと最近は思う
そういえば、院生の人々の一部が「社会に未練はない」って言ってたのを聞いて、「社会に未練がないなら大学院やめて山にでも籠もればいいのに」と思ったのだった
もちろん(一般)社会っていう漠然としたもののイメージのもとに、自分(たち)をそれとは対置させてるのだろうけども、そういうふうに「社会」という語を使うのは本当に自閉的な場だなぁと感じてしまった…
もちろん、「一般社会的・世間的・経済的etcには報われなくてもいいから自分が本当に関心を持てることをやりたい」というようなことを言いたいのは分かるのだけども、それならそういう言い方をすればいいだけの話なのに、社会に未練がないってなんだよ、という気分はやはり残る。
虚無感〜
ジャケットのボタンが取れたー(-_-)
自転車いるかいらないか結論が出なくてもやもや。。
秋葉原、昔はわくわくしたのに今ではただの見馴れた繁華街だ。。
もう社会人になった人じゃなくて社会になった人でいい気がする
もともと体力ないのに若くなくなっていくのを感じる。。
ここから三島由紀夫みたいに一発逆転でむきむきになれない?
群像劇としてのツイッター
やっぱりなんか運動したほうがよい。
慢性的な肩凝りがあることに気付いたんだけど、これは大変にQOLを下げている。
もっと身体のメンテナンスに気に払えば健やかに暮らせるはず。
なんか、いろんな専門領域の院を転々としながら学振で生計を立てて生活してる人がいるらしいと噂に聞いて、すごいなぁと思ったのとうらやましいなぁと思ったのと
小さい塾で働いてたとき、塾長のおじさんが、自分は相対性理論の誤りを発見したと主張してた人で、たぶんその人自身が理解できてないだけなのに重大な矛盾を発見したと思い込んでいて、学会に行っても失笑されて終わってるのに、自分をガリレオになぞらえていつかノーベル賞もらえる天才だと信じてて、
なんていうか独学せずにちゃんとした機関でちゃんとした教育を受けるのは人生を無駄にしないためにも大事なことだなぁと思いました、はい。
その先生は人格的にはとても気さくでお茶目な先生で子供たちからは結構好かれていたし、相対性理論はどうこうということは生徒に向かっては一切言ってなかったからそういう意味では問題ないし、経営苦しいにしても人柄いいのだから普通に自分の人生肯定すればいいのに、そういう誇大な自己幻想がないと
生きていられないんだろうかということと、誰かいさめられる人が彼の人生に現れなかったんだろうかということと。僕も物理学的にどこがどう誤っているのかは指摘できなかったのでどうしようもなかった。
簡単な数式で相対性理論の誤りが証明できんですよ、っていってローレンツ変換がどうのこうのって言いながら黒板一枚とかで矛盾を導き出して終わる説明だったので、たぶんこのおじさんはただ単に相対性理論の形而上学的な前提をまったく理解しようとしてないんだろうな、という感じはあったのだけど
相対性理論が間違ってるっていう主張をそれこそ半生をかけてし続けてるわけで、もはやそういう人に向かって真剣に現実を突きつけるのって重すぎるし、なんていうかどうすべきなんだろう。
この部屋に住み始めて以来ベストワンってくらいに部屋が快適な状態になっている~
チェーン店の居酒屋の飲み放題で無意味に飲みまくって騒ぐような大学1年生の飲み会みたいなのもあの頃は良かったなぁとか思っちゃうねぇ
自信喪失してるときに道を聞かれると、自分もまだ道聞いてよさげなくらいにはまともな人間に見られているのかと思って嬉しくなるよね
4月に暖房つけることになるとはなぁ
この際だし部屋を限界まで片付けたいよなぁ。
図書館を使って何かを調べる、みたいなの苦手だなぁ。
男性と女性には脳の構造の違いがあり、生後数ヶ月の時期に男性ホルモンの影響を受けることでその違いは生じるそうなのだけど、いっぽうで性器がそれをうまく受容できないと男性器が作られず女性器のままになり、性同一性障害の原因のひとつとしてそのようなケースが考えられる、と。
前提として、ヒトは最初の段階はみな女性である、というのがある
胎児を育てるために子宮内では周期的に内膜を厚くしていっているのだど、妊娠しなかった結果それが剥がれて排出されるのがいわゆる生理で、それが終わると内膜を厚くしていく過程がまた繰り返される、と
ねこあつめやるくらいなら日本銀行券あつめしないの?
日本国内の全員強制参加の上にルールも複雑だし初期条件違いすぎるし生活に直結するしこのゲーム危なすぎるぞ
ただ、あらゆる目的-手段の連関は最終的に人間という最終目的に行き着いてしまうのではないかという話が
デカルトは当時のエリート校で勉強したり剣で決闘したり新興宗教団体の内部視察をしようとしたり従軍したり数学めっちゃできたりガリレイの学説の弾圧を見てそこについての自分の主張は引っ込めたり、人生経験豊富で頭も良いすごい人だったんだな
若干わざとらしさ感じたけどやっぱりこういう雰囲気のが好きたんだな〜と思った
なんかああいうのやってる女優さんってやっぱり相当あれなんだろうなぁとか思いながら
GARNET CROWのアルバム、音声データ抜き出しちゃえばアルバムとして物質的にデザインの出来が良いのは多くはないしインテリアに良さげなやつだけとっとこうと思いつつ、でも全部揃えちゃってあるし処分するのはもったいないと思いつつ、全部揃ってるとか揃ってないとか自己満足なんだよなぁ
大学やめるかスマホやめるか迫られたら大学やめると思う
この話と別の関係ある話をすると、某研究室が日本思想と西洋思想のふたつの系統に分かれているというのは、もともとは特色だったのだろうけどと現状ではただ別々の貧弱な研究室が並存してるだけの感じになってるんじゃという気が
なんていうかそんな開き直りみたいなこと言い始めたら研究は一体何のためにやってるつもりなのかっていう。本当に純粋に個人的な関心で論文書きたいって感じなのかな。それとも、遠い後世になんかの糧になるかも、くらいの気持ちなのかな。
ただ、僕の感じるいまの学科の良かった点は、基本的に放っておいてくれる面が大きいことで、これは古き良き大学の良さが残っているのかもしれない。
まぁあれなんですよね。正直特定の学問の専門的知識を洗練させたいという感じでもないし、自分のオリジナルな発見・研究をしたいわけでもないし、ただ「余暇に本を読む生活」で大体満足しちゃいそうっていう
「そこで実存主義もその末流となりますと、まず技術文明はいろいろ弊害があって困るという愚痴からはじめて、しまいには「危機」とか「死」とかについて大げさな文辞を弄してみずから快を採る、というぐらいのことになっております。」
なんで思想史・哲学系の書き手って「対決」って言葉が好きなんだろう
「テクストとの格闘」みたいな感じで、たとえば「ニーチェとの対決」みたいな。あと「◯◯のとった戦略」とかもよく使われるけど、みんな別に現実に戦場で血を流して(比喩としてはともかく文字通りの意味では)戦ってるとかじゃないのに大げさすぎるというか
もしかしてすんごい疲れてるときって血糖値がめちゃめちゃ下がってるのかな
「再演のたびに、僕は22歳の自分と向き合います。あの当時も、今とは別の意味でギリギリで生きていました。違いは、まだ自分にはたくさんの時間があると思っていたことです。それは勇気であり、絶望でした。」
サードステージの『ベターハーフ』を下北沢の本多劇場で観てました
またそれと別の話だけど、一昨日くらいに東洋大にいったときは、「だ、大学だ…!」って感じがした。ふつーな感じに色んな学生がいるのが
なんかああいう感じの場所できわめて平均的な人生を過ごす自分を思い描いていたような遠い過去があった気がする
いろいろ時間かけて触れてみた上ではじめて面白さがわかる趣味ってあると思うのだけど、その面白みを端的に説明しようとするのは、音楽をまったく聴いたことのない人に、音楽を実際に聞かさずに、言葉だけで「ほら、こうさ、音を組み合わせるとね…」って説明するみたいな困難があるのではないかと思う
ドキュメント72時間をみる
幻が滅ぶと書いて、「幻-滅」
そう意味では、生きることは、幻滅し続けてそれでも生きるということなのかもしれない
苦手なものというか、普通の人がそんなに考えずにさらっとできちゃうことができないゆえに逆に徹底的に考えちゃうって、よくあるよね
基礎からやり直したい、みたいな?ちょっと違うか。 — 「基礎」のニュアンスが難しいのですが、たしかに一言でいうとそういう感じに近いと思います。 http://ask.fm/a/c3fjq847
人生はだらだらと続いていく。。
池上彰が一番質高く活躍してるのはテレ東な感じがする
ツイッターはぱっ思ったこと書けばこまめに色んな人が反応してくれるし、これなしにはつながりえなかった人と現実で会える機会にもなるし、現実のコミュニケーションでは直接的には出ないようなその人の内面がみえてきたりもするし、やりすぎは時間の浪費だとしても、無駄だとは思わないし有益
運動は小中高で徹底的に嫌いになったけどマイペースにできることをやれば楽しい営みなはずなんだよな。。
健康のためにとかダイエットとか筋肉を、とかも大事だけど、楽しさを求めるというのが必要なのでは
運転免許の学科対策の勉強してた頃はなぜかあんな試験勉強が結構楽しかったなぁ。普通に考えたらつまんないのになぜだろう。
江戸時代くらい?まではすごい宗教家とか皇族とか政治家とかは本当に人間離れしたすごい人だと思われていたのだろうけどテレビとネットと交通とかがここまで発達してしまったらみんなただの人間だったということがばれてしまっている、、
24時就寝8時起床というのは健康的なんだけど、夕方以降にめちゃめちゃ疲れてへばる
「なぜ仏教はインドの地で衰亡してしまったのであろうか。この問いは、不思議と日本はおろか、世界でも真剣に検討されてこなかった。本書はこの問いに真正面から取り組んだ著者十数年間の苦闘の成果である」アツイ
でも発心集読んで何がどうなるんだっていう。。
何かこの空気嫌いだ…
以前まではいったん片づけてもすぐに散らかっていたのだけれど今回は片付きすぎていて散らかしようがなくなっている。。
とりあえず同じ種類のものを一か所に集めるとたいてい多すぎることに気付くから半分くらいの量を処分するとよい
どれくらいの頻度で使うか、過去○○か月、○○年間で何回使ったか、って考えると捨てるべきものは多い。仮に使う場面が万が一にも来るかもしれないとしても、捨てて空間的にも精神的にもスッキリするメリットと、その時に調達するコストと比べてどっちがどうか、とか考えるとか。
捨てるの勿体ないという発想は自然なのだけど、雑然としたままにしてる結果として使えるものが使うべきときに見つからないことの機会損失のほうが圧倒的に勿体ないことが多いと思う
3年前くらいはハウツー本をありがたがって読んでたんだから随分と成長したものだ。。。
昔はコンビニとかに売ってる『論理的思考ができる本』みたいなタイトルの本をマジになって読んでたんですよ。。
あと、図書館をいまだにまともに使えないというか使った経験がほぼない。。
部屋が快適すぎる。。。
「院受けるなら一応岩波哲学思想事典の項目を全部チェックするくらいしといてよね」ってやっぱりブラック発言じゃないかな…
高3のとき、毎朝同じ時間に登校してたんだけど一限が選択科目でない日があって、そのときに喫茶店にひとり一時間いるのがすごく落ち着くひとときだったなぁというのを思い出した
あの頃はそんな些細なことがとても良かった
たぶんここ四年くらいある種の文化資本コンプレックスみたいなのをモチベーションに行動してきたような側面が強いように思うのだけど、その積み残しがある程度解消されてしまったのか、どういう基準で何を目指して行動すべきかわからなくなってるような感じなのかもしれない
読書やらデスクワークしてるときに変な場所に変な力が入っている(緊張している)せいで無駄に疲れてるっぽい。
マッサージ師のひといわく僕は体が常に緊張してるらしく、そう言われると確かにそうだという気がしてきた
というか地図帳を面白く読める程度には地理的リテラシーがついた。
なんかマッサージしてもらったら全身の緊張が抜けたからか一日中眠い…
ゴッホは27歳で画家になることを決意、か
35歳で会社をやめ画家を目指し始めたゴーギャン…
ドライヤー使うようにしてから髪の毛がふわふわした感じになった
いま振り返っても某氏の「これからは自衛隊・警察の時代だ」発言は幻滅だなぁ
専門的な勉強しすぎると頭悪くなるのか。。って思っちゃった
僕も4年前くらいはスヌーピーの愛の名言集本とかをヴィレヴァンで買うくらいで悦に浸れる人間だったのに
最近、部屋が片付きすぎて、それはそれで生活に張り合いがなくなってしまう、みたいな、謎の事態が発生している。。。
発心集のゼミ楽しかったわ
純粋に演習を楽しいと感じるのは初めてだったかもしれない
チェーホフ 熊はちょっと不条理劇な感じで好きなタイプのやつだったんだけど、もうちょっと小道具とか衣装をわちゃわちゃさせると不条理感が鮮明になったかなぁという感じがした。
首都大の劇団時計のやつ
アクティビティー機能がなくなる前後におけるmillionsageさんのRT傾向の変化を誰か調査して論文にしてほしい
阿佐ヶ谷でがやがや
携帯電話の料金体験のナントカ割の複雑な体系決めてる人達もあれでしょ
①自己と②周囲世界の他者に対する評価が③低すぎにもならず④高すぎにもならず⑤持続的にある程度の振れ幅に収まるとよい。
そういう見方をすると、僕の場合、徐々に安定してきたもののここ5年くらい自分に対する評価も自分の周囲に対する評価も乱高下してたのが大変だった、と言えるかもしれない。
たとえば恋愛はしばしば相互の乱高下が起こるわけじゃないですか。
ある日の朝、起きると自分は突然に人間になっていた、わあ人間だ、外を出ても人間ばっかりだよ、なんだこれ…みたいな気分はあるよね
マッサージしてもらったら視力が回復した…
大企業の終身雇用ルートから外れること≒高学歴で手に入れた切符を捨てること≒食ってけなくなること、って表象されちゃうのがよくないよなぁ
まだ大学生だけれど、大学時代は青春だったなぁとしみじみ思うような頃合いになってしまったなぁ。
すごく荒っぽく俯瞰的に見てしまうと、うまくいったZARDをモデルとして色々な方向性に試行錯誤していた。
文献学って要するに「道路舗装」だと思うんだよなぁ。これに対して「文献学を馬鹿にするな」という人には「道路舗装を馬鹿にするな」と言い返したい。
逆に「文献学ではない哲学を〜」という主張はたいてい、自分が舗装された道路の上を走っているに過ぎないことに気付いていないというか。ちょっとした日常的な熟語も大体は、仏教・儒教的な漢語と西洋哲学の接合の上に成り立ってるわけで
マッサージ一回受けただけですごく動き易すくなることを考えると、筋力を本気で増強したらかなりこの世界に住みこみやすくなるこではないかという感じがする
部屋が快適すぎて何もする気にならない…
学生としてのアルバイトにしかない固有の社会勉強性があるとすれば、自分のどれくらいの労働でどれくらいのお金がもらえるか身をもって知る、ということ?
統制的理念としての愛
新聞の契約延長で女子大生のバイトの人連れてきて「この子のためにも〜」みたいなのされたのはなんかあれだったなぁ
一応東大院生ですごく優秀ってわけでもないけど研究者志望って人がL型大学構想を批判してたりすると、将来をちゃんと見据えてるんだろうかって疑問に思ってしまう

2015年5月(hanhajimeにお説教)
まだ会社をやめてない人、すごい
岩波新書の井上清『日本の歴史(中)』を読んでいる
源氏物語は貴族の狭い世界を描いたものに過ぎず民衆の窮状などへの意識はない道楽だったみたいな評価書いてあったりとか、そこまでぶった切るかと思ってちょっと笑った
秋葉原で買い物をして帰っている
はじめて勉強する人のために書いたと明言しながらテクニカルタームをテクニカルタームで説明してそれをまたテクニカルタームで説明してるみたいな感じのこの本の目的は何なんだ…
ハイパーヨーヨーがめちゃくちゃ上手くてもフリーターになっちゃうんだなぁ
『◯◯って××だよねぇ』自分「(◯◯ってなんだ…××じゃなくて△△になる場合もあるんではないか…ていうか◯◯の前に■■の前提が抜けてないか…うーん、わからん、と思いつつ)うーん、そうですねぇ」『で××ってことは◇◇じゃん』自分「
みたいになってなんとなく生返事で相手の話をずっと聞くことになることがしばしばある
皮膚の近くには温度の高い空気があって、離れるに連れて大気の気温に近くなるように分布しているのだけど、風はそれをかき乱すので温度低い空気を皮膚の表面近くに持ってくるので涼しさを感じる
東洋一の歓楽街、ねぇ
都内に住んで4年で東京の非日常感もすっかり褪せてしまったなぁ
どこを見て回っても結局飲食店くらいしかないじゃんっていう
梅ヶ丘BOXで今日からやってるやつ気になるんだけど、どうしよう
あうるすぽっとに行こう
気付いたら4日も5日も鳥貴族だ
なんか分かんないけどパニクっておろおろしてしまうと言うつらさは外から見ると単なる怠惰のようにも見えるしなかなか分かってもらいづらい
たとえば仮に、素粒子を物質世界の基礎レベルとみなしたら、電子とか分子とかのレベルの名辞は素粒子の集団的に構成された振る舞いの秩序に名前を付けているだけであって、それそのものとして実在してるわけじゃない。そう考えると、心は脳が生み出すという説明は、あまり説明になっていないと思う
随伴現象説はかなり正しいけど徹底した説明にはなってないと思うのです
ただ読んでる本はあんまり関係なくて、今日『日本の歴史』(下)に入った
かねてより気になっていた「さぼうる」に行ってみる
この歳になって文実の子たちの様子をみたら田舎っぽさを感じそうな気がする。
漠然と、「駅とその周辺領域」のカタマリが駅と駅のチェーンでつながってるような地理的認識をずっとしていた気がするんだけど、最近になってやっと地図上での駅と路線のマッピングの感覚が分かってきて、世界が世界になった感じがしている
上京してきてフリーターをやっていてなんとなく同棲してる二人、というのが現代の若者の理念型として思い浮かぶ
明日は燐光群の公演を観に行きます
録画してあったNNNドキュメントの「元米兵隊員が語る戦争と平和」というのを見てるんだけど、本当にメンタルに悪いな…
最近みんなに「太ったね」と言われるので更に太ってるのかもしれない。。
「太っているのに太ってないように見える」説が提唱された
simplicityを求める性格なんだと思う
近所のコンビニに剛力彩芽にちょっと似てる(似せてる?)店員さんがいた
それぞれの食材の性質と、それぞれの調理法の性質(どちらも主に化学的な側面)を理解して、それに基づいてよくあるレシピを一通り理解すれば何が起こっているのか分かるようになって、そうすると余り物で創作料理とか出来るようになりそう
あと、論文って何を満たしてれば論文と呼ぶのかが昔(10年前くらい)からずっといまいち飲み込めなかったのだけど、別にそういうのに厳密な基準があるわけじゃなくて、それは質と相関しつつある程度ファジーなものなのだというただそれだけのことを理解するのにすごい時間がかかった
最近1960年代くらいの岩波新書を立て続けに読んでるから影響されてると思うんだけど、そろそろ社会主義が巻き返してくるんちゃう?
26歳月手取り40万弱は羨ましすぎるけど残業どれくらいやってるだろ
@HaruYauchi むむむ。お誘いありがとうございます。とても興味があるのですが、二人だと緊張しそうなので、@tencubeさん辺りと日程調整して一緒にお会いしたいように思います。
急にドイツ語読む講義になって適当にきいてたら他の人々8割方寝てるw
科学にも政治経済にもめちゃくちゃ疎そうな発言連発するのに「真理」だの「問い」だの説教されるのはあれだったなぁ。
別に何に疎くても良いんだけど、そういうのに疎いくせに自分たちは真理を問うているとか思ってるように見えちゃったりとか、報われないとか世俗的欲望を絶った体を演じてる割に研究者コミュニティーで認められたがってるように見えちゃったりとか、
読書すら最後は体力勝負なんだなぁ…。。
竹取物語・源氏物語・徒然草・方丈記、あたりは生きてるうちに通読しておきたいところ
竹田青嗣のプラトン入門がちくま学芸文庫に入っちゃったらしく「え”え”っっっ」って感じだ
比較的やばい本でもちくま学芸文庫に入っちゃったりするのよねぇ
何をどういう基準で信頼していけばいいのか改めて考えさせられる案件だ
宮内春樹さんと関係者(?)何人かとお会いしてきました。
専門知識、英語、プレゼンテーション能力欲しい
英語すらすら読めたら色んな情報へのアクセシビリティーが高まるのに
立派なatmになってお金を預けられたい
なんか「哲学科卒のシェフが弁証法という哲学の概念を利用して甘さと辛さを調和させた料理を作っている」みたいな夕方ニュースの特集が10年前くらいにやってたのを突然思い出した
責任が重くて裁量が小さい仕事
世界がいつもより立体的に見える
「感覚」についてはここ2〜3年相当こだわって考えてる気がする
20年間付き合って同棲もしていたけど結婚は避けていた彼女が認知症になったので色々考えて結婚しての介護を決断したドキュメンタリーが重い…
紙媒体の出版物はかなり静的な媒体だけれど、デモ活動やラジオや映画やテレビやWebとなるとある種の動的なシステム的な感じしますね。(紙媒体も光の反射によって視覚経由で情報をその都度送る動的なシステムと見なしうるかもしれない。。)
一人の哲学者の著作しか読めないってなったら誰だろ。ラッセルかライプニッツかプラトンか?
エモというリストに追加された
NHKで東欧ロシア情勢専門の石川一洋解説委員はいつもアツい(若干暑苦しいかも)ね
おいおい俺の話を聞いてくれ!っていう情熱が伝わってくるテンション
スピッツを小さめのボリュームで流しながらツイッターやりながらいつの間にか眠りに落ちるという最高に大学生っぽいことをやる
そういえば、国分寺駅から東京学芸大へ行く途中の古本屋がわりと気になった。時間なくて入れなかったんだけど。
開店後10分で満席になる某居酒屋ランチ
エモいはエモいな気がする
エモいって言葉がエモい感じがする
みんなちっぽけな人生を懸命に生きている
ヤマダ電気にいくのすら昔は楽しかった…昔は。
なんかでも筋肉とか代謝の仕組みとかから勉強すると、自然と運動とかダイエットしたくなる気分になるような気がするんだよな
自分をみて、周りの色んな同年代とかを見て、青春群像劇の中で生きてるような気分になることない?
みんな色んな生き方をしてるんだなぁというのを群像という言葉は的確に言い当ててる感じがする
むかしいた栄光ゼ◯ナールの先生も学生バイトで色々大変な人々だったのだろうなぁ
銀八丼は店員さんが感じ良いし優良企業なんだろうという気がする
そろそろ色々ほっぽり出して落ち着いて本を読んでいられるような気分でもなくなってきた

シェーバーの洗浄機がずっとバグり続けてる
もう一押し何かがあると完全に吹っ切れて何かに邁進できそうな気もするけどよくわからん
こう漠然と考えて漠然とネガティブになるのはよくないぞ。。
現在を秩序立てる何らかの強い欲望を立てなければ
基本的に不安に突き動かされてる人間だというのがよくない
変に難しく考え過ぎて自縄自縛になる癖はやめたほうが良い
過剰シミュレーションはよくないからやめよう…。
極端に考えすぎることや考えなすぎることを減らして、適切な具合に考えるべきことを考えてやるべきことをやるようにすればよい。
という問題は昔から変わらないけれど、なんというか2〜3年前とは自己把握がだいぶ変わってるからどうすればいいものやら
この謎の無定形の知識欲から解放されないと自由になれぬ
確かに、今でもどこか世の中に対して過大な幻想を持ち続けているという面はあるように思う。
なんか高校・大学教養レベルの知識ブラッシュアップ計画というのを半分無意識的にここ2〜3年くらいなんとなくやってきてて、それが最近落ち着いてきて、世界のラフスケッチは出来てあとはまぁ濃淡というか粗さの問題だけなのかなぁみたいな感覚がちょっとあるけど、なんかこれ大言壮語な感じがある
郷土史家とかになるといいかも知れない。でも首都圏だとそれでも広いから、自分の取得できる範囲で戸籍とか辿ってみると面白いかもしれない。
@millionsage サークルの歴史(創立から10年強くらい)をまとめようとして色々アンテナ張ってた(そして特にまとまった形にはならず)ことはありますね…
胎盤は美味しいという話を聞いたことがあるような気がする
さっきEテレのRの法則という番組をたまたま見てたら、「十代女子が片思いの彼に対してしちゃうこと」というのがやってて、「よりかかってた壁にすりすりする」など色んな種類があり、わりとうげっとした気分になったのだけど、これ女性が男性に対して感じるある種の気持ち悪さに似た気分かもしれない
そんな行動しちゃう人がそんな割合でいるの、という感じで、何というかフェミニズム的な空気を感じた
体操服の匂いをかぐ、とか、服越しに筋肉をついた体を想像する、とか
普通の明るい10代女子が普通に明るくそういう話してるバラエティー的な雰囲気の番組だったのでわりと衝撃だった
ポリティカリーに革命的な番組だった
障害者が笑いを取る番組にせよ、NHKはわりとすごい番組つくるよね
既成観念をガンガン揺さぶってくる。
男女逆転させると、例えばツイッターとかでも飽きるほどに日々流れてくるような話題なのだけど、女性というのはそういう環境で生きているのか、と思った…
読書会みたいな感じで、音楽のアルバムCDを一曲ずつ聞きながら流れがどうなっていってるのかを丁寧に検討していく会やってみたい
シャンディガフとレッドアイは美味しい
色々な24歳男性がいるのじゃ
もっと適度にコンスタントに物事をやれるようになれればいいんだけど何か歪になってしまう…。
哲学のたこつぼ化って誰得なんだろう…
すごい洗練された理論とか作れても専門家の中ですらコミュニケーションが困難になっちゃうわけでしょ…?
お腹空いたときにラーメンがすぐに連想されちゃうのは、一つにはやっぱり食に対するイメージの貧困さなんだと思う
ツイッターがあったらオウム真理教はそこまで流行らなかった(若者信者を増やさなかった)のではないかとわりと思う
洗わなくてすぐに熱加えてよくて、1回分にちょうど良い量・種類の組み合わせで、ってなるとカット野菜はありがたい
上原あずみも峰なゆかも綾瀬はるかも夏目三久も平原綾香も山田優も木村カエラも現在30歳の女性で、芸能界だけ見てもいろいろな30歳女性がいる
ベッキー、綿矢りさ、吉岡聖恵、小倉優子は31歳、宇多田ヒカル、近藤春菜は32歳
なんか医学ちゃんと勉強すると人見てる時に他人の内臓が浮き上がって見えてくるような感覚になるのかなーとか想像する
防犯意識強いから、喫茶店とかでノートPC使っててトイレに立つとき、そのまま置いといたらまずいんじゃないかと思ってすごく不安になってあれこれやったりするのだけど、ふつうどうするもんなのか
鴻上尚史の『孤独と不安のレッスン』は大学生以下くらいを読者に想定して書いているように思えるけど、だとすれば、オウム真理教みたいなことがまた起こらないように、という思いはあの本を書いた主要な動機の一つなのではないかと思った
いまの50代くらいの世代の人は多分そういう思いがある人結構いるよね
昼間にふと寝て起きると大体血の巡りが悪い感じがするんだけど何なのか
ていうか全身に血を巡らせるのに基本的に胸にある心臓の鼓動だけでそれを制御してるのって結構荒っぽいシステムに思える
相対性理論を否定したい人は一人会ったことあるけど自分が天才だと思い込んでいる感じだった
そこそこの大学の物理学科を卒業して、修士に落ちて途中で自衛隊に行ったりして色々働いてたらいつの間にか塾の先生みたいになっていて、それとは別に学会にも行って相対性理論否定論を発表してたりするんだけど、まじめに取り合ってくれる人はいなく、自分をガリレオになぞらえながら過ごしている
多分専門家から見ればそもそもの議論が稚拙すぎるから具体的に突っ込みようがない感じでいつも冷笑されてるんだけど、本人的には突っ込みどころがあるなら指摘してほしいという思いもありながら発表し続けて、塾の先生としては人柄いいので周りにはまぁまぁ応援されながら、みたいな感じで
橋下徹吹っ切れてる感じがある
なんか確かにあそこまで穏やかな引退会見をされてしまうと、まぁまぁそんな躍起になって叩かなくていいじゃんって気持ちにさせられてしまう…。
自己モニタリング能力が小学生段階でずっと止まってたのが高校卒業してからかなり飛躍的に埋め合せられたという感覚がある
社会の中心にいるような人々ってある程度ブラック耐性がないと中々やってけないだろうしだからほっといたら世の中は自然とブラックな意見に染まっていくものだと思うので、極論なくらいにアンチブラックな意見の人々はつねに必要だと思う
寝てるのが、12時〜8時、くらいだったのが、3時・4時〜12時、くらいにすっかりシフトしてしまった。。
どんな相手が理想かっていうのは、付き合ったときのイメージが豊かに持ててないとちゃんと言うの難しいよね。
筋力とかダイエットがどうこうという前に、体全体がめちゃめちゃ凝って疲れやすくなってるみたいだから、体をほぐすためにストレッチとか体操とかやるべきだ
梅雨前線が台風の影響で北上してて、それで梅雨入りではないんだけど梅雨っぽい天気になるそう
一ヶ月経っても部屋が散らからないってやばい
地下鉄24時間化されるともっとカジュアルに池袋とか行けるのに〜
やりたいことが何かといったら、まだ読んでない読みたい本はたくさんあるけれど、仕事は将来設計を安定させるための手段以上のものとしては考えられない(いまのところは)。
最近地図をまじまじと見たりすることがよくあるのだけど、これ普通は小学生男子とかが面白がることだとすれば、僕はやっぱり地理的な空間把握能力とか方向感覚は相当弱いというか、ある意味では小学生レベルで止まってたのかも、と思う
うまく言えないけど、いままで空間的な把握じゃなくて概念的な把握をなんとかやりくりして頑張ってたっぽい(地名とか駅名とか建物の名前をつなげてその周辺領域をモザイク的に数珠繋ぎにしていく感じ)
方向感覚がはたらくようになって空間的世界が一気につながって狭まった感じがある
ゲームも、どちらかといえばエンターテイメント的な遊び方で、勝負を追求するものとして真剣に考えるようなことはほぼなくて、ほとんど考えずにただ輪に入るためだけに適当にやってしまう
マニュアルを一つずつこなして消化していく、みたいなのは結構好きだと思う
最近はミスチルの曲聴いても「あ~はいはいはい大変だね~」って感じになって入り込めなくなっちゃっている
読みたい本なんて尽きないし必要な本以外は文庫新書選書くらいを優先した方が収納的に便利かも、と思う最近
「週末に寝溜めするのは、毎週末海外旅行に行って毎週時差ボケが起こっているのと同じ」
思って学ばざればすなわち殆うし、学びて思わざればすなわちくらし、と言うけれど、一度自分自身で突き詰めて考えて、「このことに気付いたのは自分が世界で初めてかもしれない」というくらいに徹底した果てに何らかの考えに達すると、そのとき初めて
自分が考えたことを通して他の人の言わんとしてることが分かるようになる、思うことと学ぶことが別の経路を通じて同じ場所に達する、ということがあるのではないだろうか
『Azuki七註解』っていうのを誰か書いてくれないのか
アメトークのあとはマツコが秋葉原を回る番組
誠居酒屋
男の娘カフェ&バー NEW TYPE
あなたの亡骸に土をかける それが禁じられていたとしても 純粋なまなざしの快楽には 隠しきれない誘惑があった
せりきち様何者
問題はもう日本はずっと昔のようには景気は良くならないってことなのでは
mzsmに会った
特に内容のないシニカルな会話が交わされ彼は書籍部へと去っていった
数学やりたいっちゃやりたいけど、何より安定した身分と収入がほしいというのが正直なところ…
ツタヤで借りるならツタヤディスカスの方が良いんじゃないかと思ってツタヤ行かなくなりツタヤディスカス試してみるか迷い始めて一ヶ月半くらいになりそう
慢性的に鼻がつまってたのがここ二年間くらい耳鼻科に通って鼻が通るようになって鼻呼吸ができるようになったのはいい影響になってるはず
鼻呼吸は息が鼻の裏側を通るあたりで気持ちいい(たぶんなんかの副交感神経的なのを刺激している)
dtv良さげだし手頃だし使ってみようかな。
不自然っていうと一日三食食べるとか目覚まし時計で起きるとか日没後に活動するとか舗装された道路を歩いてるとか毎日入浴するとか全部不自然だからなぁ。
まぁ何をどうやっても暗に誰かしらを傷つけてたり搾取したりしてる可能性からは逃れられないんですよねぇ…
というか、昨年度後半の半年(10月〜3月)くらいはそういうことが身にしみてしまった案件があり、自分の生き方が問い返されたりしてしまってなんか気分的につらかったのだが、そういうことについてとくにちゃんとした自分なりの答えが出せたわけでもなく…
法学たんってまだ半端な知識披露してみんなにちやほやされてんの?
法学たん消えたって酒ウマー
そこで有無を言わず就職しなきゃって思わざるをえないのが普通なんだろうけど、幸か不幸か、そういうところで立ち止まれちゃうような環境が僕にはある
我慢して医師免許取るだけ取ってフリーター医師みたいな感じで生活してっても良かったんじゃないかとも言われたのだが、基本的に対物体的な作業全般は極端に苦手だし、風邪ひとつ診断するのすらすごく責任を感じちゃってストレスになりそうだし、それはやっぱり無理だと思う
まぁ別にそんな問題ないんだけど、なんでこんなに人生全体に対する要領が悪いんだ。。
まぁでも中島義道に比べればまだまだ人生こじれてないから大丈夫、という最後の切り札的気休めは最悪まだ何年かは使える
レヴィナスは『フッサール現象学の直観理論』から入門するとよい
まぁでも都庁の一次が6/7だから、あと10日間でとにかくできるところまで詰め込んでみるという荒技はあるのだが、いかんせんやる気が出ない
なんか今日夕方頃からめっちゃ疲れてたのに睡眠導入剤飲んで横になって眠れず起きたら逆にテンション上がってるんだけどなんなんこれ?
ミリオンさん珍しく関西弁っぽかったような
自分のおかれてる環境とか状況とか見通しを一から説明するのが面倒すぎて新しい人間関係に入っていくのが面倒っていうのがあるね
なんか石畑くんって、女子に限ってフォロー許可される裏アカがあるらしいと聞いたような
演劇で、本当に面白い作品はその包括的な作品世界それ自体に入り込めるけれど、そこまでいかない作品は脚本がよかっただの照明がよかっただの技術的・業界内輪的な見方に自然となってしまい、ひどい作品になると、その団体の組織としてのマネジメントの心配とかの同情的な見方をせざるをえなくなる
現代的な発想では、芸術は個人の感性ののびのびとした発露だ、という見方が一方で強いと思うのだけど、実際にはかなり地道でシビアで技術的なものであったり、演劇などの場合には集団創作であったりするので、そうなると必然的に、個性や価値観のぶつかり合いは激しくならざるをえないのだよなぁ
なんていうか、芸術は個々人の感受性・個性の発露だという暗黙のイデオロギーは一方で根強くあって、でも現実には演劇はみんなで摺り合わせながら作るものなわけだから、露骨に矛盾してる部分があると思っていて、なんていうかよくみんなそんな難しいことやろうとするよなぁって思う
3〜4人とかでやるバンドとかだって音楽性の違い(?)とかで解散するものね
「生世界の隠蔽」とか「意味の空洞化」とか、表層的に読み取ると悪い意味での「文系っぽさ」(俗流の科学批判みたいな雰囲気)を感じちゃう術語だと思うのだけど、そういう印象なんとかならんもんだろうか
極論言えば、別に昼夜逆転すること自体はそこまで問題ではないのだけど、いつ本格的な眠さがくるか分からないしとりあえずほんのりと眠いというのは本当に行動計画を立てられなくなるのでつらい
この、眠いっちゃ眠いけど眠れるわけでもないし、かと言って何か予定に制約されてるわけでもないという状態、何もできることもやるべきこともなく宙吊りすぎて途方に暮れる
ミリオンさんの安否確認したい
ともかく実際の一次テクストを読めっていう作法を言う人もいるけれど、はじめに入門書・概説書を何個も読み漁ってラフスケッチを何枚か重ねた上で実際の著作に入った方がスムーズなのではないかなぁと個人的には思わなくもなかったり
ミリオンさんがなんか淡々としている
RT鍵: 司法試験終わった途端、優秀な受験生がゴルフ始めるのを見ると闇の深さを垣間見ている気がする

2015年6月
全削除は空いてそうな時間帯に試みてみよう
世界という書物を読み解く読書会を僕と一緒にやってくれる人募集
起きたときになんか血の巡りが悪くなってるのがすごくむずむず感
頭がもやっとしてる感じと血の巡りの変な感じはなんか関係あるのか
RT鍵: 先輩から案に合コンを組むよう圧力かけられたんだけど、ぼくにはそういうのノッてくれる異性の友達が残念ながらほとんどいないんですよね…
やな職場だなぁ。。
でも、昔だったら一気に「社会って嫌だなぁ」って感想を抱くところまでいく、いわゆる「認知の歪み」があったようにも思うので、自分自身としてはだいぶ冷静になったということで…
「過度な一般化」ってやつだね
年金の記録書類は本当に細大漏らさず全部自己管理しておくべきだな。。。
ここに住み始めてからも、地元もここも相当いろんな店が潰れて別の店になってるし、諸行無常だ
十代で享受したコンテンツというのは生涯振り返り続けるんだろうなぁ。
これからどうやって生きていこう。
なんか一般論としては適度な目標とかを持つのが大事なんだろうね。
ルノアールはお冷くれるしお茶くれるしおしぼりくれるし椅子座りやすいし長居するには最高。
某薬を飲むと起きられずこの時間になるんだけど使わないと眠りづらい、ということがわかった
早く飲めば遅く残らないか?
ここ3ヶ月くらいで一番トンデモだったのは、近代におけるニ値論理の支配を二大政党制に見出してた人だ
FF8懐かし〜
大局的に見て年金制度がいまのままの形では持たないとしても、どう推移していくものなのか。。。
年金制度が完全になくなる、はちょっと超法規的過ぎて無理があるだろうし
最低限、支払った額に応じた何か(形骸化したとしても)がないとさすがにちょっとまずいような
本当に一日中眠り込んでいたんだけど今夜は眠れるんだろうか。。
たぶんここ1〜2ヶ月くらいで人生でやっと初めてまともに食べ物に関心が出てきたんだよね
一番ひどかったのは2〜3年前で、ゴーゴーカレーでメジャーカレー食べて、家系でご飯数杯とラーメン食べて、コンビニでパン買って食べて、みたいな、完全に過食症的なあれだった
あの頃はなぜかそれでも太らなかったのは謎すぎる
フェイシャルペーパーめっちゃ使いまくっちゃう癖があるんだけどどうしよう、地味にお金がかかる
ああいうの本で読むと誰がどういう雰囲気でしゃべってるのかイメージしづらい
上半身を支える筋力が足りてない→猫背→肩こりetcという線がまずある。
姿勢が悪いとなんとなく代謝も悪くなりそうだし、筋肉がないと基礎代謝が下がって太りやすくもなりそうだし
なんかラジオ体操を何セットもやる時間とかを定期的に設けると運動不足じゃなくなるかな
斉藤斎藤の新感覚な短歌
現代芸術の色んなジャンルにいる、とりあえず型を壊したりジャンルの境界線を曖昧にしたり実験的なことする系の人々、ただ壊せばいいもんじゃなくて微妙に琴線に触れるようなラインがあるんだろうけど、そういうのの雰囲気わからん…
なんというか先輩風吹かせたさみたいなのが滲み出ちゃってる人はかっこ悪いと感じざるを得ない…
ぼんちぇの前でガブガブ酒が飲みたい
スフィンクスさん毎日早く寝ようとして失敗してるような
テクノロジーに対する憎悪
ていうか、既成脚本の上演ももっと盛んになってもいいんじゃないかと常々思っている。
「社会勉強」でドトールでバイトって本当によくわかんないんだけど
ある種の大学教授の主張する大学論はなんか腑に落ちない。。
大学進学率50%の国で大学って一括りにするのがなんかやだ。
ソクラテスの講義をしながら5分に一回くらい国会中継の話題を出す先生
スフィンクスさん多趣味っぽい
ミリオンさんがツイートをした…!
@millionsage 最近あまりツイートらしいツイートをしてないのはなぜですか?
ミリオンさんが復活している。
劇団高校四年生どうしよう、明日行くか行かざるか
行きたいんだけども、今更駒場小空間に足を運ぶのはなんか場違いなのではないかみたいな自意識とか、混んでたり微妙なレベルの知り合いがいるとだるいなぁという気分とかがあったりとか
中島みゆきのある種の曲は聴いててメンタルに悪いけどそれが良い
明日AKBの総選挙なのか
人々の欲望は多様だ
なんか僕はどこで誰と何をやっていようが最終的に虚無を感じる性格っぽいからそういう前提で生きていこう
3年前の日記を見て、3年前よりははるかに強くなっているとは思うのだけど、悩みとか弱点のベクトルは変わらないのだな。
自分の生活をそれに基づいて秩序づけられるような、なんらかの強い「欲望」というのがない
周囲のさまざまなものごとやひとに対する極端に凸凹だった評価や認識が何年間かかけてやっと均されてきて、それはおそらくはかなり妥当な形になってきていて、はてこれから自分は何を基準にして生きていこう、みたいな
AKBのこの辺の人々は年収どれくらいなんだろう
毎年順位付けされるのはシビアかもしれないけど、何の基準もないまま芸能界でサバイブしていくよりはある意味わかりやすい目標とか達成度評価になって安心できるのかもしれないとも思ったり
Amazonのほしい物リストだけが着実に増えていく人生
疲れてなにも手につかないけど眠いわけでもなく手持ち無沙汰ってどうすればいんだ
個人的に思ったこととして、鴻上尚史脚本の良さをきちんと引き出すにはやっぱり相当の技術力(役者・演出・スタッフとも)を要するのだなぁという感想を抱いた。それに挑戦したことはすごいと思うのだけど、僕はやっぱり率直に言えばオリジナルのやつの方がいいなぁ。
第三舞台の作品全般にある、色々な喜怒哀楽の出来事が入れ替わり立ち替わり目まぐるしく怒濤のようにたたみかけて押し寄せてきて、話の筋とか論理的整合性とかが気にならなくなるくらいに色々な感情で胸がいっぱいになって、観たあとには感動したりしつつもスッキリしたりもする、あれは、
第三舞台作品は「人生って色んなことが、それはそれはもう色々なことが起こりすぎて、ひとつひとつに意味があるのかないのかわからなくなって麻痺するくらい、色々楽しかったり悲しかったりして、結局なにが起こったのかよくわかんないけど、でもそれでいいじゃん!」みたいなほっこりとした気分になる
「600万人の死者をあとにして生き延びてしまったことの不当な特権」
これからの将来を具体的に思い描くのがとても面倒で億劫だ
しかしこの作業をやらないと根本的に時間が秩序化できない
お元気ですか — ツイッター上でどう見えてるのか分からないけども、少なくとも心身はわりと元気です。過去に荒れまくってた時期も何回かあるけど、そういう感じから比べるとかなり落ち着いていて安定した気分で、ただ未来を決めかねている... http://ask.fm/a/c8k7351g
岩波・ちくま・講談社あたりの学術文庫を読み散らかしてるうちに人生終わりそう
本は読むのだけど読む目的とか動機が散漫になっていて、それでもまぁ良質な本だから意味はあるだろうけど結局どこに行き着くのかが不明
哲学のテクストを読むということがどこまで好きかって言われると正直微妙なんじゃないかという感じが最近してきた
もうちょっと事実的な知識への欲求の方が強いような気がする。
社会のことがもっとザックリじゃない形で分かるようになりたいような気はする。
あと生命科学も復習したいような。
あと高校地学
経済その他諸々の格差みたいな話はちょこっと考えてみただけで絶望しちゃうし適切な関わり方というか態度の取り方の度合いが掴めない
もうちょっとお金の管理の仕方を研究したい
いつも500mlペットボトルを異様に買っているような気がする
僕はたぶん1日あたり合計3〜4Lは行ってる気がする…
ていうか1日あたり1Lしか飲み物のまないってどうやったらできるの?
のどが渇いたから飲むとかじゃなくて気付くと水分を摂っているっていう
文科省の大学政策が話題になって、インテリ系のツイッタラーが一通りの批判を一斉にして、という光景が延々と繰り返されてるような気がするんだけど、いつ頃からだろう
古い道徳って、今の時代で言えば、少し前まで一応「当たり前」とされてきた、標準的な雇用形態や家庭のモデル、人生設計みたいなものかと
すくなくとも、私たちの身のまわりに於(お)いては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています。海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寝入(たぬきねい)りで寝そべっているんですもの。
もちろん、敗戦による天皇制の変容とか身分制の完全な解体とか諸々の民主化政策とかの中で、一方で家父長制的な道徳が色濃く残ってたであろう中で不倫して身ごもった子どもをシングルマザーとして育てていこうとする、近しい親類をほぼ亡くした旧華族の末裔かず子、というのはもっと強い状況設定だけど
まぁ矛盾こそが物事が変わっていく原動力なんだろけれど
昔、この時間帯は伊集院光の深夜ラジオを聞くのが毎週楽しみだった時期があったなぁ
世の中には途方もないくらい色んな人がいる。
青春群像メディアとしてのツイッター
一体自分はどうなっちゃうものやら。
なんか経済学ちゃんと勉強しないと現代の世の中への理解に対する大きな部分が欠けてしまうような気がするのだよなぁ
根本的になんで世の中がこんなに進歩してもみんなあくせく働いてるのかっていうのが(色々な説明が与えられるということは分かるけれども)納得いかない
代表的な説明としては、「資本主義がー」とかだけど、そういう概念的な説明だけだとどんなに繊細に論理を積み上げられても何か納得いかない
経済学というか現実経済への理解の問題なのかもしれないけれど
世の中がどうあるべきかの前に、そもそも世の中を丹念に見たときにどこでどのようなことが起こっているのか、なぜ世の中が現にそのようになっているのかということが、とても気になってしまう
経済に関しては、巷の専門家やら評論家・ジャーナリストの意見に依存しながらの理解はしたくないなぁ。もっと根源的に自分で繊細に批判的に理解できるようになりたいような。
欲張りなのだけども、「〈世の中〉が今どのようになっていて、なぜそのようにあるのか」ということを包括的に脈絡をつけて理解できるような視座が欲しい。
歴史の勉強とかはそういうのにだいぶ役立った感触があるけれど
もちろん今の学科のカリキュラムも
はっきり言って、何一つオリジナルな業績とか生産性とか生み出さなくてもいいから、「この世界」について自分なりに納得できる認識に到達したいという、かなり漠然とした大風呂敷な欲望
親戚の歯科医をやってる実務肌の叔父さんに色々と相談したりするのだけど、その叔父さんが、経済学は勉強したほうがいいとか、日経新聞は読めとか、そういうことをことあるごとに言ってきたのがボディーブローとして効いてきてるのかなっていう経験依存的な面もあるように思う
歌謡曲・Jポップ好きなのは母の影響も大きいだろうな
個人的には、憲法9条は改正して憲法上に軍事力をしっかり位置付けて、その上でその軍事力はどんな目的に限定されるものか、国民にはどんな権利義務が発生するのか、具体的に三権との関係でどういう手続きで動いてどういう組織構成なのか、そこまで憲法で規定してコントロールしてほしいのだけど
部屋の整理は物理的に見えるからまだやりやすいけど頭の中の整理はどれくらい整理されてるか視覚的に分からないから面倒
なんというか、ものすごく大衆的な素朴な感覚として憲法学者(というか一般に学者)は信用ならないという感覚は理解できなくはないんだけど、そういうのどうしたらいいものなのだろうか。
写真を150枚くらい紹介して授業残り時間50分(ここまでで55分経過)
基本的に不安とか義務感ベースで動いてきたからそういうのがなくなると本当に何やっていいか分からなくなってしまう
ツイッターで頑張ってコンテンツになろうとしているアカウントの人々はそんなに承認が不足しているのか
ていうか、今の机が小学生スタイルのまま変わってないのはどうしたものか、収納的に使いやすいっちゃ使いやすいのだけど
そもそもいつまでここに住み続けるんだろう。
ただ来年やっていることによっては引越しというのはありえる。
この部屋のいいところは、ゴミ出しがいつでもできる、窓からの眺めが良い、大学にめちゃ近い、やっと住み慣れてきた
マクニール『世界史』がよい
荒巻の世界史の見取り図は良い本なんだけど受験参考書としても教養書としてもやや中途半端になってるのではないかという印象を受ける。どっちにも振り切れてないというか。
この世でもっとも美味しい食べ物(当社比)の白子ポン酢を食べたい
無限定の欲望
世界中の人がみんな一斉に一度に一分間働くのを休んだら現代世界のインフラは壊滅的に打撃を受けそうだと思っているのだけど、どうだろう
個人的な印象として、たとえば小泉純一郎とか橋下徹とかはかなり自覚的に大衆迎合的に振舞っていたように思えるのだけど、安倍さんって本気で頭が良くなさそうな上に正義感だけは強そうみたいなイメージを持ってしまう
文系・理系というか、事実/規範という二つの側面にあらっぽく分けるとして、事実に関する学問は過程の理解を吹っ飛ばして結論だけ言われても事実としての結論が出てくるから力があるんだけど、規範(や価値判断)を扱う学問は結論が出てきた過程こそ大事なのに結論だけ求められるみたいなのがあるかな
でも一方で、高校までの集団の教育は基本的に答え(=結論)があってればいいという教え方になっちゃうから
タンパク質も摂取しすぎるとタンパク質を分解する肝臓に負担をかけて代謝機能の低下を招いてよくないと
もっと生理学を系統的にやりたいわ
ぐぐった度に豆知識がちょこちょこっと増えてく感じだと限界がある
kmtさん、勤め人っぽいけどどんな方なのだろう
海街diary観たいな
観たいと思ったらその日に観に行っちゃうという刹那的な行動パターンを少しは変えなければ
保険証と免許証の臓器移植の欄には、心臓停止後に限り、眼球以外は臓器提供すると選択してある
別に自分のことだけ考えるなら脳死後の心臓移植も眼球移植も良いんだけど、まぁ自分だけの問題でもないからねぇ…
たとえば、グローバリゼーションで国家の立場が弱くなっているみたいなよくある見方がどれくらい現実認識として妥当なのか、やっぱり最終的にはデータを積み重ねてみないと分かんないんだろうなぁ
70年前には一億玉砕とかやってたんだからイスラム原理主義はまったく他人事ではないし
生活の中から何かを急かされるという要素とか焦燥感とかがなくなってしまい、何をやりたいのか完全にわからなくなってしまっている
ふつうはいろんな制約の中で一生懸命何かを頑張ったり目指したりするものだと思うのだけども
なんで日々みんな何かをやろうと思うかというと、滑らかな生活を送るためにそうする必要性があるからという面が当然ながらかなりあるはずで、そういう要素が凄く希薄になってる上に、もともと自発性・積極性よりも不安感ベースで生きてきたから
いちおうそれなりに色んな能力は持ってるはずなので自分的にも社会的にも無駄にしたくはないのだが…
正直大学卒業すら放棄してしまいそうなレベルのモチベーションの働かなさ
でも卒業しないと卒業後に図書館入ったりできないよなぁ
最近思ったんだけど謎の焦燥感はどこで何をしてどんなにうまくいっていようが根本的には死ぬまでなくならない気がするからうまく付き合っていこう
というかぶっちゃけ高校生の時は、大学がここまでちゃんと教育機関として機能していると思っていなくて、完全にナメてかかっていた
もっと荒野みたいな場所だと思っていた
物を買うのが快感になる場合があるのは、自分の行動やらあり方の可能性の幅が、ときには現実的な自分のキャパシティを超えて、拡大するという幻想をもたらすからだと思うんだな
僕にとって身近なパターンが積ん読だけど、他には、参考書買って勉強した気になる受験生とか、やたら服いっぱい持って埋もれてる女子とか
中世的な秩序から近代的な秩序へと移行する過程で、国家による暴力の独占が進み広域的な秩序ができるというのは、実際は薄氷を踏むような繊細なバランスでぎりぎり成り立つ出来事で、だから、アメリカで州政府に軍があり銃の所持が自由だったりとか、中東が全体的に近代的秩序形成に失敗してたりとか、
いま現に中央政府の暴力(警察・軍事力)が一応は平和的コントロールされているのもものすごく繊細なバランスで成り立っていることで、先の戦争のようなことを繰り返してはならないというのは当然のこととしても、本当はもっと原理的・人類史的なパースペクティブで大事なことなんだな、と思った次第
上智大学のkmtさんとは
ずっと首都圏に住んでると暗黙のうちに首都圏=日本=社会くらいに何となく思い込んで育っちゃうし、一旦それが知的に揺さぶられて解体されちゃうともう止めどなく解体されちゃうので、たとえば地方に住んでて上京してきた人とかがどんな感じにイメージしてるのかとか直感的には把握できない
美少女を見ると、まぶしいと同時に、ここまで来てもただの人間なのかとか、一瞬で吹き飛んでしまうのかとか、たぶん一般的な感覚ではあんまり理解できないような観念がわらわら出てきてあれになったっていう
メディアを通して世界をみると、世の中のほんの僅かなすごく良い部分(ほんの一部のめざましい成功者)とかすごく悪い部分(ニュースとか社会問題的なやつ)とかがものすごく拡大して見えちゃうから、まぁあんまりメンタルにはよくないですよね
現実に起こっていることは自分の身の回りで起こっていることだけで、いろいろ考えなきゃならないにしても、いつも今ここの自分を起点にしなければ、様々な方向に世界の見え方が歪んでしまって、自分の目指すべき方向とかいまいる立ち位置とかの理解がしっちゃかめっちゃかになってしまう
文学部のいまの学科は、楽そうだし大学になんて何も期待してなかったしちゃちゃっと卒業しちゃおう〜とか思っていたのが、入ってわりと真面目にやってたら、これから生きていく上で糧になるであろう色々なものが得られたのでよかった
お前ら熱く生きてんの???
主に血液循環やリンパ循環を良くするのがマッサージで、体全体の関節のゆがみやズレを改善するのが整体
僕は、哲学というか、世界の見通しがよくなるような知識や思考法全般は広く身につけたいなという感じなんだろうか
人生で絶対にやりたいようなこと思い浮かばないなぁ。できれば読んでおきたい本はまぁわらわらとあるけれど、そういうのはどこまで行ったって消えないだろうし
哲学史のよみ方 (ちくま新書) https://www.amazon.co.jp/dp/4480057439/ef=cm_sw_r_awd_v-mHvbZKKCGCZ… @Amazon 新書なのもあってか解釈の根拠が詳しく示されてないのがあれだけれど、目から鱗が落ちる本だ
面白かったです。久々に演劇らしい演劇を見れてよかった。
ものすごい素人っぽい映画を見ている
世の中にはこんなどうしようもない映画を作るために仕事してる人がいるのか…
それはそうと喉のいがいががずっと取れない…
色んな人の色んな生き方の情報がワーッと集まってくると結局虚無感で胸がいっぱいになるなぁ
ネットとかだとほんの0.001%くらいのすごく「極端」な人々の生き方の情報だけガーッと濃縮されて、大半の人はだいたい平均的に暮らしているということを忘れがちになるから良くないんだろうけど
一緒にご飯食べたりするような仲の人のことを「友達」っていうのか、っていうのはここ半年くらいの気付きのうちでもわりと大きいものだった
なんかもっとめちゃくちゃ高尚なものかと暗にどこかで思い込んでいたような節があったから
例えて言えば、いざとなれば臓器移植のドナーくらいにはなるくらいの水準で意味がハイパーインフレしてて、何が友達じゃ、という感じになってた、しかも無自覚的に
ちなみに一方で、友達がいないとは思っていなかったので、「友達」概念がめちゃめちゃな矛盾を孕みつつ自分の世界把握の語彙体系の中で大きな緊張を生んでいた
平均的な人が平均的に理解している概念を無意識的に極端に解釈しちゃってる部分はきっとまだ色々あるのかもしれないなと思う
人との距離感の取り方という問題もあんまり深く理解してない気がする
距離感の取り方が大事なのは頭ではわかるし、実際に意識的無意識的に色んな距離の置き方をしているはずなのだが、なんというか、わからん。。
あと多分、「平均的な女性像」というか、世間的な(特に同年代)女性のバラツキ方のイメージみたいなのが大分ゆがんでいるような気がする
平均的な男性像がわかっているかというとそれも微妙だけど、女性の方がどうしてもサンプル数少なくなるから偏るというか粗くなる
あとわりと忘れがちなのは、大半の人は中学くらいで既に数学を嫌い・苦手になっているものなので、それ以上高いレベルの数学の話は大学院レベルだろうが高校文系レベルだろうが同じように等しく超難しい訳わからない話に見えるだけなんだろうなぁということ
山田玲司っていま何やってるのかな。
山田玲司の漫画色々好きだった。
和辻哲郎はあの時代によくたくさん文献読んで長大な体系を気付いたなぁすげぇなぁという感じの印象で、哲学的に面白いかというと微妙というのが最近の自分の受け取り方
たまに親戚と話して思うのだが、やはり世間の平均的な人々は本当におつむが。。
別に批判するつもりではなくて、世の中そういうもんだから、そういうの忘れないようにしないとな、って思った
ていうか、親戚界隈と接する度に思い出させられる
昔よりは今の自分の方がマシだというのはどの時期をとっても言えると自分では思うけれど、不安drivenの人間なのに最近不安がかなり消えてしまった(←これ何度も言ってるけども)のは結構な転換点な感じ
もうちょっと積極的にじたばたするべきなんだろうか。
特に具体的な不安や義務感が起こるような事情もなく、積極的な目標も定められてないような状況で、取り留めもなく将来に思いを馳せると、自分はいつ何処でどんな風に老いて死んでいって、それまでに何ができて何をしたいのだろうという、とても漠然とした抽象的なところにまで飛躍するというのはある
たとえば明日で人生が終わってしまう場合と50年後で人生が終わってしまう場合とを比べるとして、どんな違いが生まれるのだろう、といったような
人間世界のパラレルワールドとしての河童の世界を描いた芥川龍之介『河童』に、腹のなかの胎児に生まれてきたいかどうかを訪ねて、その胎児は生まれたくないと答え、腹は萎んで胎児はいなくなってしまうという場面があった覚えがある
前田敦子、地味なかわいい女の子役が非常に合っている
もともとが台無しになりそうでどうしたらいいか分かんないような人生だったからここ数年の精神的・生活習慣的な改善で飛躍的に生きやすくなったことは確かなんだけどやはりまだ工夫の余地がいくらでもある
本当にツイ禁しちゃうのですか。 — わかんないですけど、ツイ禁する「べき」であることは確か。なんとなく生活の風向きが変わってきたのでここでいくべきじゃないかなぁと思ってます。 http://ask.fm/a/ca66i96h
ツイッターが自分にとって最近は何になってるのか考えてみたのだけど、たぶん居心地の良い雑談場所という側面が強いので、無意味とは言わないけど居続けるとずっと居続けられることになってしまいやばい
昨夜から今日にかけて何か一気に気分が変わってるぞ……

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