2024年10月30日水曜日

SNSについて

僕が初めてSNSを始めたのはmixiだった。その頃は浪人生で、牧歌的で…僕の投稿を見ていたのはせいぜい数人程度だった。

mixiはそのまま続いて、大学生になってからは、「mixiをやっているか?」がみんな挨拶のようになっていた。マイミク(mixiで繋がっている友達)の人数というのは多少は強迫観念になっていたと思う。その後Twitterが台頭して、みんなmixiは覗かなくなり…mixiはいつの間にか衰退していた。

僕にとってはmixiやTwitterは、拠り所であり続けた。この二つのSNSがあったおかげで、僕のことを「面白い人」「興味深い人」と認識してくれるに至っている人は、少なくないと思う。特にTwitterについては、このおかげで色んな人間関係もできた。色んな話題でかなりストレスが溜まった時期もあったが…。この二つがなかったら人生どうなっていただろうか。

今日もなんとなく書き始めてみたけど特に着地点が見つからないな…ただまぁ、自分の人生にとっては「SNS」という一言では尽くせない切実なものが詰まっているものではある。

2024年10月28日月曜日

感情と感覚

昔、臨床心理士さんに「失感情症」「失体感症」という言葉を教えてもらったことがある。感情や身体感覚を感じづらいために生活に支障が出ている状態ということだと思う。この二つの概念は、この10年弱流行っている「発達障害」などと比べると、マイナーだと思う。

マイナーなだけに、これを言われた時に僕はすぐに「自分はそういう状態だったのか」とすぐに納得した。発達障害の場合、誰も彼もが「私も発達障害なのかも」とかって言っていて、流行りだから逆に僕は怪しむのだけど。

でも、よくよく考えると、元々特に男性って「感情や感覚を感じるのはダサい」って教え込まれるようなところがある。そしておそらくは「感情や感覚は感じるべき」というのは、普遍的真理というよりは、現代になって出てきたトレンドである。

僕は「発達障害」というのもある種のトレンドとしてクローズアップされてきていると思っている。

ということは、「失感情症」「失体感症」もトレンドで、ただ、マイナーなトレンドなので、自分はすぐに信じ込んでしまったということなのかな。

一家言ある人とか専門家の皆さん、たとえばDSMが云々とか言わないでくださいね。そういうのを批判したいので。

2024年10月27日日曜日

おもいきり泣いたら 昨日までのことは全部忘れよう

 グロリアスマインド

ZARDの坂井泉水さんは2007年に40歳で亡くなったが、生前の最後の曲がこれ。このブログ記事のタイトルは歌詞の一節。歌詞は英語になっている部分が多いけど、おそらくそれは、歌詞のすべて書き切る時間がなく仮の収録にしたから。


坂井泉水さんは、2000年(33歳?)の時から子宮筋腫などの病気が次々と見つかり、2006年に子宮頸がんが見つかり、2007年4月にがんの肺への転移が見つかり、5月下旬の早朝に入院中の病院のスロープから転落死した。伝えられるかぎり、転落死というのは本当に事故。今の僕はもう、坂井泉水さんが最初に病気が見つかった頃の年齢を超えてしまった…


YouTube欄のコメント欄の記述を、動画も消えちゃうかもしれないし、コメントも消えるかもしれないので、そのまま引用させていただこうと思う。


「体調が優れない中 でも、どうしてもサビの部分を歌わなくてはいけなくて、 病院からお母さんと一緒にスタジオに来て、 一人では立てないような状態で、周りも「ちょっと無理かな」と思っていた瞬間、 まるで全盛期を思わせるような、 力強い歌声を披露して、スタッフは体の震えが止まらなかったそうです。まさに 坂井泉水さんの全身全霊を込めた歌声だったのかもしれないですね。」


7年間に及び病気と闘っていて、基本的にはおおむね悪化傾向ということだったのだろう。無念さ、悔しさはたくさんあっただろうな…。でも、この7年間の曲や歌詞は、まったくそういう雰囲気は感じない。そういう空気を感じさせないままに最後まで前向きに歌い続けたということは励まされることだと肯定的に解釈したいと思う。生前は、病気のことは詳しくは知られていなかったはず。


がんが肺へ転移したとなると、どの道先は長くなかったのかもしれない。


「負けないでもう少し 最後まで走り抜けて」


一番有名な代表曲のフレーズのこれのように、自分にも言い聞かせていたかもしれないよね。

2024年10月25日金曜日

傷について

 「大なり小なり誰だって傷を抱えて生きているのだ、とも思う。あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない。あなたのことはあなた自身が定義するべきなのだから。」


これは三浦瑠麗さんが『孤独の意味も、女であることの味わいも』の終章(pp.138-139)に書き記していたもの。この本はエッセイだけど、ひとつには彼女の性被害の体験も中に収められていて、クローズアップ現代に三浦さんが出演した時などは、やはりその側面が取り上げられていた。

しかし、である。繰り返しになってしまうが、本人は、その本の中で「あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない」と言っている。そうだとすると、性被害の体験も、人生の中で、特別で特権的な意味の持つエピソードとしては書かれていないということになる(と思う)。実際そのように書かれている(と思う)。

いや、しかし、である。「あなた自身を、出来事や外部に定義させてはいけない」と意識的に書き記さなければいけない程度には、おそらくは彼女も「出来事や外部」に定義されてしまいそうになっていたのだろう。でも、それに抵抗してこの本は書かれている。


三浦瑠麗さんは色々批判されるが、ここについては、このエッセイのこの部分は勇気をくれる話。誰だって傷は抱えているし、そういうことに振り回されては人生つまらなくなってしまうと、身をもって主張してくれているのだから。


(ただまぁ、男性の立場からそういうことを言うと政治的には問題含みかもしれず、「いや、重大な犯罪被害なのだから重大な出来事として受け止めるべきだ」となるかもしれない。)