2024年12月21日土曜日

裁判

2003年の唐沢寿明主演のフジテレビのドラマ『白い巨塔』では、「医療ミス」をめぐる裁判が後半に出てくるのだけど、それを見ていて思うのは、裁判ってあらゆる人を不幸に巻き込むのだなということ。

それでも裁判以外に納得する方法もないし紛争解決の方法がないから裁判をやるわけだけども…。

最近、ある事件が高等裁判所で逆転無罪になった判決が話題になっている。

これは、事実に関する争いというよりは、「同意があったかどうか」ということをめぐる法律的評価に関する争いだった。

それでまぁ、色々飛躍すると、法律って本当に闇だなと思う。。。。

2024年11月5日火曜日

励まされるセリフ

 励まされるセリフ。苦境に立たされている人が、いかに現実と対峙するか。

①鋼の錬金術師1巻の「立って歩け 前に進め お前には立派な足がついてるじゃないか」。恋人をなくした天涯孤独の若い女性が、死人を復活させられるという教祖にすがりついて生きてきたのだけど、教祖がペテン師だと分かって絶望した時、主人公のエドがその女性にかけたセリフ。確かにエドは、錬金術を研究して亡くなった母親を復活させようとしたら逆に腕と脚を失ってしまったという、過酷な絶望を経験してきてはいるのだが…。

②名探偵コナン29巻の「逃げるなよ灰原… 自分の運命から…逃げるんじゃねーぞ」。灰原は、端的にいうと自殺しようとしたのだが、コナンがギリギリのところで命を張ってそれを救い、こういった。これはのちに灰原の「あなた言ったじゃない…逃げるなって…運命から逃げるなって…守ってくれるんでしょ?」という決意のセリフへもつながった。

③ファイナルファンタジー10の「悲しくても……生きます。生きて、戦って、いつか、今は変えられない運命でもいつか……必ず変える。まやかしの希望なんかいらない。」というユウナのセリフ。

ユウナの一行は、世界各地で暴れて自然災害のように街を破壊し人々を殺している「シン」を倒すために、長い旅の果てにユウナレスカに究極召喚を授かりにきたのだが、究極召喚ではシンを一時的にしか止められないということがわかった。

究極召喚はそれと引き換えに召喚士は死ぬというもので、ユウナは自分の命と引き換えに世界を救うというつもりでここまで来ていたけども、そういうやり方では世界は救われないということがわかった。

「究極召喚は希望であって、希望がなくなったら生きていても悲しいだけだ。他の召喚士もみんな希望のために死んでいった」というユウナレスカに対して、ユウナはそのような形で、「まやかしの希望」でしかない究極召喚は使わないという決意の言葉を返した。

RPGなので、その後ユウナレスカが「あわれな、それならばここで終わりにしてやろう」みたいなことを言ってボスとして戦うことになるのだけど…。

命をかけて求めてきた「希望」が「まやかし」だったと知った時に、それでもあきらめようとはしなかった。生きることと死ぬこと、希望と絶望が交錯している。

2024年11月4日月曜日

暗い人

暗い人が好きだ。男女関わらず、ね…。

なぜかって、世の中は本来暗いもののはずで、だから、暗い人というのは世の中の真実を捉えられているから。

これは、誰だって悲しいときはあるとか、一見うまくいっていそうな人でも実はつらい事情があったりする、というような話とはまったく関係ない。

そういうことではなくて…世の中の暗さを自然と直視せずにはいられない人、ということ。

ここまでで終わりにしたいのだけど、最後に一つ付け加えると、そういう意味において中島みゆきは良いのである。

2024年10月30日水曜日

SNSについて

僕が初めてSNSを始めたのはmixiだった。その頃は浪人生で、牧歌的で…僕の投稿を見ていたのはせいぜい数人程度だった。

mixiはそのまま続いて、大学生になってからは、「mixiをやっているか?」がみんな挨拶のようになっていた。マイミク(mixiで繋がっている友達)の人数というのは多少は強迫観念になっていたと思う。その後Twitterが台頭して、みんなmixiは覗かなくなり…mixiはいつの間にか衰退していた。

僕にとってはmixiやTwitterは、拠り所であり続けた。この二つのSNSがあったおかげで、僕のことを「面白い人」「興味深い人」と認識してくれるに至っている人は、少なくないと思う。特にTwitterについては、このおかげで色んな人間関係もできた。色んな話題でかなりストレスが溜まった時期もあったが…。この二つがなかったら人生どうなっていただろうか。

今日もなんとなく書き始めてみたけど特に着地点が見つからないな…ただまぁ、自分の人生にとっては「SNS」という一言では尽くせない切実なものが詰まっているものではある。

2024年10月28日月曜日

感情と感覚

昔、臨床心理士さんに「失感情症」「失体感症」という言葉を教えてもらったことがある。感情や身体感覚を感じづらいために生活に支障が出ている状態ということだと思う。この二つの概念は、この10年弱流行っている「発達障害」などと比べると、マイナーだと思う。

マイナーなだけに、これを言われた時に僕はすぐに「自分はそういう状態だったのか」とすぐに納得した。発達障害の場合、誰も彼もが「私も発達障害なのかも」とかって言っていて、流行りだから逆に僕は怪しむのだけど。

でも、よくよく考えると、元々特に男性って「感情や感覚を感じるのはダサい」って教え込まれるようなところがある。そしておそらくは「感情や感覚は感じるべき」というのは、普遍的真理というよりは、現代になって出てきたトレンドである。

僕は「発達障害」というのもある種のトレンドとしてクローズアップされてきていると思っている。

ということは、「失感情症」「失体感症」もトレンドで、ただ、マイナーなトレンドなので、自分はすぐに信じ込んでしまったということなのかな。

一家言ある人とか専門家の皆さん、たとえばDSMが云々とか言わないでくださいね。そういうのを批判したいので。

2024年10月27日日曜日

おもいきり泣いたら 昨日までのことは全部忘れよう

 グロリアスマインド

ZARDの坂井泉水さんは2007年に40歳で亡くなったが、生前の最後の曲がこれ。このブログ記事のタイトルは歌詞の一節。歌詞は英語になっている部分が多いけど、おそらくそれは、歌詞のすべて書き切る時間がなく仮の収録にしたから。


坂井泉水さんは、2000年(33歳?)の時から子宮筋腫などの病気が次々と見つかり、2006年に子宮頸がんが見つかり、2007年4月にがんの肺への転移が見つかり、5月下旬の早朝に入院中の病院のスロープから転落死した。伝えられるかぎり、転落死というのは本当に事故。今の僕はもう、坂井泉水さんが最初に病気が見つかった頃の年齢を超えてしまった…


YouTube欄のコメント欄の記述を、動画も消えちゃうかもしれないし、コメントも消えるかもしれないので、そのまま引用させていただこうと思う。


「体調が優れない中 でも、どうしてもサビの部分を歌わなくてはいけなくて、 病院からお母さんと一緒にスタジオに来て、 一人では立てないような状態で、周りも「ちょっと無理かな」と思っていた瞬間、 まるで全盛期を思わせるような、 力強い歌声を披露して、スタッフは体の震えが止まらなかったそうです。まさに 坂井泉水さんの全身全霊を込めた歌声だったのかもしれないですね。」


7年間に及び病気と闘っていて、基本的にはおおむね悪化傾向ということだったのだろう。無念さ、悔しさはたくさんあっただろうな…。でも、この7年間の曲や歌詞は、まったくそういう雰囲気は感じない。そういう空気を感じさせないままに最後まで前向きに歌い続けたということは励まされることだと肯定的に解釈したいと思う。生前は、病気のことは詳しくは知られていなかったはず。


がんが肺へ転移したとなると、どの道先は長くなかったのかもしれない。


「負けないでもう少し 最後まで走り抜けて」


一番有名な代表曲のフレーズのこれのように、自分にも言い聞かせていたかもしれないよね。

2024年10月25日金曜日

傷について

 「大なり小なり誰だって傷を抱えて生きているのだ、とも思う。あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない。あなたのことはあなた自身が定義するべきなのだから。」


これは三浦瑠麗さんが『孤独の意味も、女であることの味わいも』の終章(pp.138-139)に書き記していたもの。この本はエッセイだけど、ひとつには彼女の性被害の体験も中に収められていて、クローズアップ現代に三浦さんが出演した時などは、やはりその側面が取り上げられていた。

しかし、である。繰り返しになってしまうが、本人は、その本の中で「あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない」と言っている。そうだとすると、性被害の体験も、人生の中で、特別で特権的な意味の持つエピソードとしては書かれていないということになる(と思う)。実際そのように書かれている(と思う)。

いや、しかし、である。「あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない」と意識的に書き記さなければいけない程度には、おそらくは彼女も「出来事や外部」に定義されてしまいそうになっていたのだろう。でも、それに抵抗してこの本は書かれている。


三浦瑠麗さんは色々批判されるが、ここについては、このエッセイのこの部分は勇気をくれる話。誰だって傷は抱えているし、そういうことに振り回されては人生つまらなくなってしまうと、身をもって主張してくれているのだから。


(ただまぁ、男性の立場からそういうことを言うと政治的には問題含みかもしれず、「いや、重大な犯罪被害なのだから重大な出来事として受け止めるべきだ」となるかもしれない。)